― アフガニスタン ―

マスードの戦い

アフガンの大地を生きる

大地、祈り、愛

長倉洋海

 

 

司令官たちに笑顔を見せるマスード

 

チャリカールの女の子。お守りに、首からコーランを下げている

 

行進する新人戦士たち  タラカーン

 

イスラム戦士を訓練するマスード   1983パンシール

 

深夜独りで戦略を練るマスード   1983パンシール

 

若い戦士たちに話をするマスード

 

 

仲間たちと礼拝をするママスード   1990

 


 

写真集「獅子の大地」
Jihad of MASSOUD
戦火の絶えることのないアフガニスタンの大地にイスラムの理想≠掲げて、戦い、祈り続ける人々。司令官マスードと戦士たちの17年を撮り続けた、長倉洋海写真集
平凡社 3500円
※一般書店でお求め下さい

 

 

 ソ連軍と戦うゲリラ指導者マスードの取材を始めて一七年が過ぎた。若々しかったマスードも、深い皺を刻み、確実に年齢を重ねたが、戦いは今も続いている。取材を重ねるうちに、マスードばかりでなく、戦士たちやアフガンの人々にも魅かれるようになった。彼らが愛し、守ろうとするもの。それは、祈り、家族、風土、生活……。ここに、いつ終わるとも知れない戦争の真実≠ェあるのかもしれない。


パンシールの風のトウモロコシ畑で


●「パンシールのライオン

 マスードは一九五二年、アフガニスタン、パンシール峡谷に生まれた。軍人であった父の転勤でアフガン各地を回り、のちにカブール大学建築学科に進む。当時、アフガニスタンは近代化が遅れ、国民は貧困のまま取り残されていた。七五年、マスードは仲間たちと「理想のイスラム共和国」を目指し、パンシールで蜂起するが失敗。七八年に再びパンシールで戦いを始め、イスラム解放区を実現する。しかし、イスラム革命の中央アジアへの波及を恐れたソ連は七九年、軍を侵攻させた。ソ連と首都カブールを結ぶ輸送路を攻撃するマスードたちに、ソ連軍は幾度も大攻勢をかけるが、敗退。マスードはソ連軍に「パンシールのライオン」と恐れられ、その名を世界に知られることになった。

●マスードとの出会い
 パンシールまでの旅はつらかった。闇夜の行軍、地雷原の踏破、寒さに震えながらの渡河……。何度もあきらめそうになったが、「だれも撮ったことのない写真を撮ってやるんだ」という気持ちだけを支えに旅を続けた。「同じ若者である貴方を通して、この戦争を日本人に伝えたいのです。そのために貴方と一緒に暮らしたい」━━マスードを前に、私は言葉にすべての情熱を込め、今までの思いを一気にぶつけた。
「(申し入れ)ありがとう」との答えが返ってきた時、「やった!」と飛び上がる思いだった。その瞬間、すべての苦労が吹き飛び、緊張感が溶けていった。マスードはただ静かに微笑んでいる。日本を発ってから四〇日目。一九八三年五月のことだった。

水浴びを終えて帰る子供たち

入城、そして撤退
 一九九二年、マスードは北部の拠点を次々に落とし、首都カブールに入城した。イスラム暫定政権が誕生し、マスードは国防相になった。しかし、各勢力がそれぞれの地域を押さえ、政府に協調しようとはしなかった。各派との戦闘が続き、首都はさらに破壊された。九五年には、パキスタンの支援を受ける原理主義勢力タリバーンが首都に迫った。一度は攻勢を退けたものの、翌九六年、前線司令官の裏切りで首都の防衛線は崩壊。市民の犠牲を避けるために九六年九月、マスードは首都を撤退した。

●包囲の中で
 九八年、タリバーンは各地を制圧。他地域との連携も絶たれ、パンシールは孤立した。「冗談を言っても、誰も笑わず、暗く思い雰囲気が漂っていた。タリバーン側は『投降すれば、命と地位の保証はする』と言ってきたが、私は『一人になっても戦う』と答えた。住民代表も全員が戦うと言ってくれ、私たちはサラン・ハイウェイに打って出て、次々と失地を取り戻していった」(マスード談)

タハール省・タラカーンの町


●いつか戦いも
 タリバーン側は国連や各国の和平調停に応じず、マスードたちの投降を呼びかけている。タリバーンが和平に応じるまで、マスードはこれからも戦いを続けるのだろうか。ソ連軍を消耗させ、撤退に追い込んだように。だが、どんな戦いにもいつか終わりが来る。マスードは、どこでその日を迎えるだろう。「あの時は大変だったよ。もうダメかとみんなが思ったけどね」と笑いながら、話すかもしれない。生き抜いてほしい。


戦場に向かう若い戦士


●マスードへのインタビューから
━━年をとることは恐くない?
「恐ろしくも、悲しくもない。父親は九三歳まで生きたから、自分はまだまだという感じ。時間よりも、『どう生きたか』が大切だと思う」
━━日本へはいつ?
「日本にはいつか行ってみたい。でも、家を作るのにお金を使ってしまったから、また貯まったら行くよ」
━━行ってみたい所は?
「カイロとイスタンブール。歴史ある街並と美しいモスクを見てみたい」
好きな季節━━「春と秋」
好きな色━━「浅いブルー」
好きな花━━「インパチエンス(鳳仙花の一種)」
(二〇〇〇年八月、ジャンガラックの新しい家の前でのインタビューから)

●青年との会話
 満天の星空の下。椅子に腰かけ、夜空を眺めていると一人の青年が近づいてきた。「私が子供の頃、写真を撮ったよね」と話しかけてくる。一七年前のことだろうか。彼が話す。「この庭には大きなクルミの木があったんだ。でも、爆撃でやられちゃった」。「そうだね。あの辺りだったよね」と私。「今の生活? そんなに悪くはないよ。兄さんは地雷で死んだけど……。畑が少しあるから、トウモロコシや小麦を植えている。妻と子四人で何とか食べていけるくらい。スモモはこの間、終わったよ」━━。風が吹き抜け、川のせせらぎが聞こえてくる。静かな時間が流れていく。家族、故郷、戦争……。さまざまな思いが途切れ途切れの会話の中にあふれた。



長倉洋海
ながくら・ひろみ

 1952年北海道釧路市生まれ。通信社カメラマンを経て、80年よりアフリカ、中東、中南米など世界の紛争地を訪れ、そこに生きる人々を追い続けてきた。日本写真協会新人賞、第12回土門拳賞などを受賞。

●写真集
「サルバドル━━救世主の国」(宝島社)
「マスード 愛しの大地アフガン」(宝島社)
「南アフリカ」(平凡社)
「人間が好き━━アマゾン先住民からの伝言」(福音館)
「地を這うように━━長倉洋海全写真」(新潮社)
「ともだち━━Dear Friend」(偕成社)
「コソボの少年」(偕成社)
など
●著書
「内戦エルサルバドルの民衆」(晩聲社)
「フィリピン我が祖国」(れんが書房新社)
「激動の世界を駆ける」(講談社文庫)
「マスードの戦い」(河出文庫)
「フォト・ジャーナリストの眼」(岩波新書)
「鳥のように、川のように━━森の哲人アユトンとの旅」(徳間書店)などがある

 

アフガニスタン
その2
アフガニスタン現代史

アフガニスタン
その3
タリバーン政権下の女性たち/古居みずえ


アフガニスタン
その4
1997━タリバーン支配下のカブール

 

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