アフガニスタン

現代史

歴史と概略

 

ラシカルガの遺跡

 

バーミヤンの巨大石仏。2001.3月、タリバーンによって破壊されたと伝えられている

 

絨毯を織るアフガン女性

 

ガズニの遺跡・ ミナレット

 

アフガンの刺繍織物

 

アフガニスタンの男性たち

 

アフガニスタンのケシ畑

 

 

●女性の選挙権
女性の選挙権は、1964年以来認められているが、主要都市を除いてほとんど行使されていないのが実情だ。

 

●アフガン編み
 手編の一種。アフガンとはもともとウールの柔らかい毛のこと。これから転じて「畳編み」と言われ、織物のような手編の編み方を指す。棒針の先がカギ状になったアフガン針で、棒針編みとカギ針編みの技術を混合し、往復の二動作を繰り返して編んでいく。立体的で、変化に富んだ作品ができる。ヒザかけや毛布代わりの掛け蒲団に用いられたりする。

 

●道路事情
 アフガニスタンは山岳地であるため、道路条件は厳しい。標高が高く険しい地域では、積雪、雪崩、洪水によってしばしば道路が寸断される。道路はつねに補修が必要とされる。地域は孤立しがちである。鉄道はまだ敷かれていない。アメリカと旧ソ蓮の援助により、国を一周する道路が完成したが、内戦で未補修のままになっている。

 

●イラン側へのアフガン難民
 イランに出ているアフガン難民は1980年以後も増え続け、2000年9月の時点で、国連難民高等弁務官事務所UNHCRが把握している難民数は130万人、イラン政府は不法滞在者を含め、200万人と推定している。
 これら難民の一部はイランの建設現場や雪降ろし労働で低賃金で働き、失業率15%を超えるイランの労働市場を圧迫しているとされている。この問題の背後にはイラン人のアフガン人への蔑視もある。イラン国内の経済不振からアフガン難民に対する風当たりが強くなり、イラン国内からアフガン難民を帰還させようとする声が高まって、イラン政府とUNHCRは2000年2月にアフガン難民の自主帰還を促すプロジェクトを実施、半年間で約10万人が母国アフガニスタンへ帰還した。しかしタリバーンによる帰還者への圧迫も強く、再び難民となってイラン領内に戻るケースも少なくない。

 

アフガニスタン略史

アフガニスタンは祖先となるアーリア系民族の移住以後、古代からアジアとヨーロッパを結ぶ「文明の十字路」としての役割を果たしてきた。中央アジアへの入口としても重要な位置を占めている。
 遊牧民族であり、山岳系民族である彼らは、騎馬による戦いに長け、その民族史は勇猛さによって軍隊としての戦いの軌跡をも描いている。その略史を辿ってみよう。


B.C.7〜4世紀 アケメネス朝ペルシアの1州として栄えた。
B.C.4世紀 アレクサンダー大王の東征で、ギリシア・ヘレニズム文化の影響を受け、のちクシャナ朝時代に、仏教文化と融合したガンダーラ美術となって、仏像彫刻を産み出した。
B.C.3世紀 インドのマウルヤ朝アショカ王、各地に碑文を建立
A.D.2世紀 クシャナ朝の支配下に置かれ、この時代にバーミヤンの石仏が造られる
4世紀 ササン朝ペルシアが支配
5世紀 エフタルの侵入を受ける。
6世紀 西突厥、アフガニスタン支配
7・8世紀 イスラム勢力の浸透
977〜1186 ガズニ朝(アフガニスタン最初のイスラム王朝)
 北インドへの侵入を繰り返し、インドのイスラム化を促進
12〜13世紀 ゴール朝
122O モンゴル軍、アフガニスタン侵入
  アラー・ウッディンとその息子たちの軍、チンギス・ハーンの軍と戦う
  バーミアン包囲、破壊される。アフガン軍の猛烈な抵抗に遭い、チンギス・ハーンの破壊苛烈をきわめる。モンゴル軍、全アフガニスタン占領
15〜17世紀 チムール帝国、ムガール帝国による支配
1722 パシュトゥーン族のギルザイ族、イランに攻め込みサファビ朝の首都イスファファンを占領
1747 ナディール・シャー下のアフガン族部隊、故郷カンダハールに帰り、部族連合を結成。アフガニスタン建国(ドゥッラーニー朝)

