中国映画

近いけれど、届かない楽園

竹内牧子



今から二〇年近く前、中国を旅したときのことだ。ワゴン車で北京市内を移動中、所用を済ませに出た知人を、ひとり車内で待ったことがあった。外国人が珍しかったのだろう、車の周りにはたちまち、こんもりと黒山の人だかりができた。四方の窓は興味津々といった面持ちの顔々で覆いつくされ、泣きそうになったのを覚えている。
 中国の人口の膨大さは、一三億人という数字より、私にはあのとき窓越しに見たたくさんの顔で実感される。頭セあたソ数セまかソがセずソ多ければ、それだけ激烈な競争が生じ、必然的にわずかの勝者と多数の敗者が存在することになる。
「ルアンの歌」はそんなあまたの、夢破れし夢追い人の物語である。
 同じ村から都会へと出てきたガオピンとトンツー。兄貴分ガオピンは、裏組織に属しヤバイ仕事に手を染めながら、いつの日か大成することを願っている。弟分トンツーは、波止場でてんびん屋=i担ぎ屋)として働き、コツコツお金を貯めている。そんな二人の前に、ひとりの女が現れる。
 ルアンホンはナイトクラブの歌手で、自分の歌がテープになって発売されることを夢見ている。ガオピンは自分を裏切った男の居場所を聞き出すため、彼女と関係を持つ。ルアンホンは、誘拐から始まったガオピンとの関係だったが次第に彼に愛情を感じ始めていく。そんな二人の少し奇妙な関係を、憤怒と憧憬の入り混じった眼差しで見つめているのがトンツーだ。三人それぞれに胸に夢を抱き、都会へ流れ出た。けれど、厳しい現実は彼らの希望の火を簡単に吹き消してしまう。属する組織のボスに裏切られ、姿を消すガオピン。いつになっても歌がテープにならないルアンホン。二人はいっしょに逃げようとするが、失敗。トンツーはルアンホンに淡い思いを感じているが、それを言葉にすることができない……。
 作品の原題は、「So Close To Paradise」。手を伸ばした、すぐその先に楽園はある。でも、届かない。ルアンホンはナイトクラブでこんな風に歌う。「あなたが私に残したのは、ちらかった紙きれ。あなたの愛した楽園で、私のこの歌を聴いて」彼女の歌は、夢に敗れて都会の仇セあだソ花セばなソとなった者たちへの鎮魂歌のようだ。光と影とを巧みに映しとる、ワン・シャオシュアイ監督の映像がまたすばらしい。ラスト五分のくだりは、「だれもいなくても、私はいつもあなたを見ています」という感じで、ほっとさせられた。

■ストーリー
 八〇年代末の中国、経済の急激な変化によって、多くの人間が富を求めて地方から都市へと出てきた。ガオピンとトンツーも夢を求めて、同じ村から街へ出てきていた。ガオピンは自分を裏切ったスーウーの居場所を聞き出すため、ルアンホンをトンツーとともに誘拐する。しかしガオピンとルアンホンは恋人同士となり、トンツーはそんな彼らを複雑な思いで見つめている。スーウーの居場所を教えようとしなかったルアンホンだが、最後にはスーウーの住所を書き残し、ガオピンの前から姿を消すルアンホン。スーウーを見つけ、ボスとも争いを起こして、窮地に陥り姿を消す。ともに逃げようと約束するガオピンとルアンホンだったが……

ルアンの歌
98年/中国/90分
監督■ワン・シャオシュアイ
出演■ワン・トン/シー・ユー/グォ・タオ/ウー・タオ
●12月よりキネカ大森にてロードショー

 

 

美術館の隣の動物園
韓国の若者達の微妙な恋愛心理

小野妙子


 【ストーリー】チュニは結婚式場で働くビデオカメラマン。彼女は代議士のインゴンに密かに思いを寄せていた。また、彼女はシナリオライターを夢見て脚本を応募するため、締切間近のシナリオを書いている。ある日、彼女の部屋に突然やって来た男は、兵役休暇中のチョルス。前の住人だった恋人・タヘの部屋を訪ねてやってきた。しかし、タヘはチョルスが兵役の間に別の男と婚約を決めてしまっていた。彼女は行くところがないチョルスと休暇中の十日間だけの共同生活をはじめる。しかし、二人の間に喧嘩は絶えない。几帳面なチョルスに対し、掃除はしない、コップは使わずペットボトルをラッパのみ、化粧もしない歯も磨かないチュニ。
 チョルスはチュニの脚本を読み、本当の愛を知らないチュニのラブストーリに対し、口を挟む。やがて、ふたりは共同でひとつのシナリオを書き上げていく。
 
