亜洲奈みづほのアジア映画紹介



いのちの子ども
010年/イスラエル・アメリカ映画/90分/2011年7月16日より「ヒューマントラストシネマ有楽町」にてロードショー



「今、命の価値を問う、心揺さぶる真実の物語」――そう銘うたれた本作は、紛争下において、敵・味方の隔てなく、小さなひとつの命を見つめる人々が描かれている。ただし決して、お涙頂戴の作り話でない、実在の赤ちゃんの生死がかかったドキュメンタリー映画であり、2010年のイスラエル・アカデミー賞で「最優秀ドキュメンタリー賞」を受賞した作品だ。

 舞台は紛争の絶えないイスラエルとパレスチナ。余命を宣告されたパレスチナ人の赤ん坊ムハンマドを救うため、イスラエル人医師ソメフ(ラズ・ソメフ)とTVジャーナリストのエルダール(シュロミー・エルダール)は、民族や宗教の対立を越えて、立ちあがる。その想いは、ただひとつ、「この小さな命を救いたい。」しかし行く手には様々な困難と、アラブ人のアイデンティティーと母親としての想いに揺れ動く母ラーイダ(ダーイダ・アブー=ムスタファー)の苦悩があった。

 尊いひとつの命を救え…!その前に横たわる、パレスチナとイスラエルの、あまりにも重い問題。逆に言えば、本作では、重病の赤ん坊を通して見える、パレスチナ問題が描かれてもいる。

 監督のシュロミー・エルダール自身は、これまで実際に、パレスチナの惨状をイスラエルに伝えるための取材を、ガザ地区の最前線で続けてきていた。そんな彼にとって、あまりにもショッキングなのは、パレスチナ人の母親の言葉であった。

「いつかこの子(注※赤ん坊)は、剣を手にエルサレムを解放する。」
 つまりパレスチナがイスラエルからエルサレムを奪回するための殉教者になってもいいという意味だ。イスラエル人が救おうとしているパレスチナ人の赤ん坊が、である。

 自分たちと闘ってきた敵方。イスラエル人の監督や医師はなぜ、わざわざ苦労して救わなければならないのか。逆にパレスチナ人の赤ん坊は、なぜ助けられなければならないのか。取材する側にも、される側にも、双方に葛藤はあまりにも大きく、監督は一時、本作の制作の中止まで思いつめたという。

 驚くべきは、現実に、パレスチナ人の赤ん坊への骨髄移植手術の資金を寄付した篤志家は、息子をパレスチナとの戦いで殺された、イスラエル人であったという。一方で、パレスチナ人の赤ん坊が、イスラエル人の医師や篤志家に助けられることで、パレスチナ人の父母は、同じ民族から裏切り者扱いされてしまう。母親は、パレスチナとイスラエルの間で、板ばさみとなっていた。(間に立つ者は、いつもそうなのだ。筆者も体験したことがある、たとえばそれが日韓であっても日中であろうとも、架け橋というものは、1歩ずれれば、売国奴(ばいこくど)呼ばわりされかねないのだ!)

 その間にもイスラエルからはロケット弾が飛びかい、パレスチナではテロが続く。ちなみに本作の原題は『尊い命』。皮肉にも、一般的にイスラエル人は、パレスチナ人がイスラエルに惨殺されるニュースには見向きもしないのだが、もしも殺されたのがイスラエル人であれば、1人であっても大騒ぎとなるという。両者の命の重さが、これほどまでに違っても良いのだろうか。

「命が尊いのはわかる。でもあなたたち(注※イスラエル)は1度に何千人も殺す。」
 そんなパレスチナ人の母親の言葉が重い。

 最後に、本作では神という言葉が頻繁に登場する。「神の御意志だけど。」「思し召しよ。」アラー・対・エホバ。パレスチナ問題は、一体全体、どの神に委ねられているというのか。これは余談だが、イスラエル人とパレスチナ人がコミュニケートするさいは、いずれも相手の言語を使いたがらず、やむなく英語を用いることになる。双方から助けあおうとする人々ですら、このような状態である、その微妙な距離が痛々しい。せめてもの救いは、ラストシーンで、パレスチナ人の子供が、相手のイスラエル語(ヘブライ語)で、繰り返す言葉だろうか。
「トダ(ありがとう)、トダ(ありがとう)…。」

・筆者よりひとこと:「この世に尊い命と、そうでない命が、あっていいのか。」)(2011.6)

公式ホームページ:http://www.inochinokodomo.com



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亜洲奈みづほ(あすなみづほ)
作家。97年、東京大学経済学部卒。在学中の95年に朝日新聞・東亜日報主催『日韓交流』論文で最優秀賞を受賞。卒業後の99年、上海の復旦大学に短期語学留学。2000年に台湾の文化大学に短期語学留学。代表作に『「アジアン」の世紀〜新世代の創る越境文化』、『台湾事始め〜ゆとりのくにのキーワード』、『中国東北事始め〜ゆたかな大地のキーワード』など、著作は国内外で20冊以上に及ぶ。アジア系ウェブサイト「月刊モダネシア」を運営。