― インドネシア ―

イリアンジャヤ・西パプア
天然資源の開発で踏みにじられる人権
メラネシア系先住民族の独立にかける思い

文・写真 金武島菜 きん・しまな

 

 

イリアンジャヤ北岸のOPM解放区部隊お抱えのダンス・グループ。 海の神に豊かな恵みを感謝する舞い。 その踊りにはメラネシア系先住民族の心が象徴されている

 


1977年、銅山地帯や中央高地でインドネシア政府に反発した地元住民が蜂起した。これに対するインドネシア軍の空爆を伴う鎮圧作戦で数千とも数万ともいわれる人々が命を落とした。写真はその当時、攻撃を逃れてパプアニューギニアに難民として逃れた人々

 

フリーポート・インドネシア社の金属精製工場。同社の鉱山一帯は、2000人とも言われるインドネシア軍兵士によって護衛されている

 

70年代前半に操業を開始したフリーポート社の廃棄物によって、銅山から流れるアイクワ川沿いの森林は数千ヘクタールにわたり壊滅状態になった

 

60年代から独立闘争を続ける自由パプア運動OPM。決定的な資金不足に苦しむ彼らが訓練で手にするのは、木の模造銃だ。「ジャングルに入ればインドネシアの兵士には負けない」と語る

 

彼らは77年の鎮圧作戦による犠牲者の名簿を持参していた。 そこにはおよそ2000名の名前が記されていた。


イリアンジャヤ

●イリアンジャヤの先住民族

 首都ジャカルタから東におよそ三千キロ。世界第二の島ニューギニアの西半分に、イリアンジャヤ州がある。面積ではインドネシア全体の五分の一を占め、日本のおよそ一・一倍の広さにあたるこの州の人口は、わずか二百万人強だ。低地には熱帯のジャングルと湿地が広がり、中央高地には頂きに雪を冠する四千メートル級の山脈がそびえる。壮大な自然に多様な野生の生物が息づくこの地には、マレー系を主とするインドネシア人とは様相の異なる、黒い肌に縮れた髪を持つメラネシア系の先住民族が、幾千年も前から暮らしてきた。

●高まる独立の機運
 昨年八月末の住民投票を経て、東ティモールがインドネシアからの独立を勝ち取ってから、このイリアンジャヤ州でもメラネシア系先住民族の間で独立へ向けての気運が高まりつつある。昨年十二月三一日に同地を訪れたワヒド大統領は、こうした独立派住民達の意向に応える形で、州の名前を「イリアンジャヤ」から「西パプア」へと変更することを承認した。
「インドネシアは、私たちを同じ国民として発展させようとは微塵も思っていません。私たちの土地に眠る豊かな資源、それだけを利用するのが目的なのです」
 そう語るのは、独立派の指導者の一人で、メラネシア系先住民族・アムンメ族の有力者であるトム・ベーナルさん(56歳)だ。
「私たちメラネシア系先住民族がなぜ独立を望むのか。それは、私が生活するティミカという町を見てもらえば明らかでしょう」

●ティミカの町の経済構造
 トムさんが暮らすイリアンジャヤ南西部のティミカという町の近郊には、インドネシア政府と軍の全面的なバックアップを受けるアメリカ資本の鉱山会社フリーポート・インドネシア社がある。一九七二年に操業を開始した同社は、現在では日産二〇万トンもの金や銅を生産する世界最大級の鉱山会社へと成長した。九二年にはインドネシア政府から、その後三〇年間に及ぶ二五〇万ヘクタールの採掘権を獲得したが、こうした契約は、もともとの土地の所有者であるアムンメ族やダニ族といった地元住民の頭越しに結ばれた。
 ティミカは州都ジャヤプラから飛行機で一時間弱、眼下に広がる深緑色の密林がいきなり、一面に土砂の堆積した荒地へと姿を変える。銅山のあるスディルマン山脈から流れ出るアイクワ川に投棄された鉱山会社の廃棄物が、河川の水質を汚染し沿岸の数千ヘクタールにわたる森林を枯渇させた。そのため河川流域で伝統的な狩猟・採集生活を営んでいたメラネシア系先住民族カモロ族の、狩猟地や主食のサゴの自生地が決定的なダメージを受けた。

