パレスチナ

和平への苦悶

ふたたび立ち上がる子供たち

アジアプレス・インターナショナル 古居みずえ

 

連日、パレスチナのどこかで、葬儀デモが繰り返される。家族を殺された肉親の叫びは悲痛だ

 

催涙ガスから逃げるパレスチナの若者たち

 

パレスチナの若者たちに向けて発砲するイスラエル軍兵士

 

パチンコでイスラエル軍兵士に立ち向かうパレスチナの若者

 

葬儀デモを繰り広げるパレスチナの人々

 

15歳の少年の死に抗議する女たち。ヨルダン川西岸ラマラ近郊の村で

 

イスラエル軍兵士に頭を撃たれ、植物人間として生きなければならない12歳の少年

 

銃を構えるイスラエル軍兵士

 

ヨルダン河西岸ラマラ近郊でイスラエル軍飛行機のの爆撃を受けたパレスチナ自治政府の建物

 

 

●モハマッド・ジュダ
「モハマドのようなたくさんの子供たちが頭や胸を撃たれているわ。イスラエル軍兵士は子供たちをおどすのではなく、ただちに殺そうとしているんだわ」
 イスラエル軍の銃弾により頭に被弾した少年モハマド・ジュダ(12歳)の母親マリアン(31歳)は怒りに震えて話す。
 二〇〇〇年十月六日、私はモハマド(12歳)を訪ねた。エルサレムにあるマッカーシド病院の集中治療室の奥にモハマドのベッドはあった。少年の視線は宙を舞い、側にはぴったりと母親のマリアンが付き添っていた。
 モハマドは金曜日のお祈りに行き、騒乱に巻き込まれた。お祈りに行かせる前に母親は何か胸騒ぎがして、彼をモスクに行かせたくなかったという。モハマドは母親の知らない間に叔父とモスクへ行った。お祈りが終わったあと、彼は叔父とはぐれてしまった。そのとき銃声がして、たくさんの人々が逃げ出した。モハマドも、わけもわからず、なんとか逃げようとした。モスク近くのライオンズ門のところに隠れていたが、彼は頭を撃たれてしまった。そばにいた若い男性が助けに来たが、彼も撃たれてしまう。
「モハマドは石を投げようとしたのかもしれないけど、ライフルやマシンガンで武装した兵士に子供の投げる石で何ができるというの?」
 モハマド少年は今、身体右半分が麻痺し、意識もない。しかし時々、足を伸ばしたり、動かしたりするのをみると、意識があるように見える。
「モハマドはもういないように思えるの。彼は三番目の息子で、空手とコンピューターがたいへん好きだったわ。末の息子(3歳)はいつも私にたずねるわ。『モハマドはどこ?いつ帰ってくるの?』『イスラエル兵士は僕を殺しに来るの?モハマドみたいになるの?』」
 モハマド少年はたとえ命をとりとめても、直る可能性はなく、これから大半の人生を植物人間として生きなければならない。

●パレスチナの変遷のなかの子供たち
 一九八八年七月、私は完全武装しているイスラエル軍兵士に石だけで立ち向かう、多くの子供たちの姿に衝撃を受け、初めてパレスチナの地を踏んだ。そのころの子供たちは自分の国のために闘っているという思いがあった。現在、闘っている子供たちの姿を見るとその頃を思い出す。
 それから八年目の一九九三年、イスラエルはPLO(パレスチナ解放機構)と歴史的な和平合意に調印した。国外にいた多くのパレスチナ人の帰還やパレスチナ政治犯の釈放もあった。九四年にはパレスチナ自治政府もできて、自分たちの警察も持つことが出来た。人々はデモをしても撃たれず、パレスチナの旗も揚げることができるようになった。多くのパレスチナ人たちはこれで何かが変わると思った。
 自治区ガザ地区では国際援助も始まり、建設ラッシュが始まった。あまりの変わりようにその頃の私は驚いたものだ。しかしパレスチナにとって重要なエルサレム問題や難民の帰還問題など何一つ解決されていないで先送りされていることに私は不安だった。