●近代以後
19世紀初頭 ドゥッラーニー内部の勢力争い。バーラクザイ、統治権を得る。
1826 ドースト・ムハンマッド、王となる(以後1978年まで彼の家系が王位を継承)
 国家形成期。近代化派と部族保守派との間で激しい確執が続くが、近代化に成功せず
 ロシア南下政策でアフガニスタンへ動きを見せる。イギリスこれを警戒
1838-42 第一次アフガン戦争。アフガニスタン軍、イギリスを打ち破る
1878-81 第二次アフガン戦争。イギリス軍破れ、アフガニスタン支配を諦める
  イギリス、国王を援助。部族連合から専制国家へ脱皮
1919 第三次アフガン戦争。アフガニスタン軍、イギリスの疲弊に乗じてインドに侵攻
   イギリス、外交権をアフガニスタンに戻し、アフガニスタン独立。
1919-29 国王アマーヌ・アッラー、社会改革と経済開発を試みるが宗教家や部族長など保守派の反対で成功せず
1973 ダーウド、クーデターを起こし、アフガニスタン共和国成立
1978 4月革命、アフガニスタン民主共和国成立、タラキーによる親ソ政権成立
   ソ連と友好善隣協力条約締結。民族主義による反政府運動起きる
1979 9月アミン、クーデターにより政権奪取、穏健民族主義に回帰
   12月、クーデターでカルマルが立ち、ソ連軍アフガニスタンに侵攻、駐留
1980 反政府・反ソ民族抵抗運動が燃え上がり、各地でゲリラ戦闘が展開
1986 カルマル解任、ナジブラ政権樹立、大統領就任、アフガニスタン共和国となる
 八六年五月、カルマル革命評議長は解任され、秘密警察出身のナジブラが後継者となって、八七年十一月大統領となり憲法を制定、アフガニスタン共和国となった。
1989 ソ連軍の完全撤退
1992 反政府ゲリラ連合軍により、カブール占領、ゲリラ八派は連合して新政権を樹立
しかし各派の対立・抗争が深まり、分裂・解散して戦闘再開
1996 新勢力タリバーン、首都カブール占領、新政権樹立
1999 「タシケント宣言」採択
   国連、タリバーンに対し、経済制裁決議
2000 2年連続の旱魃に襲われる

■アフガニスタン現代史

━━ソ連侵攻以後、長期化する内乱

●ソ連軍進駐まで
 ━━左翼思想による近代化とイスラム民族主義の対立
 アフガニスタンの歴史は内陸という地理的条件と近代化およびイスラム民族主義という宿命に決定づけられている。
 一九一九年、イギリスから外交権を譲られて独立したアフガニスタンは、西洋化と国粋主義の間を振り子のように揺れ動いた。海を持たないアフガニスタンは、当時飛行機が未発達なため、西洋化を隣国経由に頼らざるを得ず、その帰結として、国粋主義に傾かざるを得なかった。
 第二次世界大戦後も、東西の緊張の間で非同盟中立を堅持してきたものの、近代化の問題をつねにはらんでいた。東西の隣国パキスタンとイランは当時西側陣営にあり、その対抗意識を保持しつつ、近代化を進めるには、南下する大国ソ連に近づかざるを得なかった。軍の若手将校の間に近代化とソ連接近への機運が広がっていた。
 一九七三年、ムハンマッド・ダーウド(王族・元首相)が、国王ザーヒル・シャーの外遊中にクーデターを起こし、共和制を宣言、大統領に就任した。国王はイタリアから退位の書簡をダーウドに送った。その後ダーウドは社会主義革命の名の下に、社会制度、税法、土地などの諸改革を断交したが、やがてソ連派の四人の閣僚を更迭し、閣議を王族化した。
 一九七八年、青年将校を中核とするクーデターが発生、ダーウド大統領とその一族の大部分が殺害され(四月革命/サウル革命とも)、アフガニスタン民主共和国が成立した。タラキーを首班とする、左翼的・親ソ的体制が建てられた(ハルク派副首相アミン、パルチャム派副首相カルマル)。
 しかし左翼体制はすぐにタラキーのハルク派とカルマルのパルチャム派の内紛が激化。カルマルをはじめとするパルチャム派は大使として外国へ飛ばされたり、追放されたりした。タラキは十二月にモスクワを訪問し、ソ連と友好善隣協力条約を締結した。
 一方、タラキーはマルクス主義に基づく土地改革など急進的政策をとったため、イスラム教主義を掲げる反政府ゲリラの活動が活発になり、政府軍と激しく衝突した。
 七九年三月に首相に就任したアミンは、民族派穏健路線をとり、さらに九月クーデターによってタラキーに代わって革命評議会議長に就任して、親ソ政策から離れようとした。
 これを見たソ連は一九七九年十二月武力介入し、帰国させたカルマルを立てて再びクーデターを発生させた。ソ連はこの動きとともに一〇万を越える大兵力をアフガニスタン国内に進駐させ、アミンは処刑された。しかしこれが反政府イスラム勢力に火をつけ、ゲリラ活動が全国的に展開、八〇年末には反ソ統一戦線が結成された。