 映画はその国の社会状況や人々の生活を映し出す。この「美術館の隣の動物園」では韓国の若者達の恋愛心理を垣間見ることができる。この映画の舞台設定として大切な役割を果たしているのは「兵役」である。チュニとチョルスが、少しずつ惹かれあっていく期間は兵役休暇中のわずか十日間。また、チョルスがタヘに振られるのは彼が兵役中の出来事である。兵役義務のない私には分からないが、韓国の若者達にとって兵役とは避けては通れない恋の障害なのかもしれない。他にも、チュニはチョルスと対等であるために年齢をごまかす。これは儒教思想の強い韓国ならではである。私が一番好きなのは、普段は外見を全く気にしないチュニが、好きな男性に会えるとなると服を慎重に選び、髪もセットし、さらには「あかすり」に行くシーンだ。日本で言えばエステが近いと思うが、韓国では日常的に「あかすり」を利用しているのであろうか?身近な生活の中に存在する韓国らしさは私の想像力をかきたてる。
 
 監督は本作「美術館の隣の動物園」がデビュー作であるイ・ジョンヒャン。次々に新しい監督が生まれる韓国の中でも貴重な女性監督である。また現実と架空の二重構造によるストーリーの組み立て方は、計算されていて物語へと思わず引き込まれてしまう。脚本が青龍賞のシナリオ部門で入選したというのも肯ける。さらに彼女は女性特有のイライラした心情や揺れ動く恋心を繊細に表現している。女性が観れば「そうそう」と共感できるであろう。
 主演は「八月のクリスマス」で大スターへの仲間入りを果たした、シム・ウナ。そして彼女は今回の作品で今までとは違う平凡な女性を演じることで、女優としてさらに大きく躍進した。彼女が演じる女性、雑でずぼらな性格のチュニは、一歩間違えると誰の共感も得られない人物になり兼ねない。しかし、シム・ウナの魅力がチュニの性格を愛らしくさえ感じさせている。そして、共演者は若手注目株のイ・ソンジェと韓国の国民的俳優アン・ソンギ。彼らが脇をしっかりと固めている。
 この映画をみていると、少しずつ歩み寄っていく男女の心の動きにほのぼのとした気持ちにさせられる。働く女性に是非観ていただきたい。チュニの言動にハッとしたり、揺れ動く気持ちが懐かしかったり、羨ましいとおもえるであろう。そして見終わった後、疲れていたこころが元気づけられていることに気がつくであろう。 
 


1998年/韓国映画/1時間48分
監督・脚本■イ・ジョンヒャン
主演■シム・ウナ/イ・ソンジェ/アン・ソンギ/ソン・ソンミ

● 11月11日よりシネマ・カリテにて公開
● 全国順次公開予定

 

 

