トイレから見た8カ国

イラスト・文
内澤旬子

 

 

 

 

 

 

  ●トイレ二つのポイント
九六年から九八年にかけて青年コミック誌にアジア八カ国のトイレを描いた。バックパッカー作家の斎藤政喜さんに同行したのだ。
行ったところは順番に、中国、サハリン、インドネシア、ネパール、インド、タイ、イラン、韓国。やることは同じにもかかわらず、案外バラエティーに富んだトイレに出会うことができた。
 それぞれを比べるのに有効なポイントは、排泄後の肛門および尿道口を何できれいにするのかと、排泄物をどう処理するかの、二点。
●何で━━水か紙か
肛門及び尿道口の洗浄に使うものは水か葉か紙。アラビア半島の砂漠地帯では砂や丸い小石を使うという。
 水を使っていた国はインドネシア、ネパール、インド、タイ、イラン。かなり多い。イスラームとヒンズー教では身体についた不浄(正確には身体から出た不浄だが)は水で清めることになっているようで、お祈り前の作法のなかに排泄処理までが入っている。仏教にその教えはないはずだけど、タイでは水を使う。
 その国の経済状態や生活水準によって空き缶、柄杓、ジョウロなどからお湯まで出せるホースまでさまざまな道具がある。実際にやってみると、どんな道具を使っても、どうしても臀部が濡れる。日本のウォシュレットだって、温風で乾燥させるのは時間がかかるので紙で臀部を拭く人は多いはずだ。彼の地で紙を使うわけには行かないので濡れっぱなしで服を付けることとなる。慣れないととても気持ち悪いが、気温が高いとすぐに乾いてしまうので気にならない。ただしイランは冬になると雪が降るという。夏に訪れて本当によかった。零度近い土地で尻と下着を濡らすのは耐え難い。
ホースは肛門についた便を指で拭わなくて済むのでたいへん画期的だった。自分で狙いを定められる分、日本のウォシュレットよりも優秀。イランとタイの都市部にあったのだが、使い心地はホースの先に水を出すスイッチがあるタイ製に軍配を上げたい。もちろんイラン製でもなんの不自由もない。
●排泄物の処理方法
さて、排泄物の処理方法だが、どこも都市部では水洗化が進んでいる。個性が出るのは一昔前の処理方法が残る田舎のトイレ。@穴を掘ってする、A枯れ葉の中にして交ぜる、B水上にして魚に食べさせる、C豚に食べさせる、D鳥に食べさせる、といったところだろうか。枯れ葉に混ぜたり穴にする場合は、後で畑の肥料として活用する。ただしロシア人(西洋人全般も)にはその習慣がない。
 サハリンでは在留朝鮮人達が人糞の肥やしを使うことをロシア人が馬鹿にするという構図があった。ロシア人はわざわざ高いお金を出して肥料となる牛糞や馬糞を買って畑に蒔レまロいていた。物価が高騰するサハリンではたいへんなことだ。昆布や辛ラーメンなど、朝鮮半島の食生活はいろいろと取り入れていたロシア人だが、これだけはゆずれないようだった。
 魚はインドネシア、豚はネパールとタイの山岳地帯で出会った。インドネシアのトイレ付き養魚池の魚はすこぶる美味であったが、数日後に激しい下痢に襲われた。この魚が原因かは不明だ。
●美しきリサイクル━━最後は人の口の中へ
 豚に関しては中国、韓国のチェジュ島、沖縄などにもあるという。
 ネパールで訪れた場所はライ族のブン村。ほんの数年前まで一階が豚小屋で、二階の床穴から排泄するというトイレがあったそうだが、中央政府からの衛生指導によって廃止され、普通の竪穴式のトイレが代わりに設置されていた。豚は高さ七〇センチ程の石垣で囲んだ場所で飼われていて、そこもトイレとして使われているとのこと。石垣にのぼって豚に向かって排泄する。囲いがないので夜に使用した。豚は歓喜の雄レおロ叫レたけロびをあげ、心底おいしそうに音をたてて食べた。しかももっともっとと、石垣に前足を掛け、身をよじりながら人の肛門に迫って来る。一瞬頭から血が引いて、石垣の中に落ちそうになったが、なんとか踏みとどまった。いやいや食べさせられていたのではなく、豚は人糞が好物なのだ。ようやくイスラムなどいくつかの宗教が豚肉を不浄として食べないということを納得した。翌日確認のために牛糞をやってみたが、お義理で口をつけたと言う程度で、歓喜の雄叫びもなし。嫌悪を通り越して愛情が沸く。