●犯される生活環境
 アイクワ川沿いで出会ったカモロ族の女性フランシスカさん(55歳)は涙ながらに語った。
「サゴもなくなり、猟をする森も消え、カヌーをつくる木さえ枯れ果ててしまった。私達はどうやって生きてゆけばよいのでしょうか……。企業は私達に死ねというのでしょうか……」
 三年前、企業によって新しい移住地に移された彼女は、住居以外の補償がもらえず、作った野菜を市場で売りながら月一〇万ルピア(約一五〇〇円)の収入で細々と生計を立て家族七人を養っている。
 鉱山会社の汚染や開発による土地の明渡しなどによって、移住の対象となったカモロ族、アムンメ族、ダニ族などの地元住民の数は、過去二八年間で数万人に上ると言われる。そのほとんどが十分な補償を受けることなく、半強制的に土地を追われているという。移住を拒否すれば、独立を求めて闘争を続けている反政府組織OPM(自由パプア運動)とのレッテルが貼られ、逮捕や拷問といった迫害を受けることもある。気候の涼しい高地で暮らしていたアムンメ族やダニ族の中には、海岸部の低地に移されたことによってマラリアなどに冒され犠牲となる人々も後を絶たない。
 こうした土地をめぐるトラブルで、フリーポート社を護衛するインドネシア軍とアムンメ族が衝突し、過去三〇年間でアムンメ側には数千名の犠牲者が出ているともいわれる。

●祖先からの地―-独立要求
 アムンメ族のトム・ベーナルさんは、こう語る。
「メラネシア系先住民族にとって、自然は母のようなものです。特にアムンメ族にとっては、銅山のある山は祖先の霊が眠る神聖な場所なんです。私達は過去に幾度となく政府と企業に話し合いを要求してきました。しかし、彼らは同じ一人の人間として私達を受け入れてはくれなかった。だから私達に残された道は、メラネシア系先住民族の国『西パプア』として独立するしかないのです。なぜならば、この土地は祖先たちから受け継いできた大切な土地なのですから……」
 全インドネシアのおよそ四分の一の天然資源が眠ると言われるイリアンジャヤ州。開発を優先して、地元住民の人権を踏みにじってきた政府のやり方への不満、それが今、先住民族によるインドネシアからの独立要求というかたちで噴き出そうとしている。

西パプア
「西パプア」という祖国を守る闘い
弓と槍で闘争を続けるイリアンジャヤのOPM


●変わる州の名
「西パプア」という言葉を聞いて、それがどこにあるのかわかる人はどのくらいいるだろうか。インドネシアの二六番目の州・イリアンジャヤでは、昨年末ワヒド大統領の現地訪問の際に、独立派のメラネシア系先住民達の要望が受け入れられ、州の名前が変わることになった。その新しい名前が「西パプア」だ。今後正式な手続きを経て、二一世紀までには、ニューギニアの西半分をさす呼び名として地図上にこの文字が現れることになるだろう。
 私が、初めてこの言葉を耳にしたのは、スハルト政権が崩壊する前の一九九八年三月、イリアンジャヤ州と隣国パプアニューギニアとの国境地帯、ニューギニア島中央部の奥深いジャングルの中だった。
「本当に長い間闘い続けてきましたが、世界はまるで無関心です。国際社会がここで何が起っているのかに注意を払わないでいる間に、インドネシアによって私たちの土地は奪われ多くの同胞が殺されてしまいました。このままでは、私たちの祖国『西パプア』は、この地上から滅んでしまうかもしれない……」

●独立を求め続けてきたOPM
 イリアンジャヤを「私達の祖国『西パプア』」と呼ぶのは、OPM(Organisasi Papua Merdeka/自由パプア運動)の老司令官ベネッド・マーウェンさん(58歳)だ。
 OPMとは、メラネシア系先住民族により形成され、インドネシアからの独立を求めて闘争を続けるイリアンジャヤの反政府組織だ。正確な勢力は不明だが、およそ五千人はいると考えられ、イリアンジャヤ全土で三つの拠点を持つとされる。オランダに代わり六三年から当地の行政権を握ったインドネシアに抵抗する形で、六五年に結成された。以後、資金不足に苦しむ彼らは、先住民族の伝統的な生活に欠かせない弓と槍を武器に、密林や山岳地帯を転々としながらゲリラ戦を展開してきた。
 三四年間もの間ジャングルに身を潜めながら、兵士としてOPMの闘争に身を投じてきたマーウェン氏は言う。
「私たちは、本来なら『西パプア』という一つの国として独立するはずでした。しかし、インドネシアがやってきてからというもの、私たちは、それについて口にすることが許されなくなりました。私の母方のおじは、独立派と疑われ軍に連行されてから未だに行方知れずです。そうした軍のやり方を見て、抵抗するには森に入るしかないと思ったのです」