6ixtynin9シックスティナイン

タイ発、
コミカル・サスペンス・スリラー

タイ映画
99タイ115分
           竹内牧子


 雑居アパート。玄関のドアのナンバー・プレートはネジが弛セゆるソんでいる。だから、6号室はクルリと時計回りに反転、9号室になってしまうのだ。「シックスティナイン」は、このささやかなカラクリからはじまる物語。主人公トゥムは大金を間違って届けられる。大金はムエタイの八百長試合のヤバイお金。それを取り返そうとするムエタイ・ヤクザと格闘、彼らの死体をも同時に手にしてしまう。さらに偶然が重なり、ヤクザの対立グループや麻薬捜査の警官、同じアパートの女性をも混乱のドタバタ劇に巻き込んでいく。クルリひとつで、いいように踊らされる登場人物たちの様が滑稽でかつ面白い。しかしながら、程度の差はあれ、全て人間の営みとは単純な誤解や偶然に弄セもてソばセあそソれているようなものなのかもしれない。その渦中にいるから滑稽とはとても思えないだけで。おバカだなあ、と思えるのは物語の見物人でいるからなのだ。
 そんな、ブラック・ユーモアたっぷりの本作は、タイ発。国内では史上最多の五〇〇万人動員という偉業を成し遂げ、海外においても様々な映画祭で受賞を重ねたという。年間一〇本程度しか映画が製作されていない、かの国の状況下ではまさに画期的な出来事であったのだろう。
 タイ映画というと、ヤミ米を列車で運んで生計を立てる子供を題材に、タイの貧しい現実を直視した社会派の秀作「蝶と花」が浮かぶが、「シックスティナイン」にこれまでのタイ映画界になかった、新たな輝きを持った才能の誕生を実感した。タイのタランティーノ≠ニも評されるペンエーグ・ラッタナルアーン監督は、三八才。長くNYで学び、グラフィック・デザイナーとして活躍後、帰国。九七年の「ファン・バー・カラオケ」でデビュー、本作は二作目にあたる。
 導入部のテンポの良さ、色づかいの巧さ、アイロニー溢れる作風は、NY仕込みのなせる技か、はたまた敬愛するというウッディ・アレンの影響によるものか。毒と笑いの中にこそ、真実がある。それは時には、正攻法よりも威力絶大なのである。
■ストーリー
 不況でリストラされたOLトゥム。ある日、彼女の部屋の前にダンボールが置かれていた。その中にはなんと一〇〇万バーツ!箱を取り返しに来たムエタイの選手と争い、彼らを殺してしまったトゥム。彼女は偽造パスポートで海外へ高飛びを考える。新たなムエタイ・ヤクザ、警官、アパートの住人が立て続けに部屋にやって来て、気がついたら彼女の周りは死体の山。偶然が偶然を呼び、事態は混乱を極め、想像もつかないようなクライマックスへとなだれ込む……
監督・脚本・製作■ペンエーグ・ラッタナルアーン
      出演■ラリター・パンヨーパート、タッサナーワライ・オンアーティットティシャイ、ブラック・ポムトーン、シィータオ
●12月中旬よりシネマスクエアとうきゅうにてロードショー

 

 

ヤンヤン夏の思い出
「a one & a two」

台湾・日本合作映画
人の心の美しさに涙が零れた…今世紀最後の感動作

小野妙子


八歳の少年ヤンヤンには昏睡状態の祖母がいる。ヤンヤンの家族は医者の指示で祖母へ話しかけることになった。しかし、話すのは普段の生活で何げなく行なっているのに、ずっと黙ったままの祖母が相手となると、思うように言葉が出てこない。なぜなら、嘘や適当な会話をする意味がないからである。だから、彼らは自分たちの気持ちを正直に話す。そうしていくうちに、それぞれが自分の心と向かい合いはじめる。
 ヤンヤンは人の背中の写真を撮る。目には見えない側面を知るために。それらは彼なりに疑問へと向かい合っていることを表している。ヤンヤンはカメラを首から下げて、リュックサックを背負い、未知の世界を知ろうと出かける。毎日新しいことを純粋に経験しようとする彼の姿は、子供の頃の自分と重なる。
 原題「a one & a two 」とは「人生で起きることのいくつかは1+2のようにとても簡単だ」という意味が込められている。この言葉は毎日悩みを抱えて生きている私たちの心に突き刺さる。現代社会という何でも複雑化された時代で、仕事のストレスや思うようにいかない恋愛に悩み「人生は複雑だ」と思い込んでいる。ああでもない、こうでもない、と頭の中で考えているうちにさらに混乱していく。しかし、この映画は「人生は一度きり。毎朝、目を覚ますたびに新しい一日が始まる。すべて新しいことの始まりなのだ」と語りかけてくる。私もこのメッセージを自らに問いかけていくうちに少しずつ理解することができた。明日が今日と違うのは当然で、変化を恐れていては前には進めない。だから、そこから逃げないで正面から一つ一つ乗り越えていくしかないのだ。それに気づいたとき、凝り固まった頭と力んでいた肩の力がほぐれたような気がした。
 静かな音楽と安定したカメラの回し方、登場人物と適度に距離をもった撮影方法。監督エドワード・ヤンはこうすることで美しい日常風景にやさしい空気とゆっくりとした流れを生み出している。いつのまにか観客は彼の思惑通り、ヤンヤンの家族をそっと見守っているような気分になる。そして最後には家族の一員となり心の中に感動が生まれ、目からは涙が零れ落ちてくる。
■ストーリー
 舞台は現代の台北。ヤンヤンは優しい祖母、友人とコンピュータ会社を共同経営している父のNJ(エヌジェー)、母のミンミン、そして高校生の姉ティンティンの五人家族で暮らしている。中流家庭で一家は平穏に暮らしていた。ところが、母の弟アディの結婚式を境目に一家にトラブルが起こり始める。
 祖母は脳卒中で昏睡状態に陥り、父は会社が倒産の危機を迎え、さらに偶然昔の恋人に出くわしてしまう。母は祖母が倒れて精神不安定になって新興宗教に救いを求め、山にこもる。姉は隣家の少女のボーイフレンドと交際を始め、ヤンヤンも恋心が芽生えようとしていた……