もちろんこれらの豚や魚はある程度成長したら人間の食料になる。
 ネパールの豚は固い脂肪ばかりで不味かった。日本の豚肉とは似ても似つかない。いずれにせよ不要物を片付けながら生長し、最後には人間に食べられ役に立ち、墓も不要、という仏教的に言えば最高の生き方を具現しているような気がしてならない。
●女子トイレ
さて、この取材で筆者に課せられた役目は、トイレを描くことの他に、斎藤氏が見ることができない女子トイレを見ることだった。ヒンズー教圏のネパールとインドでは女性専用の小便器を発見し、お蔭様で面目躍如となった。ヒンズーでは大便と小便とでは不浄のレベルが違うため、便器を分けて、小便を気楽にできるようにしたのだ。ただしこの便器も、西洋式の便器の台頭と、ヒンズー習慣の簡略化によって、いずれは消えるものと思われる。
どの国に行っても女子トイレは一種独特の解放感がある。共同浴場と一緒で、地域の女性の社交場になる。インドネシア、ジャカルタのスラム街にあるMCKと呼ばれるトイレでは、トイレとシャワー、洗い場が一つの建物のなかにある。服や食器を持ち込んで、女性は洗い場に集まり、子供同士遊ばせながら手と口を忙しげに動かしている。イランのモスクの中にあるトイレは、礼拝前に体を清める習慣から、個室トイレを出たところに大きな泉がある。そこで身にまとった黒いヘジャブやチャドルをはずして一息ついておしゃべり。ここだけは自宅以外で髪の毛をしまい込まなくて済む場所だからだ。
●絵にも描けない女子トイレ
 非常に不思議だったのは、イスラム圏のトイレでは汚物入れを見かけなかったこと。一体どこに生理用品を捨てるのか、尋ねてもゴミ箱としか答えてくれなかった。人糞まみれのサハリンの公衆トイレでも、床の上まで糞がちらばっていても、使用済み生理用品は落ちていない。だいたいどこの国のどこの民族でも、便と経血では不浄のレベルが大きく異なり、経血をより神経質に日常生活から遠ざけるようで、トイレに入っても目にすることはない。
ただし唯一の例外がある。
中国だ。個室でなく仕切りだけだったり、お互い顔を見てしゃべりながら用を足したりと、便に対しても大らかで話題に事欠かない国だが、実は、生理用品に関してもすごい。汚れた面が見えないように折り畳んで紙にくるんで捨てるなどという習慣はない。汲み取り式の穴の中に、どーんとそのまま捨ててある。溝式水洗トイレでは、溝の中にいくつも浮いていた。流れるわけがないので水流も止まり、糞尿も溜まる。まさに地獄絵図。某有名大学の女子寮のトイレだ。
シェンヤン駅の女子トイレはコの字に溝が切ってあり、小さな仕切りだけ。私が陣取った後に二人の女子服務員が来て、一人が私の隣、一人が向かいに陣取った。向かいの女性はもう一人と顔を合わせてなにか大声で喋りながら勇ましく下着をおろす。見たくなくても目に入ってくる。彼女はパシッと下着から生理用品をはぎ取り、チラと一瞥してポイッと汚物入れにそのまま投げ捨てた(ここのトイレには仕切りごとに汚物入れがあった。蓋はないけど)。もちろん顔は向かいの女性に向けたまま、である。
 宗教観や不浄観など差し挟む余地などない。トイレを出て、食堂でパオズを食べようとしたが、どうしても食べられなかった。トイレの豚を捌レさばロいてもらって喰った自分がである。斉藤氏に報告することもできなかった。女の私がこれだけゲンナリするのだから、男性にとってはもっとつらいだろうと思ったからだ。
 今思い出してもゲンナリする。仕切りトイレだけならば平気なのだが。トイレのコスモポリタンを目指していたが、経血さらけ出しだけは容認できない。今となっては、自分の中に、日本人らしい?潔癖な部分を発見できたので、少々嬉しくもあるけれども。
 これもトイレの持つ機能の重要な一面なのだし、女性ならばその地に行けば、対面せざるを得ない問題なので記してみた。男性読者諸氏をゲンナリさせてしまったのなら、
心からお詫び申し上げたい。

内澤旬子 共著「東方見便録」斉藤政喜/文 小学館

 

アジアのトイレその1
その2
その3
その4

トップページへ戻る