ベトナム戦争に参戦した韓国軍元兵士たち

慶 淑顕 キョン・スッキョン

 

ベトナム戦争当時の韓国軍兵士たち(後列左がキム・イルランさん)
写真提供/キム・イルランさん

 

枯葉剤を浴びて後遺症に苦しむカン・ソングさん(55歳)

 

橋の上でボランティアの助けを得て、歩行練習をするカン・ソングさん

 

枯葉剤被害の後遺症で苦しむ韓国軍元兵士患者

 

管から水分を補給するキム・ヨンサンさん

 

ベトナム中部の韓国軍陣地前でのキム・イルランさん
写真提供/キム・イルランさん

 

 

カン・ソングさんの場合
●ベトナム戦争に参加した韓国
 ベトナム戦争が終結して、今年で二六年。日本では遠い過去の出来事かもしれない。しかし、韓国では戦争の傷をいまも深く抱えて暮らす人たちがいる。ベトナムの戦場で枯葉剤を浴びて、その後遺症で苦しんでいる韓国軍元兵士たちだ。
 韓国政府はアメリカからの参戦要請を受けて、一九六四年、移動外科医療団とテコンドーの教官を当時の南ベトナムに派遣したのを皮切りに、ベトナム戦争と深く関わることになる。六五年からはついに戦闘部隊を送り込み本格参戦。七三年に撤退するまで、三一万人あまりの韓国軍兵士がベトナムに派遣された。
「ベトコン」と呼ばれた「南ベトナム解放民族戦線」の共産ゲリラが潜む森に、米軍は六一年から七一年までの間、ベトナムの大地から丸ごと壊滅させようと枯葉剤を撒き続けた。枯葉剤にはきわめて微量でも人体や環境に致命的な影響を与える猛毒ダイオキシンが含まれていた。戦争中、ベトナムの大地に撒かれた枯葉剤の総量は約九万一千キロリットルと推定されている。
●白馬部隊のジャングル戦
――カン・ソングさんの枯葉剤体験
 六八年から一年間、韓国軍「白馬部隊」の一員としてベトナム中部の街ニンホア周辺のジャングルで作戦に参加したカン・ソングさん(五五歳)は、ベトナムで枯葉剤が撒かれていたときの光景を振り返る。
「アメリカ軍の飛行機が撒いた粉は、まるで白い霧が降ってくるようでした。私たちは蚊を殺す薬だとばかり思っていました。人の体に害があるなんて思いもしなかったです」
 カンさんは帰還して二四年も経ったある夜、就寝中に突然体のマヒに襲われた。それからまもなくさらに左の手足が動かなくなった。それだけでなく、枯葉剤の影響なのか、妻までもが流産や死産を五回も繰り返した。
●隠蔽された韓国での枯葉剤
 韓国軍事政権下では、ベトナム戦争の枯葉剤被害が隠され続けた。しかし、アメリカで元米軍兵士らが起こした枯葉剤被害訴訟が、一九九一年に韓国で報じられたことを契機に、韓国国内でも枯葉剤被害の実態が明らかになる。
 それ以前に枯葉剤の被害で亡くなった元兵士たちの数は、不明のままになっている。韓国では以前から、ベトナム帰還兵のなかに皮膚病や末梢神経の病気などで苦しむ人が、多かった。しかしその原因が特定できず、「ベトナムで移った風土病や性病のせいだ」という、根拠もない噂や偏見で見られることが多かった。
 現在、カンさんのような枯葉剤の後遺症に苦しんでいる元兵士たちは少なくない。ガン、皮膚病、神経病などの病気で、政府から枯葉剤被害者として認定されている人だけでも三九二二人、そして親からの遺伝による後遺症で認定された「二世患者」も二四人いる(二〇〇一年一月、韓国政府の統計)。これまで何らかの症状を訴えて検診を受けた人の数は七万人にも及ぶ。
●カンさんの闘い
 九九年、カンさんは韓国中部のノンサン市に流れるクム川(錦江)にかかる橋の上で、ボランティアの助けを借りて歩行練習を始めた。往復二キロもある橋の上で、松葉杖の代わりに橋の欄干を右手で握ってゆっくりと歩いてゆく。
「じゃあ、今度は独りで行ってみるから」と、カンさんは橋の欄干から手を離して自分の力だけで歩きだす。右手を少し振りながら体のバランスをとり、一歩一歩足を前に出す。しかし、五歩ぐらいが精一杯だ。すぐに欄干に手をやってしまう。それでも、カンさんは喜びをかみしめていた。橋を渡ることは歩行練習の意味もあるが、彼にとっては勇気を出して世間に出てきたという意味もあるのだ。これは自らへの挑戦でもあると信じている。
「鉄砲玉も私を避けたのだから、枯葉剤ごときには負けていられないよ」戦争による人間の破壊を身を持って告発する気迫をこめてカンさんは言った。
●再び倒れたカンさん
 しかし昨年八月、カンさんは再び倒れた。脳梗塞による全身麻痺であった。今年三月、私は彼の入院している病院を訪ねた。
 彼が入院する「ボフン病院」は軍人や公務員のための医療施設である。戦争で負傷したり病気になったりした元軍人が多数入院している。カンさんは自宅から近いテジョン(大田)にあるボフン病院に入院した。ここにも、すでに枯葉剤の後遺症に苦しむ元兵士たち二〇人が入院している。
「よくきてくれた」とカンさんは微かな声で迎えてくれた。しかし、私はカンさんの姿を見て、何も答えられなかった。その後の言葉はお互いに何も続かなかった。長い沈黙の時間が病室を重く包んだ。それは一時間近くもずっと続いた。
 私はカンさんの麻痺している腕を触った。彼は何も感じられなかったかもしれないが、私はその柔らかい腕を何度も摩ってあげた。そして、突然カンさんは力のない小さな声で話し始めた。
「申し訳ない……。多くの戦友たちもここで死んだ。あなたに健康な自分を見せたかったのに……」
 そう言って、また彼は黙り込んでしまった。私も彼にかける言葉を失っていた。カンさんの橋の上でのリハビリもむなしく、枯葉剤の後遺症は再び彼の命を脅かしていた。彼が再びあの橋の上に戻ってくることは、恐らくないだろう。

