AFGHANISTAN

1997  タリバーン支配下のカブール

宮内 健

 

弾痕や砲撃の破壊跡がなまなましく残るカブール市街の建物 1997

 

 

アフガニスタンその1
マスードの戦い


その2
アフガニスタンの歴史


その3
タリバーン政権下の女性たち

 

 アフガニスタン南部の街、カンダハールを出発したバスは二回の仮眠をはさみ、四六時間もかかってカブールに到着した。この区間の距離は約五〇〇q。内戦が始まる前なら八時間程度で済んだというが、現在は破壊、崩壊がひどく、もはや道路の体をなしていないのである。
 私たち乗客はかつて旧市街の中心部であったチャハルチャタ・バザールで降車した。現在、地方都市へのバス発着場となっているこの辺りは戦闘による破壊がひどく、まともに残っている建物はあまり見当たらない。全壊し瓦礫の山を築いているか、全壊をまぬがれてもあちらこちらが損壊している。
しかし、そんな状況下でも街には活気があった。ティムール・シャーから中央郵便局にかけてのカブール川北岸には、食品や雑貨の店が立ち並ぶ。店と言っても小さな屋台や路上に商品を並べているだけではあるが。
 野菜の種類は豊富である。鮮やかな色をしたみかんやリンゴ、ザクロが彩りを添えていた。肉類はマトンが手に入る。石けんやシャンプーといった日用雑貨にも事欠かない。たばこはなぜか、セブンスターやハイライトといった日本の銘柄が多かった。カブール川沿いをさらに西方へ向かって歩くと、衣料品店のエリアが現れる。とりあえず、日常生活に必要な物資に困ることはないように見える。
 一方、カブール市内北方の新市街周辺は、旧市街に比べダメージが少ない。 この一角に、ここが本当にカブールか、と見まがう通りがあった。通称チキン・ストリート。かつてカブールが西欧からやってくるヒッピーで賑わった頃、彼らのたまり場として安宿やレストラン、土産物屋が立ち並んでいた場所である。
 一九九七年現在、この通りでは国連の手で歩道や排水溝等の整備が進められる一方、驚いたことにカーペット屋や宝石店、アンティークショップなど、五十軒以上の店が営業していた。
「営業を再開したのは七ヶ月前です」
 チキン・ストリートで本屋を営むアーマッドさんはそう言った。四年前に一度、彼はこの店を閉鎖している。
「以前は治安がとても悪くてね。いきなりカラシニコフを突きつけられて、あり金全部奪われたこともありました。ミサイルも飛んでくるし、とても商売どころじゃなかった」
 営業を再開したのは、治安が好転したからに他ならない。それは、タリバーンがカブールを占拠して以降のことである。実際に昼間、街中を歩いていて不安を感じることはほとんどない。何しろ今は、一万アフガニ(約四八円)盗んだだけで投獄、死刑が待っているという。銃器を持って歩いている連中を見かけることもあまりない。ただし、夜間になるといまだあちこちで発砲音が聞こえる。
 首都カブールは九六年九月以来、イスラム原理主義勢力タリバーンの支配下にある。タリバーンに対して旧反政府ゲリラ連合政権の残党である三派連合(ハリリ派、ドスタム派、マスード派)が対峙しているというのが、最近のアフガニスタンの構図である。
 九七年現在、国土の八割を支配するタリバーンは、西欧諸国の間では評判がよくない。外部からは理解しがたい、イスラム原理主義に基づくという政策が実行されているからだ。例えば、タリバーンの支配地域では音楽、写真は御法度で、ミュージック・テープが見つかると、叩き壊される。
 身だしなみについても厳しく、男性は髪を帽子やターバンで隠さなければならない。長髪は禁止されている。また、髭を剃ってもいけない。街中では時折タリバーンの兵士がやってきて、道行く人をつかまえて頭髪検査を行っている。規定に違反しているのを見つけると丸刈りにする。