●併合の過去
 イリアンジャヤがインドネシアに併合された過程は他の州とは異なっていた。
 四年間にわたるオランダとの独立戦争を経て、インドネシアの独立が正式にオランダに承認された一九四九年、イリアンジャヤ(当時の西イリアン)は、インドネシアには含まれずそのままオランダ統治下に残された。イリアンジャヤを自国の領土として執拗に要求してくるインドネシアに対して、五〇年代初めから、オランダは当地をメラネシア系先住民族の国「西パプア」として独立させるべく準備を始める。六一年には、過半数をメラネシア系先住民族の議員が占めるニューギニア議会が開かれ、「西パプア」という国名を始め、国旗「ビンタン・クジョラ(明けの明星)」、国歌「ハイ・タナ・ク・パプア(ああ私の土地パプア)」も制定され、オランダ政府との間で一〇年後の独立が約束されたという。
 しかし、結局、当時の冷戦構造下で、ソ連へのインドネシアの接近を恐れたアメリカの介入で、イリアンジャヤは、オランダからインドネシアの手へと引き渡されてしまった。以後、インドネシアによる徹底的な独立派への弾圧が始まり、その犠牲者は正確な数字は不明だが十数万とも二〇万ともいわれる。

●変わる潮流
 しかし、圧倒的なインドネシアの軍事力の下、長期にわたり苦戦を強いられてきたイリアンジャヤの独立闘争も、スハルト政権崩壊、東ティモールの併合撤回など、インドネシアの民主化の流れを受けて新しい展開を見せている。
 昨年九月、イリアンジャヤ北部に拠点を持つOPM司令官ハンス・ヨエニさん(57歳)の解放区には、噂を聞きつけた若者たちが兵士を志願して続々と集まっていた。OPMという名前すら、公に口にすることを人々が恐れていた、スハルト政権下では考えられないことだ。ハンスさんは語る。
「いつかこの日が来ると信じて、どんなに苦しくても、絶対に降参せずに耐えてきました。祖国の独立をかけたこの闘争では、多くの仲間たちが命を落としていきました。そうした友人達の死に報いるためにも、自分は闘争を続けなければ、と自分に言い聞かせてきました」
 六八年から闘争に参加したハンスさんが指揮する部隊は、度重なるインドネシア軍の掃討作戦により、八〇年代後半には二〇〇人近くいた部隊が五人にまで減ってしまった。しかし、一〇年間近くジャングルを逃げながら部隊を立て直すチャンスを狙い、スハルト政権崩壊後、海沿いの村に拠点を移し勢力を拡大したのだ。

●前進する独立運動
 二年前、スハルト政権下で、彼ら自身が弓と槍の闘争に限界を感じていることは明らかであり、森に身を潜める彼らの間には、悲壮感と絶望感が漂っていた。しかし、この二年間の間に、イリアンジャヤでは、人々が独立旗「モーニングスター」が描かれたTシャツを着て平気で街頭を歩くようになり、独立を求めるデモが瀕発し、昨年二月には先住民族の代表団がハビビ前大統領に直接独立を要求するまでになった。そして、昨年十二月末には、州の名前を「西パプア」へ変えることが承認され、イリアンジャヤの独立運動は大きく前進した。州名変更の記事を新聞で読みながら、私は、OPMの二人の老司令官が語った言葉を思い出していた。
「私たちの闘争は必ず勝利すると確信しています。ベトナムを見てください。アジアの小さな小国が世界の大国アメリカを倒したのです。人は殺せても自由を望む人の心までは殺せない。そして自由を求める思いは必ず実を結ぶ。それは歴史が証明してくれているのです。黒い肌と縮れた髪を持つパプア人の最後の一人が死ぬまで、私たちの闘争は受け継がれてゆくでしょう」。

  アジアプレス・インターナショナル  金武 島菜(きん しまな)

アジアプレスのレポート

●カンボジア
崩壊する農村
農業国カンボジアの変化
和田博幸


●ベトナム戦争に参加した韓国軍元兵士たち
慶淑顕

アジアプレスのホームページヘ

 

 

トップページへ戻る