和平への苦悶

パレスチナの歴史

 写真=古居みずえ

 

パレスチナの伝統的なダンスを踊る女性たち

 

パレスチナの民族衣装を着た少女

 

モスクでコーランを学ぶパレスチナの少女たち 1996

 

オリーブの実を拾うパレスチナの女性たち 1998

 

 

建設中のイスラエル入植地 1991

 

入植地のユダヤ人女性たち 1993

 

和平に抗議するイスラエル右派の人々 1993

 

 

パレスチナ難民
 1948年の第1次中東戦争で難民となったパレスチナ人は70万〜90万人、そのほとんどは当時ヨルダン領のヨルダン西岸と、エジプト領のガザ地区(イスラエル占領地から現在先行自治区となっている)、および周辺アラブ諸国に避難した。イスラエル領内で避難を続け、領内難民となった者も少なくない。当時パレスチナに在住していた半数以上が難民となった。
 また67年の第3次中東戦争でも西岸、ガザから約35万人がヨルダンに避難した。この半数は第1次中東戦争で難民となった者たちである。
 94年の統計では、周辺諸国およびガザ地区に合計約300万人(難民キャンプ内居住者は約99万人)、難民キャンプは59ある。
 多数の難民発生の原因について、最近の言説では、イスラエル側に政策として組織的にパレスチナ人を追い立てようとする意図があったとされている。事実、エルサレム、ハイファ、ヤッファ、ラムレなどの都市部のパレスチナ人人口は激減し、パレスチナ人村落も無人となって、イスラエル側の管理下に移っている。無人となった村落は約400と推定される。
(93/94UNRWA統計による)

 

PLO
パレスチナ解放機構
Palestine Liberation Organization

 PLOは1964年、第1回アラブ首脳会議で設立が決定され、同年の第1回PNCパレスチナ民族評議会(最高議決機関)で誕生した。この創設はエジプトのナセル大統領によるもので、そのねらいはもともと50年代末期から始まったパレスチナ人の解放ゲリラ活動をアラブ連盟の長期戦略の中に封じ込めようとするものだったが、67年第3次中東戦争の敗北の結果、武闘路線への変更を余儀なくされ、「会議派のPLO」から「闘うPLO」へ転身した。PLOの憲法に当たるものとしてパレスチナ国民憲章を定めている。この第9条で「武力闘争はパレスチナ解放のための唯一の手段である」としており、これがイスラエルの反発の根拠となってきた。
 当初拠点はヨルダンにあり、アラファトが第3代議長に選任されて以来テロを含み武闘派路線をとってきたが、70年から拠点をレバノンに移した。しかし82年のレバノン戦争で大打撃を受け、拠点をチュニジアに移した。
 追い詰められたPLOは1988年イスラエルとの共存路線を宣言し、中東和平に向けて大きく方向転換した。パレスチナ国家樹立宣言ののち「憲章は時効」とも発言し、路線変更を明言した。
 PLOはパレスチナ人の多くのグループの合同体で、アラファト議長はそのなかの最大組織ファタハを率いている。ファタハはペルシャ湾岸で働くパレスチナ人から「解放税」を徴収しており、これが大きな財源になっている。また湾岸のアラブ諸国の君主たちが大きな資金援助をしており、この潤沢な資金がPLOの活動資金となっていた。
 しかし90年の湾岸戦争でアラファトがイラク寄りであったことから、湾岸君主たちの反発を招き、援助資金が打ち切られたばかりか、クェートなどで働くパレスチナ人が閉め出されて、「解放税」も低下した。
 こうした財源の減少により、いっそう追い詰められたアラファトはイスラエルとの和平実現の道をさらに余儀なくされた。アラファトはパレスチナ暫定自治を受け入れ、94年7月にガザに本拠を移した。95年PNCパレスチナ民族評議会を開催し、パレスチナ民族憲章を修正した。
 96年国際監視下のPNC選挙でアラファト議長が圧勝したが、それ以降PLOは武闘組織から暫定自治政府へと変化している。

 

 

 

ふたたび立ち上がる子供たち
       古居みずえ

パレスチナ素描
       
久保健一

 