●父のNJ(エヌジェー)役は台湾で脚本家・監督・テレビの司会者、そして俳優としても活躍するウー・ニエンジェン。母ミンミンは「宋家の三姉妹」のエレン・ジン。父に大きな影響を与える日本人ゲームプログラマーの太田を演じているのはイッセー尾形。彼の独特な個性と太田という魅力的な人物像がぴったりと重なり合っている。ティンティンとヤンヤンの子役は新人のケリー・リーとジョナサン・チャン。ティンティンの思いつめた表情、ヤンヤンの人や物を大きな瞳でじーっと見つめる眼差しは、今も心に焼き付いている。
監督・脚本■エドワード・ヤン
プロデューサー■河井真也、附田斎子
出演■ウー・ニエンジェン/エレン・ジン/イッセー尾形/ジョナサン・チャン/ケリー・リー
2000年/台湾・日本合作/2時間53分
第53回カンヌ映画祭 監督賞受賞作品
12月16日より渋谷シネパレス/横浜シネマ・ジャック&ベティー
12月23日より埼玉LシアターMIO(ネバーランド春日部内)にて公開
全国順次公開予定

 

 

ムロ・アミフィリピンの秀作映画

弱くも美しい魂への温かさ
人間への肯定と信頼    石井里津子

ムロ・アミ
フィリピン/GMAフィルム/2000年/カラー/117分
監督■マリルー・ディアス=アバヤ
脚本■リッキー・リー、ジュン・ラナ
撮影■ロディ・ラカップ
音楽■ノノン・ブエンカミーノ
出演■セサール・モンタノ
ペン・メディナ
ジョン・ヒラリオほか



 今年も東京・渋谷で十月二八日〜十一月五日、第一三回東京国際映画祭が開催され、熱い映画の風が吹き荒れた。その一環としてカネボウ国際女性映画週間が開かれ、女性監督をはじめ、八カ国の女性映画人の作品が上映された。そのなかの一本、フィリピンのマリルー・ディアス=アバヤ監督の「ムロ・アミ」を紹介したい。

 舞台は、フィリピンの碧い海。手に手に石をもった子どもたちが、素潜りでサンゴをたたき砕きながら、身を潜めている魚を追い出していく。大人たちは網を見事に操り、その魚の群を網に追い込む。ムロ・アミ漁だ。
 もともとは沖縄の方から伝わったものらしい。サンゴを破壊し、長時間幼い子どもに過酷な労働を強いるこの漁は不法であるにもかかわらず、いまもフィリピンで続けられているという。実際、メインキャスト以外は、本物の漁師たちが出演しているというだけにドキュメンタリー的雰囲気も感じさせる。
 マリルー・ディアス=アバヤ監督は、ムロ・アミ漁を舞台に、力強い映像で、人間のエゴと自らの人間への信頼をドラマティックに描き出していた。ダイビングを趣味とし、水中撮影を得意とするというアバヤ監督だけに水中の映像が印象的である。
 アバヤ監督が描き出す海の中は、どこか天空のようでもあった。水中で水をかき分け移動する洗練された肉体の動き、たゆたう網、天から射す白き光、息の泡が無数にこぼれ、音が閉ざされた世界……。そこは、人の心の奥のようでもあり、神の世界でもあるかのように感じられた。
 ものがたりは決してハッピー・エンドではない。ムロ・アミ漁船アウロラ号の親方ブラドが、大勢の子どもたちを雇い航海に出るが、大漁を夢見て、子どもたちに日に幾度となく海に潜らせ続ける日々。あまりの強引さからか魚は捕れず、苛立ちはつのり、過酷な労働に逃げ出す子どもたちまで出、船は航路を迷い、裏切りが起こって……。
 が、ラストは、アバヤ監督の人間観が全面に押し出されている。そこには人間への絶対的な肯定、信頼がある。悲しい結末でありながら、監督が、人間を信頼しているからこそ、明るい夜明けが観客の心のなかにも訪れる。
 ものがたりもさることながら、人間の弱くも美しい魂を、静かに輝く水中の世界に重ね合わせた映像や労働に駆り出される大勢の子どもたちへの共感が込められた映像に、限りない温かさを感じずにはいられなかった。

 

 

 

アジア映画
その1
その2
その3
その4
その5

 

トップページへ戻る