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  北京動物園の
パンダクンたち老荘思想とのつながり
佐渡多真子




いたずらっこの圓圓
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北京動物園のパンダたちに出会ったのは、1999年、3月末のことでした。ある日曜日、散歩がてら、動物園を訪れ、偶然に出会ったのです。体重10キロちょっとの、うりふたつの2匹の子のパンダが、母パンダのお乳をねだっていました。
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 98年9月に、双子のパンダが生まれたこと、普通、一匹しか子供を育てない習性のある母パンダが、2匹の子供を育てていることなどは、新聞で読んだことがありました。でも、まさか、その家族が一般に公開され、しかも、ガラス越しではなく、オープンフィールドで、そのかわいらしい姿が見られるとは全く期待していませんでした。私はその愛くるしさに惹かれ、それからほとんど毎日、朝7時半の開門に合わせ彼らの写真を撮りに行くようになりました。

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 けれども、パンダたちは1日平均20時間ぐらい眠っているようで、朝早く行っても、もう一遊び終わって、朝寝をしていることもしょっちゅうで、なかなか写真は撮れませんでした。それでも、兄弟を持ったパンダの子供たちは、いったん遊び出すと、じゃれ合ったり、喧嘩をしたり、今までに見たことのない表情を見せてくれるのでした。
 二匹のパンダは本当にそっくりで、最初のころ、私はまったくこの2匹の見分けがつきませんでした。飼育係の人たちでも、後ろからでは違いがわからないと言っていました。けれども、二匹のパンダは目の縁取りの黒い部分の形には少しだけ違いがありました。お兄ちゃんのほうは楕円型で、弟のほうは長方形の縁取りです。飼育係の人にこの事を教えてもらってから、私もだんだんと、この2匹が見分けられるようになりました。
 そうして見てみると、2匹には明らかに性格の違いがありました。お兄ちゃんは独立心が強く、色々な遊びを考えて一人で過ごしている事が多く、弟のほうは、甘えん坊で、いつでもお母さんと一緒にいたがるのです。お母さんのほうは、子供のお尻をなめてあげたり、いつでも子供たちに注意を払い、2匹を平等に世話しているように見えました。そうして、パンダたちの個性がわかってくると、彼らは、単に被写体であるだけでなく、一つの感情を持った友人のような気持ちになってくるのでした。けれども、パンダたちは、毎朝、2−30メートルしか離れていない柵にはりついて、彼らの名前を呼びながら、ファインダーごしに彼らを見つづけている私のことなんか、まったく気に留めていないようでした。

双子のお兄ちゃんが初めて木に登った日

眼を隠す仕草がかわいい圓圓
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 それから一月半ほどが過ぎた5月のある朝、やんちゃなお兄ちゃんが木登りに挑戦し始めました。頑張っても頑張っても、木にしがみついたまま、次の1歩が踏み出せないでいました。そして翌朝、私がフィールドに来て見ると、お兄ちゃんは1メートルほど木に上っていて、今着いたばかりの私に、これ見よがしに見せるかのようにこちらをずっと見つめていました。私は急いでカメラをセットし、木に登ったお兄ちゃんの写真を撮りました。これが、初めてパンダの視線を撮れた写真です。それから、しばらくしても、まだおにいちゃんはこちらを見つづけています。望遠レンズで表情を見つめながら、「どうしたの?」と私が声をかけてみると、「・・・お姉ちゃん(おばちゃんと言ったかも知れない)、今日もまた来たの。いつも黒いの持ってなにしてるの?」とでも言ったかのように、何だか不思議そうな表情でこちらを見つめていました。
 パンダの知能は、1歳の赤ん坊程度だそうで、何人かの人間は認識できるそうですが、まだ、生まれて半年の赤ちゃんパンダが、私の事を覚えていてくれたのか本当のところはわかりません。でも、それからは、楽しかったり、木から降りれないようなトラブルに会ったりすると、なんとなく、私のほうに目線をくれるようになったのです。それはなにかを、私に語りかけてくれているように感じられました。私は、パンダたちは何を考えているのかと想像することを楽しみながら、毎朝の数時間を過ごすようになりました。

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平日早朝の北京動物園はとても静かで、時たまの団体旅行客以外、ほとんど人も訪れることがなく、のんびり暮らすパンダのところに、他のフィールドから、孔雀やきじが遊びに来たり、ちょうちょが舞って来たり、何とも優雅な時間が流れていました。そんななかでパンダたちを眺めていると、彼らを通して、ずっと忘れていた、とても大切なことに気づく思いがしたのです。甘えん坊の弟がお母さん抱かれていると、嬉しそうにこちらを見て、「僕、お母さんと一緒でいいでしょう!」と言って自慢しているようでした。私にもずっと昔、母親に守られ幸せだったころがたしかにあったことを思いだし、幸せな気持ちになれたり、兄弟同し楽しそうに遊んでいるのを見て、「兄弟がいるって、すごく嬉しいことなんだな−。」と改めて思ったり、のんびり暮らす彼らの姿に、日本であくせくバタバタ働いていた私が、その結果、何を得たのだろう?むしろ、頑張っていたつもりで、大事なものを失していたのではないかと疑問に思ったり、パンダたちとの会話のなかで、私のこれまでの価値観は少しづつ変わっていったのでした。