パレスチナの歴史

【T】

●文明の回廊としての古代史(紀元前2000年〜7世紀)
 地中海の東端、シリアとエジプトの中間に位置し、南北約240km、東西約130kmの土地を、古来からパレスチナと称してきた。西は地中海、東はアラビア砂漠、北はレバノン渓谷下流、南はガザ谷に至る範囲がこの地を指す。
 中央部を背骨のように南北に山地(標高500m〜1000m)が走っている。西は地中海にかけて幅の狭い平野部をなし、東はヨルダン河に沿った谷を形成している。谷部は海面より低く、有名な塩分の多い死海は、標高マイナス約400mアフリカという独特な地形をなしている。
「パレスチナ」という名称は紀元前12世紀にこの地方の海岸平野部に定住したペリシテ人に由来する。大陸とアラビア半島を繋ぎ、さらにユーラシア大陸との回廊の位置にあるため、古代から文明の交流が盛んで、周辺の大帝国の盛衰に伴って、軍事侵略を頻繁に受けてきた。文化的、軍事的にきわめて重要な地域であることが、この地の歴史を宿命づけてきた。この地域がエジプトに侵略され、奴隷としてエジプトに連れ去られたことは、旧約聖書にも記されている。ペルシャ帝国、アッシリア、バビロニア、アレクサンダーの遠征、ローマ帝国など歴史の大きな波は幾度となくこの小地域を吹き荒れ、破壊し、呑み込んでいった。
 侵略され、踏みにじられ、隷属させられる境遇から、そのたびに立ち上がり、再建する強力な復元力が、歴史を通してこの地の精神文化として宗教を生み出してきた。ユダヤ教、キリスト教の聖地となっているばかりでなく、イスラム教の聖地としても、重要な地を抱いている。

●イスラムと十字軍の時代(7世紀〜16世紀)
 七世紀、イスラムの勢力がこの地を呑み込み、サラセン帝国の一部となった。最後まで抵抗したエルサレムを、イスラム軍の総帥カリフのウマルが、イスラム教第三の聖地とした。
 シリアに政治的重点を置いたウマイヤ朝では、聖地エルサレムを持つこの地域はいっそう重視されるようになり、第七代カリフのスライマーンは、ラムラに第二の首都を築き、宮殿を建設したほどであった。
 さらにアッバス朝、ファティマ朝の変遷のなかでイスラム化したこの地は11世紀末以降ヨーロッパからの十字軍の聖地回復の目標地となり、宗教戦争の戦火にさらされた。一時十字軍はエルサレムを占領し、1100年のクリスマスにラテン・キリスト教国家であるエルサレム王国を建国したりしたが、サラディンによりエルサレムはまたイスラムのものとなり、以後イスラム勢力は数次にわたる十字軍の襲来をはねのけた。

●トルコの支配(1516〜1831)
 その後パレスチナはマムルーク朝の支配下にあったが、1516年オスマン・トルコのセリム一世の軍が襲来し、その施政下に入った。300年続いたオスマン・トルコの支配は、外部から隔離された、鎖国的状況を作り出し、比較的安定した時期が続いた。

●ヨーロッパの侵入と勢力拡大・シオニズム(1831〜1917)
 しかしナポレオン戦争以後、イギリス、フランスの対立などヨーロッパ勢力の動きがこの地域の勢力バランスに大きく影響するようになる。ヨーロッパの伸張は「イスラム教徒に奪われた聖地を奪回する」という十字軍的発想に代わって、いわゆる「東方問題」としての発想を台頭させた。これは「東方世界の中のキリスト教徒やユダヤ教徒の存在を重視し、それらをテコにして宗教・宗派の対立を煽り、利用する」という宗教を前面にしたヨーロッパの拡大の構図である。
 1831年、エジプトはヨーロッパ勢力の支援を背景にパレスチナを占領し、聖地に啓蒙的な施策を行なったが、1840年やはりヨーロッパ列強のロンドン四カ国条約で支配に終止符を打たせられた。オスマン・トルコをイギリス、ロシア、オーストリアが後押しし、パレスチナは再度オスマン・トルコの支配下に入ることになった。この間、西ヨーロッパの影響がパレスチナに及び、キリスト教の宣教師たちが、多くの学校を建てた。またエルサレムや諸港にはヨーロッパの領事館が建てられ、ヨーロッパ諸国からの移住や植民の動きが増大した。1869年に開通したスエズ運河は、この地域の戦略的重要性をいっそう高めた。
 しかし19世紀後半、ヨーロッパ勢力の拡大と浸透を警戒したアラブ世界は、宗派の対立を越えて連帯する動きを見せ、アラブ民族運動として、ヨーロッパ列強に対抗した。
 この対立の構図の下で、さらに東欧から新たな動きが生じてきた。1880年代以降帝政ロシアでユダヤ人虐殺が激化し、この弾圧から逃れたユダヤ人たちが故郷パレスチナに帰る動きを示した。いわゆる「シオニズム」の流れである。このシオニストたちの農業移住は、のちのパレスチナにおけるユダヤ人国家建設の動きの先駆けとなった。一九世紀末、テオドール・ヘルツルは「ユダヤ国家」を著し、パレスチナにおけるユダヤ人の自治国家を唱えている。ロスチャイルドがこのシオニズム運動を助成し、1900年には22地であったユダヤ人入植地の数は、1918年には47まで増えた。キブツと呼ばれるユダヤ人の集団農場が初めてパレスチナに登場したのは、1909年のことであった。