●ファーレスティーンと父親
 ガザ地区のハンユニス難民キャンプに住むファーレスティーンに、私が初めて会ったのは彼女が和平後の七歳のときだ。七年間もの間、イスラエルの占領に反対する武装闘争に加わった疑いで、刑務所に捕らわれていた父親が、ちょうど釈放されたときだった。ファーレスティーンは待ちに待っていた父親が釈放されて帰ってくると、思わず父親に飛びついて喜んだ。今まで父親の側にいたこともなく、そのとき片時も父親から離れずにいたのが印象的だった。
 父親モルシィは一九八七年一月、PLOの地下活動に加わっていた容疑で、イスラエルに逮捕された。ヨルダン川西岸、ガザ地区でインティファーダが起こる直前のことだった。モルシィは子供にも別れを告げることなく逮捕された。末っ子のファーレスティーンはその頃、生まれてまだ二ヶ月の赤ん坊だった。
 モルシィは逮捕されて最初の三日間は手を後ろ手に縛り上げられ、椅子に座らされ、目をつぶり眠ろうとすると背中に冷水を浴びせられた。食べ物はなし、不眠で頭がもうろうとした中で尋問は続けられた。兵士の一人はひどく殴り続け、もう一人は優しくした。飴とムチで尋問と拷問が三ヶ月間、繰り返された。
 父親が帰ってからの日々はファーレスティーンにとって初めて幸せを感じるときだったという。父親はしばらくはパレスチナ警察官になっていた。しかし幸せも束の間で一九九九年六月、父親は心臓病で逝ってしまった。長年の獄中での生活が父親の身体を蝕んできた結果だった。

●和平六年の結末
 和平から六年がたち、その間パレスチナ自治区になったところは全体のおよそ四割に満たず、その他の地域はイスラエルと共同管轄の地域か、イスラエルに占領されたままの地域だ。パレスチナ人の生活はここ六年間、ほとんど変わらないどころか、より悪くなっている。いつまでも進展のない和平プロセスにパレスチナ人たちのフラストレーションは高まっていた。
 そして今年九月二九日、イスラエルのリクード党首シャロンの、イスラム教の聖地、ハラーム・シャリーフ訪問を阻止しようとしたパレスチナ住民に対し、イスラエル軍が発砲し、多数の死傷者を出した。その後も衝突は止まず、ヨルダン川西岸、ガザ地区と飛び火し、人々は今回のインティファーダをアル・アクサ・インティファーダと呼んだ。一カ月の間におよそ一八〇人以上の死者を出している。

●受け継がれる闘争
 ファーレスティーンは今年一二歳になる。姉妹の中でも末っ子で父親にあまえていた彼女にとって、父親の死は重かった。
「父親が獄中から帰ってから六年間は、私たちに今まで与えられなかった愛情を精一杯、注いでくれた。でも占領は再び、私の父親を奪っていった。獄中で父親はひどい拷問を受けたから。私は父親のように占領と闘う人間になりたい。そして父親が果たせなかった夢を果たすの」
 今回、私が訪ねたパレスチナの印象は和平のときとはうって変わっていた。町にはインティファーダの闘いの歌が流れ、子供たちは再び石を握っていた。母親たちは「お金や食糧援助はいらないから武器が欲しい」とまで叫び、まるで以前のインティファーダの時代に逆戻りしたかのようだ。パレスチナ人のインティファーダはいかにイスラエルが力で抑えようとしても、占領が完全になくならないかぎり、ファーレスティーンのような子供たちによって次々と受け継がれていくと私は感じた。
(2000.12.3現在パレスティナで取材中)

 

インティファーダ
 占領下におけるパレスチナ人の一斉蜂起を指す。最初は1936年反英暴動での蜂起だが、1987年12月ガザ地区で生じた交通事故を発火点として爆発したのが二度目。強力に武装化されたイスラエルの治安部隊に対し、石ころ、パチンコ、火炎ビンで抵抗する暴動で、差別政策により抑圧された若者たちの欲求不満が爆発した構造を持っている。このときは死者632人、負傷者6万4000人、難民8000人が出た。彼らの立場は一貫してPLOを支持している。88年6月アラブ緊急首脳会議は「アラブ諸国はPLO指導下のインティファーダを継続させるための責任を担う」というコミュニケを発表している。
 今年の暴動は「アル・アクサ・インティファーダ」と呼ばれている。

 

●イスラエル人口とパレスチナ人口
 イスラエルの人口は596万人(98年/イスラエル国籍のパレスチナ人80万人を含む)に対し、パレスチナ人は難民・海外居住者を含み、約600万人と推定されている。このうち、約200万人が東エルサレムを含むヨルダン側西岸、ガザ地区に居住し、この地区が93年の暫定自治協定の第一の対象となる。また周辺諸国ヨルダン、レバノン、シリアの3カ国に約200万人が住んでいるが、これには難民も含まれる。さらに、湾岸諸国への出稼ぎに行っている者たち、それ以外のヨーロッパ、アメリカなどの地域に居住しているものが合計120万人と推定される。湾岸諸国へ出稼ぎに行っていた者たちは、湾岸戦争でPLOがイラク寄りの姿勢を取ったため、多くが追放・解雇され、各地のパレスチナ人コミュニティは大打撃を受けた。

 

 

パレスチナの歴史
       
アジアウェーブ編集部


パレスチナ素描

       
久保健一

 

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