キム・イルランさんの場合
●国策としてのベトナム戦争
――文通女性と結婚
 一九六〇年代の韓国は、GNP(国民総生産)が北朝鮮よりも低く、経済的に貧しい国だった。そんな時代背景のなか、韓国政府はベトナム参戦を決定し、派兵を推し進めていった。
 当時、韓国ではベトナム参戦についてのイメージをよくするために、様々な政策がとられた。その一つとして、女子学生や女性の会社員と、軍人の文通を奨励した。キム・イルランさん(五四歳)もそんな政策に乗ってベトナム戦争に参加し、文通で知り合った女性と結婚した一人だ。
●「猛虎部隊」の分隊長として
――苛烈な戦争体験
 キムさんもいま枯葉剤の後遺症で足や腰の痛みに苦しんでいる。顔には細かい血管が浮かびあがり、顔色はつねに赤らんでいる。彼は六六年から一年間、ベトナムの中部クイニョン市周辺で、韓国軍「猛虎部隊」の分隊長として戦った。
 ベトナムの人々にとって加害者だった彼は、帰国後、思いもしなかった枯葉剤の後遺症に苦しむことになった。消えることのない戦場での記憶を抱えて、加害者であると同時に被害者でもある、精神と身体の二重の傷に苦しみ続けている。
「帰国後は、ヘリコプターの音を聞くだけで身の毛がよだつようでした。ベトナムでは本当にいろんなことがあったから……」と、キムさんは静かに語る。
「寝て起きたら戦闘、そしてまた戦闘。その繰り返しです。すると、戦場で人を殺すことまでが、ストレス発散方法になりました。誰がいちばん早く人を撃ち殺すかで、ビールを賭けました。人の命で賭けをしていたのです……」
 さらに戦場での記憶をたどって、彼は告白するように話し続けた。
「六六年九月から三カ月間、私はベトナム中部のフーカットというところで、『猛虎六号作戦』を行なっていました。ある村に二〇人ぐらいのベトコンがいるという情報を得たので行ってみたんです。それまでの戦闘で戦友がたくさん戦死したり負傷したりしていましたから、そのとき私たちは完全に頭に血が昇って狂ったようになっていました。村ではベトコンを探し出すのが難しくて、私たちは見せしめのために村長の娘を木に吊るして腹を切ったんです。それでも、村長は何も言わなかったので、二番目の娘も同じようにして殺したんです。そして、三番目の娘を吊るしたら、とうとう村長が口を開きました。こうやってベトコンを全部探し出して、村長も含めてそこにいた人たちを皆殺しにしました。こんなことは数えきれないくらいありました。私たちは人間ではなかったんです……」
●精神と身体の二重の傷を抱えて
 彼は、この「猛虎六号作戦」が終わると、韓国政府から勲章を与えられた。異国の戦場で、何度も人を殺した体験を心の底に抱えこみ、戦場からの文通で結ばれた妻にも、子供にも、誰にも言えないまま、ずっと罪責感に苛まれ、癒えることのない心の傷をひろげてきた。
 毎年六月六日、韓国では全国でベトナム戦争犠牲者の追悼式を開く。キムさんもこの日、戦死した部下の兵士のお墓参りをするため、ソウル市内の国立墓地に向かった。
●国立墓地で
 墓前で彼は、タバコを大きく一吹かししてから、戦友たちの霊に捧げた。
「一服して楽になってください。あなたの分隊長が来たよ。きっと安らかなところに行って眠っていると、信じています」と、亡き部下に語りかける。
 国立墓地には、ベトナム戦争で亡くなった韓国軍元兵士たちおよそ四〇〇〇人が眠っている。枯葉剤の後遺症で死亡する元兵士たちもここに収められる。
 生き残った兵士たちも、亡くなった兵士たちも、戦争の加害者として、そして被害者として、その心と体に傷跡をずっと抱えたまま、問い続けている。
「ベトナム戦争とは、私たち韓国人にとって何だったのだろうか……」
 再び戦禍を繰り返さない痛切な祈りが静かに捧げられる。

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