●反ソ運動とソ連軍の撤退・社会主義政権の崩壊
 アメリカのパキスタン経由でのゲリラ側への軍事援助などを得て、反政府・反ソ連闘争は民族的広がりを持って燃焼した。内戦による難民は、パキスタンに三〇〇万人、イランに一〇五万人と膨れ上がり、同時にその難民キャンプが反政府ゲリラの温床になった。
 反政府ゲリラ戦士は自ら「ムジャヒディン(イスラム自由戦士)」と呼び、その戦いを「ジハード(聖戦)」と呼ぶ。三〇に及ぶその組織は八五年スンニ派の主要七勢力がアフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟IUAMを結成、シーア派も主要八派でアフガニスタン・イスラム連合評議会を結成したが、両派の溝は深く、反政府ゲリラ側も不統一などの問題が横たわったまま闘争が続けられた。
 八六年五月、カルマル革命評議長は解任され、秘密警察出身のナジブラが後継者となって、八七年十一月大統領となり憲法を制定、アフガニスタン共和国となった。
 アフガニスタンでのソ連軍の被害と軍事支出の累積は膨大なものになり(撤退時ソ連軍被害死者一万三三一〇人、負傷者三万五四七八人/軍事支出約九兆五〇〇〇億円)、ソ連は一九八八年アフガン和平に合意し、八九年二月に撤退を完了した。
 しかし撤退後のアフガニスタンは、政府軍と反政府ゲリラの軍事対立やゲリラ各派の対立などが残り、軍事的に膠着状態となった。暫定評議会(シューラ)も機能せず、結局軍事的決着に向かい、攻勢に転じた反政府ゲリラ側がカブールに迫り、九二年四月ナジブラ大統領は逃亡、カブールはゲリラ側が占領し、一四年続いた社会主義政権は崩壊した。

●各派の対立と分裂━━タリバーンの登場
 ゲリラ八派は連合して新政権を樹立したが、政権運営が実現する前に各派の対立・抗争が深まり、分裂。戦闘が再開され、事実上の無政府状態となった。
 ここに登場したのが、イスラム原理主義を標榜する新勢力タリバーンである。1994年成立したタリバーンは急速に勢力を拡大し、九六年には首都カブールを陥落させ、ナジブラ元大統領を絞首刑にした。九七年にはドスタム派の拠点マザリシャリフを一時制圧、さらに九八年、九九年の夏の大攻勢で、バーミアンなど対タリバーン勢力の拠点を次々に落とし、国土の九割を支配するにいたった。
 しかし反政府ゲリラ勢力の抵抗も強く、北部同盟などを結んで結束を固め、内戦状態が続き、九九年三月には国連の仲介でタリバーンとマスード元国防相が代表する反勢力が共同政権樹立で合意したものの、その後再び戦闘状態に入った。七月、「6+2」国会議(イラン、パキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、中国、アメリカ、ロシア)が開催され、話し合いによる解決を強調した「タシケント宣言」を採択したが、タリバーンの武力制圧が続き、内戦状態から抜け出す道はまだ明確に見い出されていない。
 九九年国連安保理事会はアメリカ大使館爆破事件の首謀者ビン・ラーデンをタリバーンがかくまっているとして身柄引き渡しを要求したが、応じなかったため、経済制裁措置に踏み切った。
 アフガニスタンは二〇〇〇年旱セかんソ魃セばつソに襲われ、二〇〇万人に飢餓の危険があるといわれている。
 二〇〇一年、チェチェン問題から経済制裁にロシアも加わり、タリバーンへの圧力を強めた。タリバーンは国際的孤立を深めている。
 二月一六日現在、北部同盟のイスラム統一党によって奪還された石仏の町バーミアンをめぐって新たな攻防戦が繰り広げられようとしている。