 私は、パンダたちが語りかけてくれたことを言葉にしてみたいと思うよになりました。でも、その漠然としたイメージの中の会話は、なかなかうまく表現できず、そんな話を、北京に滞在していた友達に話したりしていました。ほとんどの友達が、東京より、北京の生活のほうがプレッシャーもなく、帰国すると、また、北京に戻ってきたくなってしまうようです。それって、何なんだろう。どうして、中国では、パンダみたいに、のんびり、あるがままに暮らしていける気がするんだろう。そんなことを友達と話しているうちひょっとしたら、中国古代の思想と何か関係があるかもしれないな−と思うようになりました。たまたま、北京留学時代の知り合いに、中国文学専門の先生がいらしたので、怒られるのではないかとびくびくしながら
 「先生、中国思想の中に、パンダが言っていそうなことはありますか?」と尋ねてみました。先生は、始めちょっとびっくりされたようでしたが、これまでに撮ったパンダ達の写真をしばらく眺めてから、「たくさんあるような気がします。」と、にこやかにおっしゃり、たくさんの漢詩漢文の本を紹介してくださりました。翌年、新しい赤ちゃんパンダが生まれたので、そのパンダを撮りながら、中国古典の中から、パンダが私に語り掛けてくれたように感じる言葉を捜していました。そして、老子、荘子、陶淵明、李白、白居易、など、何物にもとらわれないで、あるがままに、自由な精神で生きていくことの大切さをといた老荘思想に出会いました。
 

右・お兄ちゃん、眼のふちどりは楕円形。左・弟のふちどりは長方形。中央は母親の楽楽


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 たまたま、パンダに詳しい中国人の友達にこのことを話しましたら、彼なりの考えを話してくれました。

 「パンダの化石は古代からのものが見つかっているそうです。けれども、人類の記録にパンダが登場するのは、ほんの数百年前からのことです。ということは、三国時代など、中国全土で人間が戦争をしているような時でさえ、パンダは、人に見つからず竹やぶの中でひっそり生きていたのでしょう。パンダの白黒が迷彩色であることも、もともと肉食だったパンダが、自ら草食動物へと体質を変えていったのも、あの柔らかい体も、すべて、敵から身を守るためだと考えられます。狼は、戦って絶滅しました。でも、パンダは、戦わない道を選んで今に至るまで種を保存してきたんです。この知恵こそが、まさに老荘思想で、中国を代表する動物であるパンダと、中国古来の思想と一致するところがあるのは、僕はすごくうなづけます。これは、今でも、中国に浸透している考え方の一つです。たとえば戦後、周恩来は日本に賠償責任を要求することはなかった。それは、その時、これほど苦しんでいる日本人をさらに苦しめるようなことをすれば、きっといつか中国に対する日本国民の恨みが生まれる。そうすれば、また戦争は繰り返される。そういう事をさせたくない、という気持ちが、周恩来にはあったと思います。近代化の中で、我々中国人の考え方がどんどん変わっているのも事実だと思います。けれども、戦わず、自然のままの形を大切にするという思想は、少なくなったといっても、今でも、中国の根底に流れている考え方だと僕は思います。」と。

 「パンダは老荘思想を生きている」、などと大それたことは私にはとても言えません。けれども、パンダを眺めていると、中国の思想や時間の流れ方に、自分も吸い寄せられてしまう、そんな不思議な魅力がパンダにあることは確かかもしれません。

*佐渡さんの本が出ました。
ぜひお読み下さい。

パンダが語る中国思想 
 「幸福(シンフー)?」 
    

 佐渡多真子著(集英社、1200円税別)



日本の乾いた暮しに疑問を持って、中国の北京に出向いた著者。そこで出会ったパンダ達が語りかけてきた言葉とは…。写真家である著者が北京動物園のパンダに魅せられ撮影した写真と、漢詩・漢文を現代風の訳で紹介した本。何ものにも囚われない自由精神で、あるがままに生きること説いた老壮思想を中心にした漢詩・漢文は、絶滅の危機に晒されながら今も生き抜くパンダそのままであり、現代人にとって魅力的な生き方であろう。





佐渡 多真子 Tamako Sado プロフィール

1962年 東京都 渋谷区出身 中央大学文学部卒業後,(株)日本カラーデザイ
ン研究所を経て、広告写真家 中村彰三氏に師事 1990年 フリーカメラマンと
して独立. 雑誌 「ぴあ」 「キネマ旬報」「モア」「コスモポリタン」「ウイン
ズ」 映画スチールなどで活躍
1995−1997年 北京大学留学 同時に中国を拠点とした撮影活動を始める
現在 中国芸術研究院 中芸映像学校、講師、顧問

写真展 1999年北京動物園にて「双子のパンダ」(北京フォルクスワーゲン主
催)
     2001年女性と仕事の未来館にて「中国の働く女性」(女性と仕事の未
来館主催)。






2002アジアから新年おめでとう
その1
その2(工事中)
発展する中国

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中国の働く女性

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春節

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中国貴州流離紀行──スケッチブックを携えて

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ロバの風景