 女性はブルカ(頭から足までをすっぽり覆う服)着用を強制されているうえに、就労、教育も禁止されている。宗教に基づくという制限は厳しく、窮屈このうえない。現地でも快く思っていない人々は少なくないように見える。それでも、タリバーンが国土の大半を支配下におさめているのはなぜか。
 カブールがひどく破壊され治安が極端に悪化したのは、ソ連の傀儡だったナジブラ政権が崩壊し、反政府ゲリラたちがやってきてからのことである。旧イスラムゲリラ連立政権内で内輪もめが起きて、戦闘を始めたのが原因だ。せっかくナジブラを倒したと思った途端、街にはミサイルが打ち込まれ、略奪が横行した。だから、市民たちの多くは旧連立政権に失望している。新たに登場したタリバーンは、イスラム原理主義を統治理念に、とにかく治安の回復を成し遂げた。状況は以前よりもはるかにマシである。いろいろ非難を受けながらも、タリバーンが首都を維持し続けているのは、この点が大きいと思われる。
 しかし、タリバーンはここへきて勢力が伸び悩んでいる。昨年、ドスタム派の本拠地マザリシャリフを一時は陥落し全土を制圧するかと思われたが、結局退却を余儀なくされた。
 アフガン内戦が長期化しているのは、背景に民族、宗教、関係諸国の思惑といった要素が複雑に絡み合うからである。もともとこの国はいくつもの部族で構成されている上、宗教はイスラムだが宗派は部族によって様々だ。一九七九年に始まった反政府、反ソ連ゲリラ闘争でも、主に各部族ごとに戦っていた側面が大きい。
 一九八九年にソ連軍が撤退してから三年後の九二年、ナジブラ政権が崩壊し混乱に終止符が打たれようとしたのだが、新政権は各ゲリラ勢力、つまり各部族代表の寄り合い所帯になったのが災いした。前述したように、戦闘が各派の間で勃発したのである。しかも関係諸国が利害関係のある派を援助し、争いはますます長引いている。
 一九九七年現在の有力勢力を色分けしてみよう。タリバーンはアフガニスタンの最大民族パシュトゥーン族が主体でイスラム教スンニー派を信仰、パキスタンとサウジアラビアが援助しているといわれている。バーミアンを拠点とするハリリ派(イスラム統一党)はハザラ族。日本人によく似た顔立ちの蒙古系民族でシーア派を信仰し、シーア派勢力の強いイランの援助を受けている。ドスタム将軍はトルコ系民族のウズベク人。マスード前国防相はタジク人である。最近のタリバーン勢力の伸び悩みの原因は、民族的、宗教的に対立の根深い敵を相手に戦っているからだろう。
 国家としての安定には程遠い上に、人々の生活はまだまだ苦しい。チキン・ストリートのアンティークショップで一日の客数をたずねたところ、「よくて一人か二人。三人以上来たためしはない」という。
 インフレは留まることを知らない。九七年一二月現在、為替レートは一ドル‖二万七千アフガニだが、一年前は一ドル‖二万アフガニ、五年前はなんと二千アフガニだった。この国で今、ほとんどの物資を輸入に頼っている。大幅な入超だから当然の帰結である。
 カブールへ向かうバスで知り合ったニーアズマンドさんは、こんなことを話してくれた。彼は農場で働いている。
「このバスに乗れる連中は、まだ恵まれているんだ(バス料金は九万アフガニ)。タリバーンのオフィスで働いている奴の月給は一七万アフガニしかない。うちも私の月給だけではとても足りない。子供が七人もいるからね」
 では、足りない分をどうしているのか。
「金がなくなるとパキスタンへ行って、イランで働いている兄弟に電話し送金してもらうんだ。六人いる私の兄弟のうち、三人はイランへ出稼ぎに行っているよ」
 雪が融ける春先から、再び戦闘が激化することが予想される。果たして、アフガニスタンに平和が訪れるのはいつのことになるのか。


編集部注※一九九七年の時点で執筆したものを掲載させていただきました

 

トップページへ