亜洲奈みづほのアジア映画紹介



『遥かなるふるさと 旅順・大連』
(2011年/日本映画/110分/2011年6月11日より「岩波ホール」にてロードショー)


写真提供:自由工房

 生まれ故郷の中国東北部を訪ね、時代の激動を見つめたシネエッセイ――そう銘うたれた本作は、記録映画作家の羽田澄子監督が、歴史への考察や人生への感慨など、自身の思いを綴ったドキュメンタリー作品だ。まずは読者のかたに、頭のなかで東アジアの地図を描いていただきたい。日本から朝鮮半島をまたいで届く先の中国大陸、黄海につきだす遼東半島の先端に、旅順と大連が位置する。この後者の大連では、終戦までに60万の人口のうち、約20万人を日本人が占めていた。(他ならぬ筆者の祖父母もまた、この地に居を構えたことがあり、奇遇にも羽田澄子監督の父君と同じ、「満鉄系の学校の教師や校長」を異動先で務めていた。つまり私の父のふるさとは、満洲である。)

 羽田澄子監督にとって「ふるさと」は何処かと問われると、子供から大人になる多感な時代を過ごした、旅順そして大連なのだ。旅順も大連も中国の土地であって、日本が統治していた時代のことを、ただ懐かしく思ってよい土地ではない。日清・日露戦争、40年にわたる日本の支配、さらに日本の終戦と、その後のソ連の統治といった、複雑な歴史を経ている。彼女は、この地への旅を通じて、日本人が知ることのななかった歴史を知ることとなった。

 監督いわく、
「旅順は私にとって“美しく、懐かしい思い出の地”です。しかし悲しいことに旅順を簡単に“懐かしい故郷”ということができません。何故なら旅順も大連も本来は中国の土地なのに、日本人が支配し、中国人は下積みの労働をさせられる社会が構築されていたのです。」

 こうした歴史が横たわるにもかかわらず、監督を含む友好交流後援会の一行が、旧・日本人学校の校舎を使う、現・中国人学校を訪れたさいに、中国人の校長先生は、来訪者1人1人を握手で迎えてくれた。さらには、訪れた旧家の住民たちは、突然の訪問を拒むことなく、快く室内まで見せてくれる。新しい住民の言葉は、
「故郷に戻ってこれて、良かったですね。」

 東北地方の人々の人情に、泣かされる。おりしも労働公園の一隅では、伝統楽器の演奏が、中国版「北国の春」のメロディを奏でていた。

 それにしても本作では、じつによく戦前当時の写真や地理と、その後の現在の姿とが、うまく重ねあわされている。じつは筆者も同じように、父の生家や祖父の務めた学校を訪ねようと試みたことがあるのだが、辺境であったせいもあり、手がかりが掴めずに、泣く泣く断念した経験がある。

「様子がすっかり変わってしまい…」

 そんなフレーズが、本作の随所に現れる。すっかり中国人向けに観光地化された旧跡、開発されてゆく街並み。「中国は驚くようなスピードで発展しています。」――それが「現代中国」なのだ。これは瓢箪(ひょうたん)から駒なのだが、故郷を訪ねるツアーの合間に、演出の手が加えられていない「生の暮らし・活きた街」が、かいま見える。部外者の観客にとっては、そんな中国の一面が興味深くもある。ただし関係者当人にとっては、故郷が発展してゆく喜びと、故郷が遠のいていくような寂しさが、ないまぜとなっているのだが。

 ともあれ撮影期間が、わずか数日間の短いツアー中であったにもかかわらず、本作には満洲への想いが、じっくりと凝縮されている。時空を越えた戦前の記憶が、重ねあわされているせいだろう。満洲への静かなる想いが、通低音として作品の底に響きつづけている。

 日本と満洲の間には、さまざまな歴史と葛藤が存在し、それに罪悪感をおぼえることもあった…それでも満洲はあのときたしかに存在した。日本人の遺伝子に組みこまれている満洲という地を、決して封印するのでなく、時には、しみじみと思い出しても良いのだと、筆者は励まされるような心もちとなった。

(筆者よりひとこと;「あの日露戦争の激戦地、軍港・旅順が、大々的に外国人にも開放されるようになった今、一緒に旅順ツアーを追体験してみませんか?」)(2011.4)


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亜洲奈みづほ(あすなみづほ)
作家。97年、東京大学経済学部卒。在学中の95年に朝日新聞・東亜日報主催『日韓交流』論文で最優秀賞を受賞。卒業後の99年、上海の復旦大学に短期語学留学。2000年に台湾の文化大学に短期語学留学。代表作に『「アジアン」の世紀〜新世代の創る越境文化』、『台湾事始め〜ゆとりのくにのキーワード』、『中国東北事始め〜ゆたかな大地のキーワード』など、著作は国内外で20冊以上に及ぶ。アジア系ウェブサイト「月刊モダネシア」を運営。