 

首都カブール

 

●タリバーン

 タリバーンは1994年、パキスタンにあるアフガン難民キャンプで、難民のための学校の学生たちムラー・ダウドを中心に結成された。「イスラム神学校学生および求道者」を意味するこの組織は、伝統的イスラム国家の建設を目的としている。最高指導者はムハマッド・オマル師で、活動後急速に勢力を拡大し、1996年首都カブール制圧後「アフガニスタン・イスラム首長国」を樹立した。
 タリバーンの政策は、厳格なイスラム原理主義に基づき、女性差別、裁判なし公開処刑など、民衆からの反感も少なくない。
 タリバーンは「女性に教育は必要ない」と多くの学校を閉鎖、女性を家に閉じ込めた。学校や政府関係のオフィスで働く多くの女性が職を失い、夫を失った母子家庭の収入も絶えた。また、テレビ、音楽、サッカーも禁止されている。
 その財政を支えるのは、パキスタン、サウジアラビアなどからの資金と麻薬ビジネスからの徴税だといわれる。
 国際社会においても、様々な点から問題視され、現在「アフガニスタン・イスラム首長国」を承認している国はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3カ国のみである。問題点は@アフガニスタンが現在年産4600トンものアヘンを生産し(全世界の75%)、それを資金源の一つにしていると想われる点、A98年アメリカ大使館爆破事件の首謀者オサマ・ビン・ラーデンを領内に保護している点、Bチェチェン、ウィグル、ウズベキスタンなどにおけるイスラム過激グループのテロリズムの温床となっている点などである。
 国連安全保障理事会はタリバーンにビン・ラーデンの引き渡しを求めたが、応じなかったため、99年11月より経済制裁措置に入った。
 一説には、タリバーンの背後にはパキスタン政府が存在し、タリバーン軍兵士の三〇%は外国兵だとも言われている。反タリバーン勢力はこれを明確にパキスタンの侵攻だとし、さらにこの背後から経済的に支援しているのがアメリカの石油メジャーで、中央アジアからの天然ガス・パイプライン敷設など資源利益と中央アジアへの勢力拡大を目論んでの支援だと、反発を強めている。
 バーミヤンの仏跡破壊などによって、国際的孤立はいっそう深まっている。

 

アフガニスタンその1
マスードの戦いへ


アフガニスタンその3
タリバーン政権下の女性たちへ


アフガニスタンその4
1997年━タリバーン支配下のカブールへ


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アフガニスタン概略


Islamic State of Afghanistan
独立■1919年
面積■約620゙(日本の約1.7倍)海のない内陸国
人口■約2088万人(96年)
人口密度■31人/゙
首都■カブール(約200万人)
主要民族●アフガン人(パシュトゥーン人)54%
     タジク人約30%
     その他ウズベク人・トルクメン人
主要言語●パシュトゥ語・ダリー語(ペルシャ語)
宗教●イスラム教(スンニ派)
政体●共和制
1人当たりGNP◇695USドル以下(93年/最貧国の一つ)
消費者物価上昇率◇22.1%(87年)
※内戦長期化により、国土は荒廃にさらされ、難民流出、労働力減少、国民生活の低下にさらされている
通貨単位◇アフガニ
     1USドル30,000アフガニ(98年※1982年1USドル44.5アフガニ)
教育制度●8・4制(義務教育年限8年)
     初等教育就学率29%(93年)
     成人識字率32%(男性47%女性15%95年)
日本との時差◇−5時間