【U】

●第一次世界大戦とバルフォア宣言(1914〜1918)
 1914年に始まった第一次世界大戦は、パレスチナを支配していたトルコのドイツ側への参戦で、この地域を大きく変化させた。海外植民地にその経済力を大きく依存するイギリスは、スエズ運河地域を含むアラブ民族運動の力の前に窮し、打開策を余儀なくされた。各地域のアラブ民族に、戦争終結後それぞれ独立・自治を承認するという、イスラム諸派を分断・分裂させて味方陣営につける方策である。しかし、この裏で、列強同士が密約を結んで領土分割を図ったため、戦後問題が大きく紛糾することとなった。戦後アラブ諸民族独立と、トルコ分割を約した協定は特に問題を残した。
 さらにイギリスはこれと並んでもう一つの重大な約束をした。1917年イギリスの外相アーサー・バルフォアは、逼迫する戦時経済へのユダヤ人の強力を求めて、シオニズム運動の指導者ロスチャイルドに、パレスチナにユダヤ民族の国家を建設することを約したのである。これがバルフォア宣言で、後にユダヤ国家建設の糸口を与え、パレスチナ問題の原点となった。

●第一次大戦後から第二次大戦まで

イギリス委任統治の時代(1919〜1940)
 戦後イギリスはパレスチナに軍制を敷き、戦争中の約束を実行しようとしたが、不徹底なことやバルフォア宣言がアラブ諸国の反発を招き、ユダヤ人5人が殺害される反シオニズムの暴動をひき起こした。
 翌年からイギリスは国際連盟規約第二二条に基づいて委任統治に移管し(国際連盟承認は1922年)、パレスチナ管理当局の下に、20年には初年度分として1万6500人のユダヤ人入植割当てを発表した。これによりまた反シオニズム暴動が起こり、46人のユダヤ人が殺害された。
 23年から29年までは、ユダヤ人入植者が減ったこともあって、やや平穏だったが、その間ユダヤ人たちは経済、社会、文化にわたって基盤を強固にしていった。世界のユダヤ社会と繋がりを強くしていくユダヤ人たちと、それらに脅威を覚えるアラブ人たちとの対立はしだいに激しくなっていったが、これに拍車をかけたのが、ドイツのナチス政権の成立である。ユダヤを迫害する政権の成立は、ユダヤ人のパレスチナ移住を激増させ、33年に3万人、34年に4万2000人、35年には6万1000人にのぼり、シオニストの入植地数は約200に増加した。19年には5万8000人だったユダヤ人人口は39年には44万5000人に達し、テルアビブは15万人のユダヤ人都市となった。
 この間、国際連盟の調停案、イギリスの懐柔案・妥協案も功を奏さず、イギリスへの不信感のうちに対立はエスカレートし、ヨーロッパでのナチスのユダヤ人虐殺の動きもユダヤの防衛意識を煽って、ユダヤ人組織・軍備を強化する結果となった。

【V】

●第二次大戦後―国連パレスチナ分割決議とイスラエルの独立
 第二次対戦後、イギリスは委任統治権を放棄し、パレスチナ問題を国際連合に委ねた。
 1947年、国連総会は三分の二の多数決でパレスチナ分割決議案を採択した。この内容は、パレスチナをアラブとユダヤの二つの国に分け、エルサレムを国連の信託統治下に置くというもので、故地を渇望するシオニストたちは歓迎し、翌年5月イスラエル国の樹立を宣言した。しかしアラブ諸国はこの決議をパレスチナ人の権利が不当に侵害されているとして反対し、アラブ諸国正規軍のパレスチナ侵入となって、第一次中東戦争が起こった。この採択が禍根となり、以後四次にわたる中東戦争につながった。
 休戦により、パレスチナは、イスラエル、エジプト、ヨルダンにより、三分割され、エルサレムもイスラエルとヨルダンの間で、東西に分割された。この結果パレスチナのアラブ住民70万人が難民として周辺アラブ諸国に流出した。

