アジアの踊りその7

Israel

イスラエルの歌と踊りの役割

早瀬敏弘

 

作品「備忘録」の一コマ

 

作品「備忘録」の一コマ

 

作品「レクイエム」の一コマ

 

●文化芸術の源
 二月のイスラエルの空はどんよりしていた。それはこの国の置かれた国際的事情を物語っているようだった。岩肌や糸杉のありようには、なぜか胸がつまった。
 ユダヤ民族の悲運の歴史は彼ら自身が選んだ道だったのだろうか。望んだ道を歩んだのであろうか。
 本来ならば文化芸術の源となるべき民族だったのかもしれない。それはユダヤ民族が音楽、絵画などの芸術はもちろん、医学、科学、哲学、宗教など、あらゆる分野でその発展に貢献してきた事実を見ても想像できる。
●舞踊公演の視察
 一九八六年の冬、私はイスラエル国家の招待を受けて同国を訪問した。この国の舞踊公演を視察するためである。滞在中、キブツ・コンテンポラリー・ダンスカンパニーの創設者ユディット・アーノン女史に会った。アーノン女史はディナーに招いてくれた。
彼女は少女時代、あのアウシュビッツ強制収容所で過ごし、奇跡的に生還した一人である。淡々と過去を語るアーノン女史の横顔には希望の光が満ちていた。が、その腕には消すことのできない囚人番号のイレズミがあった。そのことについても彼女は手短かに話してくれたが、すぐにダンスの話に移った。日本公演の実現に対する熱い思いを語った。
 同ダンスカンパニーの踊りを見て心を動かされた。高い芸術性に富む舞台だった。この時に将来、同ダンスカンパニーを日本に招聘セへいソすると心に決めた。一九九五年九月の初来日公演はこうして実現した。
●記憶を造形する作品
 それまでイスラエルのダンスはほとんど日本では知られていなかった。しかし、一九九五年五月、振り付け家のニル・ベン・ガルと舞踊評論家のガビ・アルドールが講演とワークショップを行なって知られるようになった。
 一九九五年九月と二〇〇〇年九月、同ダンスカンパニーが東京、前橋、つくば、横浜など七都市で来日公演を行なった。とりわけホロコーストをイメージした作品「備忘録」は好評を博した。専門家から予想外の評価を受けた。
 舞踊評論家の福田一平氏はこう評した。
「どこか哀感のある歌声、衝撃音をともなった現代音楽、訴えるように流れる言葉、それらが空間をふるわすように切々たるメッセージとなって語りかけてくる。すごい精神の舞踊である」(東京新聞夕刊九五年十月四日付)。
 評論家の貫成人氏はこう書いた。
「叙情的な弦の響きのなか、地面から立ち上がるような男のソロ。追憶の悲しみが舞台を満たす。ふたたび『伝道の書』(聖書)の朗読。そこだけ青い光に満たされた舞台の中景に、白い服の人々が現れる。幾何学的な、そろった動きを静かにこなす、非人称的ともいえるたたずまいの彼らは、すでに地上とは別世界の存在である」
「ラミ・ベール(芸術監督)は過去の出来事やその結果の悲惨を直接訴えるわけではない。戦後生まれの彼が作品にしたのは、散々語り聞かされたに違いない、大戦中の出来事の記憶である。『エイド・メモア(備忘録)』は、アウシュヴィッツについての作品ではなく、伝えられた記憶についての作品、悪夢と見まごう記憶を造形する作品なのである」(月刊「ダンス・マガジン」誌二〇〇〇年十二月号)。
●歌と踊りの役割
 創設者のアーノン女史は戦後、ハンガリーのブタペストに移住、そこでダンスを学び、避難民となったユダヤ人の子供たちを集めてダンスを教える。子供たちの心がダンスによって復興するのを見て、ダンスを一生の仕事にすると決める。
 一九五九年のある日、ガリラヤ地方にあるキブツ(独立自治共同体)のガトーンでささやかなダンス公演が開かれた。アーノン女史がキブツのメンバーに呼びかけて実現した公演である。これが同ダンスカンパニーの出発である。
 イスラエルでは建国運動の始まった頃から、歌と踊りが生活上で大きな役割を果たしてきた。特にキブツでは重要な意味をもってきた。
 周辺諸国との度重なる紛争。いつ起こるとも知れないテロの脅威。そうした緊張のなかで暮らすユダヤ人にとって、歌と踊りは魂を慰め、勇気を与えてくれる源泉であった。連帯を確認する媒体でもあった。その役割はこれからも変わらないであろう。
(早瀬敏弘/アルファ芸術協会理事)


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