アフガニスタンの自然と人々の気質
 アフガニスタンは内陸の山岳国で、標高差が際立っている。低地で数百メートル、山岳地で数千メートルと高さの差が激しい。このため高度による温度差も著しい。首都カブール(標高1766m)でも、六・七月に40度を越える日もあるのに対し、一月には零下10度まで下がる日もあり、その温度差は50度近くになる。
 概して乾燥気候で、風も強く、夏乾冬雨である。
 多くの川は砂漠の中に消える内陸川で、東流するカブール河だけがインダス河に合流して海に注ぐ。標高差が水をも支配している。「カブールには金はなくても、雪がなくてはならない」という諺がある。西方の山地に積もる雪が、とけて川の水や地下水となり、カブールの住民を養っているという意味であり、標高差から生まれる水の蓄積が小麦やトウモロコシなどの主食作物の収穫に重要な役割を果たしている。
 苛烈な気候風土はアフガンの人々に、独立心の強い、屈従しない剛健の気質を育んできた。厳しい自然の中での農耕や、山岳を移動する牧畜の生活が、敬虔なイスラム教への信仰とともにそれらの気質の基軸となっている。
 遊牧民である彼らは騎馬を駆る技術に優れ、尚武の精神に富み、誇り高く、戦士としての素質がきわめて高い。チンギス・ハーンの侵入のとき、あまりに激しい抵抗戦に遭って、チンギス・ハーンが激怒し、その怒りのために都市を根こそぎ破壊しつくしたことはよく知られている。また19世紀三次にわたるイギリスとの戦いにおいても、勇猛果敢な攻撃によって何度もイギリス軍を打ち破り、イギリスに支配を断念させたといわれている。旧ソ連軍侵入時における抵抗と撃退も、こうした民族の歴史的な資質を感じさせる。

●アフガニスタンの 農業
 アフガニスタンは農業国で、全人口の90%が農耕と牧畜に従事している。
 牧畜には定住して小麦やトウモロコシなどの農耕とともに飼育する定住型牧畜と、高地を利用して多数のヒツジやウシ、ヤギを引き連れ季節的移動を行なう遊牧とがある。遊牧民は全人口の15〜20%を占め、ほとんどがアフガン人(パシュトゥーン人)である。北東部のシワ湖付近、中央山地のハザーラジャートなどが主な夏営地で、パキスタンから国境を越えて往来する遊牧民も多い。
 農耕はヒンズークシの北部と南部および南西部の肥沃な黄土地帯が中心で、乾燥地帯であるため、河川から引く水路網によって人工潅セかんソ漑セがいソが行なわれている。農地の60%が自作農である。


●地方の分裂・自立性
 地方のパシュトゥーン(アフガン)族は、国家よりも部族の慣習法を重んじ、仲間同士ではパシュトゥー語を使う。一方都市のパシュトゥーン族はペルシァ語を多用する傾向がある。
 地方の住民は分裂していて、部族間・家族間の反目や闘争は頻繁に起こる。対立の原因は財産や女性で、いったん傷害事件や殺人事件が起きると、復讐が何世代も続くことさえある。部族的分裂傾向とともに、言語的分裂傾向があり、パシュトゥー語には方言が無数にある。標準語にあたるパシュトゥー語がないため、辞書・文法書もほとんどない。
 加えて、山岳国で道路整備が困難なため、運輸・通信が未発達で、中央と地方の関係は疎遠となっている。地方相互の関係も薄い。地方は政府から恩恵も圧迫も受けにくい。地方の人々は自分の生活に必要な生産物、流通手段、情報を自らの手で確保している。
 このため戦乱においても、地方の人々の生活は平和時と変わらず、地方の分立的傾向はそのままであり、国家的統合とは遠い状態にある。

 

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