●中東戦争とPLOの誕生(1956〜1973)
 1956年、スエズ運河を国有化したエジプトに対し、イスラエルがイギリス・フランスとともに攻撃を加え、第二次中東戦争が勃発した。これ以後イギリスはパレスチナの問題から後退し、代わりにアメリカが表舞台に登場して、イスラエルはアラブ諸国の社会革命や強力な軍事化に対して牽制と抑制の役割をも持たせられるようになる。
 強化されるイスラエルの国家組織と軍備化によって、パレスチナのアラブ人民の自立は抑えられ、これに反発したパレスチナ人民のなかから1964年、武力を持って闘うPLOパレスチナ解放機構Palestine Liberation Organizationが組織された。
 1966年シリアで革命により左派政権が誕生し、アラブ民族主義が高まったことがイスラエルを刺激し、67年イスラエルは奇襲攻撃に出て、分割されていた地域及びシナイ半島全域を占領、アラブ諸国もソ連の支持の下に結束して反撃した。第三次中東戦争である。パレスチナ人32万人が難民となった。このときの国連安保理決議242は現在も紛争解決の基礎になるものされている。
 また1973年、エジプトとシリアがイスラエルを攻撃し、これにイスラエルが反撃して、第四次中東戦争となった。周辺諸国へのパレスチナ難民はこの過程で増加していき、280万人にのぼった。またこのレバノンなどの難民の居住地のなかに、PLOの活動の根拠地が設けられ、最大の根拠地となった。これがテロ行動とともにイスラエルの神経を尖らせることになった。

●和平への動きとレバノン戦争
 このころから、パレスチナ人の民族的自決権、帰郷または補償を受ける権利の承認こそ中東和平の前提条件であるべきだ、という認識と、中東和平問題解決の過程にPLOを参加させていくべきだという要求が、国際的支持を受けるようになった。
 こうした動きを背景に、77年エジプトのサダト大統領のエルサレム訪問を契機に、イスラエルは78年、米でのキャンプ・デービットでの和平合意(サダト大統領・イスラエルのベギン大統領・米カーター大統領)、79年エジプト・イスラエル平和条約(82年までにシナイ半島をエジプトに段階的に返還)によってエジプトと国交を樹立して、和平への準備を固めた。また国内・近隣では占領地のイスラエル化を促進し、80年エルサレム恒久首都化法、81年ゴラン高原併合、PLO武力攻撃根拠地となっていた南部レバノン攻撃を進めて、基盤強化を進めた。
 82年、イスラエルはレバノンを本格的に攻撃し(レバノン戦争)、レバノンからPLO及びパレスチナ人武装勢力を排除した。これによりPLOは大打撃を受け、83年から内部の対立が激しくなった。またイスラエル側も南部レバノンのイスラエル占領地という新たな問題が発生し、経済的困難に伴って国論の分裂も深刻化した。

●和平と独立パレスチナへの道―和平プロセス
 打開をねらうPLOのアラファト議長は、1988年11月アルジェの民族評議会PNCで、パレスチナに関するすべての国連決議を受け入れ、それを基礎に「ミニ・パレスチナ国家案」を具体化して、「パレスチナ国家樹立宣言」を行なった。これはイスラエルとの共存を受け入れたもので、アラブ・イスラエル紛争史上、一大転換点をなすものだった。さらに12月アラファトは国連総会で@国連主催の国際会議の準備委員会設置、Aパレスチナの暫定的国際管理、Bパレスチナとイスラエルの共存をめざす包括的解決の和平三項目を提唱した。しかしイスラエルはこれを拒否し、キャンプデービッド合意に基づく別の和平案を提唱した。イスラエル占領地の扱いに不満があったからである。
 PLO側への湾岸支援国の圧力と、湾岸戦争後の安全保障の枠組みづくりの動きによって、1991年11月、アメリカとロシアの主催でスペインのマドリードで中東和平国際会議が開催された。これにより、イスラエルと周辺諸国の二国間交渉と、その交渉を促進させるため欧米、日本、中東諸国が参加して支援実務を協議する他国間交渉とで和平交渉を進めていくその後のラインが敷かれた。
 これとほぼ並行して、イスラエルは労働党のラビン政権誕生とともにPLOと秘密交渉を進め、92年8月にオスロ合意(暫定自治に関する原則宣言)が成立した。翌月ワシントンのホワイトハウスで調印され、@イスラエルとPLOの相互承認などに続き、Aガザ地帯とエリコでのパレスチナ人の暫定的自治の開始(94年カイロ協定)、B自治地域拡大のための交渉(95年拡大合意)、Cイスラエル占領地の最終的な地位の決定のための交渉(98年ワイ・リバー合意)が確認され、順次実行されていった。
 この間イスラエルはヨルダンと平和条約を結び、国交を樹立した。これにより、イスラエルと国交を樹立していない隣接国家はシリアとレバノンのみとなった。
 またイスラエル軍は95年エルサレムとヘブロンを除くヨルダン河西岸の主要都市から撤退(再展開)し、パレスチナ人の自治地域が拡大した。しかし、和平を進めたラビン首相はこれにより反対派に暗殺された。
 和平はさらに進み、パレスチナ人拘禁者の釈放も実施され、さらに2000年1月には第二次撤退(再展開)措置も実施されて、自治区はいっそう広がった。
 残る問題は大詰段階と煮詰まってきたものの、99年春から開始された交渉@領土確定問題、Aエルサレム問題、B難民、C入植地問題については、当事者間では進展しなかった。
 米クリントン大統領はこれを危ぶみ、イスラエル・バラク首相とPLOアラファト議長の両者をキャンプデービッドに招いて14日間にわたり、話し合いを仲介した。他の問題の溝は埋まったものの、アラファト議長はAのエルサレム問題でパレスチナ国家の首都となる東エルサレムの主権を諦めることができず、最終的に決裂の形で終わった。
 9月末からエルサレム旧市街で騒乱が起こり、暴動と鎮圧の動きのなかで現在和平に危機が訪れている。

 

■三宗教の聖地 エルサレム

 パレスチナはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教の聖地をかかえている。数世紀にわたってエルサレムはそれぞれの信仰者の巡礼地となってきた。エルサレムだけでなく、ユダヤ教とキリスト教の聖地ガリラヤ、またユダヤ教とイスラム教の聖地ヘブロンもある。
 7世紀、イスラム軍がエルサレムを占領したとき、総帥カリフのウマルは、ここをイスラム教にとってメッカとメディナに次ぐ第三の聖地とした。荒れるがままだったエルサレムの神殿に足を踏み入れると、自ら従者たちといっしょにそこを清め、聖地として宣言したという。このことがエルサレムを、三宗教の重複聖地とした。
 同一の場所に三つの宗教の聖地があるという状況が、各宗教の信仰者たちに、またこの地に大きな苦汁と紛糾を与えてきた。
 現在も、古代のユダヤ教の神殿のあった場所がイスラム教徒の聖地「岩のドーム」を取り囲んでおり、その南西にある「嘆きの壁」は、ユダヤ人の礼拝の対象になっている。またダビデの墓のあるシオン山はさらに複雑で、三宗教ともに、ここを崇拝している。ここはキリスト教においてキリストの最後の晩餐の地であり、聖霊降臨の地である。ここにはまたイスラム教のコエナクルムという神聖な建物もあり、以前はイスラム教以外は礼拝が禁止されていた。しかし1948年以後、ナチスに虐殺されたユダヤ人にその建物の下部が捧げられ、ユダヤ人の聖地にもなっている。またダビデの墓のそばには「聖母マリア永眠の修道院」もある。
 キリスト教の重要な祝祭である復活祭は、エルサレムで、また聖誕祭はベツレヘムで行なわれる。キリスト教徒の行列がオリーブ山からエルサレムまで続く復活祭の時期は、ユダヤ教の過越(すぎこし)の祭りも行なわれ、昔と同じように子羊が生贄(いけにえ)に捧げられる。この時期にはまたイスラム教徒も、モーセの墓と伝承されるネビ・ムサの地に巡礼する。断食月ラマダーンの第一金曜日には10万人とも言われる人々がエルサムの広場に集り、祈りを捧げる。
 1948年の第1次中東戦争の結果エルサレムは東西に分断され、このエルサレムをイスラエルは首都と宣言した。さらに67年の第3次中東戦争で東西を併合した。しかし事実上は東西に分離されたままの状態が続いている。イスラエルは東エルサレムにユダヤ人を継続して入植させており、東エルサレムを囲む郊外には多数のユダヤ人が居住している。キャンプデービッド会談ではイスラエル・バラク首相が東エルサレムの一部をパレスチナへ帰属させる案を出したが、聖地を新国家の首都とするPLOアラファト議長は主権を強く主張して譲らなかった。

 

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