拡大する貧富の差

アジアプレス・インターナショナル 和田博幸

 

 

シェムレアップの農村で稲の刈り入れに追われる親子。私がカメラを向けると子供が怖がって母親にしがみついた

 

農村では土地を持たない農民が増えつつある。モーン・ブーンさん(左端)は、一日約100円で雇われて働く農業労働者だ

 

プノンペンのゴミ捨場、ストゥンミエンチェイで、豚の毛にたかるハエを見つめる少年。農村では生活できなくなった農民が都市に流入してくる。ビニール1kg100リエル(約3円)。空ボトル1kg700リエル(約20円)。空缶10個100リエル。1日150リエルほどを稼ぐ

 

産業廃棄物は撤去されたものの、運び込まれた跡地は今も牧草地として牛が草を食べていた。村人の中には、22頭買っていた牛のうち、すでに原因不明の病気で6頭が死に、5頭が痩せてきたので、死ぬ前に市場で売ってしまったという。現場は村の水源にもなっており村人への健康被害が懸念される

  ●変貌する伝統農業
 一一〇〇万の人口を抱えるインドシナ半島の国カンボジアは、およそ八割の国民が農業に従事している農業国だ。メコン川やトンレサップ湖といった天然の水資源に恵まれ、人々は家族経営による稲作を営んできた。
 しかし現在、カンボジア農村は大きな変化を迎えようとしている。化学肥料や耕運機の導入といった近代化の波が押しよせる農村では、無秩序な資本主義に、農民たちが翻弄され、悲鳴を上げている。

●没落する自作農民

 九九年十二月中旬、北西部バッタンバン州。黄金色に色づいた水田で一八人の農民が稲の刈り入れに追われていた。作業はすべて手作業で、器用に鎌を操って刈り取っていく。そのうち一五人は、日雇いで働く農業労働者だ。田植えや稲刈りの農繁期に雇われ、一日およそ三五〇〇リエル(約一〇〇円)ほどの賃金を受け取る。
 カンボジアの農村では一九八〇年代前半、ポルポト時代(七五年〜七八年)に集団化されていた農地を農民に再分配した。各農家には、家族の人数によって田が分けられたため、農地解放の役目を果たした。モーン・ブーンさん(49歳)一家も一・五ヘクタールの田んぼを所有していた。しかし四年前、ブーンさんの夫が病に倒れ、田植えの時期を逸してしまった。これまで自給自足の生活を続けてきた彼らには、唯一の財産である田畑を売るか、町の高利貸しから月一〇%の利子でお金を借りるしかない。五人の子供を抱え、生活に困ったブーンさんはしかたなく、二九万リエル(約八〇〇〇円)で田んぼを売った。しかしそれで得たお金もあっという間に生活費で消えてしまい、結局夫を医者に診せることさえできなかった。以来ブーンさんは夫とともに他の人の田畑を手伝って生活している。

●タイへの出稼ぎ
      貧困化が露出する国境の町ポイ・ペト

 村には満足な仕事がないため、ブーンさんの二八歳になる長男は三年前からタイへ出稼ぎに行っている。ブローカーに高額な斡旋料を払い、密出国してタイの建築現場で不法労働者として働いているという。一年前にはタイの警察に捕まり、それまで稼いだ三万円ほどを没収されたうえ、一カ月間刑務所に入れられた。しかし帰国後、再び国境を越えていった。
 タイとの国境の町ポイペトには、土地を失って、故郷を追われ流浪の果てに行きついた人々がスラムを形成している。彼らの多くが、タイ側から物資をリヤカーで運搬するその日暮らしの労働に従事している。地雷で足を失った人も、木製車椅子でリヤカーを牽引していた。スラムの環境は厳しく、多くの子供が学校に行けないでいる。路上にはストリートチルドレンがシンナーの入った袋を片手にしている姿も目につく。
 この町の孤児院を訪ねたとき、一人の少女と出会った。セイン・セレヤさん(13歳)。彼女は七歳になる弟と入所している。三カ月前、彼女は母親に連れられ、仕事を求めてこの町に来た。母親は劣悪な環境からすぐに病気になり倒れてしまった。母親は二人を孤児院にあずけ姿を消してしまったという。
「ここは楽しいです。ご飯も食べられますし、学校にも行けます」
 母親のことを心配しながらも、今がこれまでの人生で一番幸せだという彼女の笑顔を見たとき、カンボジアが抱える厳しい現実を見た気がした。

●拡大する貧富の差/増える産業廃棄物

 プノンペン市内、国際的チェーン・ホテルのすぐ裏手に、ストゥン・ミンチェンというゴミ捨場がある。広大なゴミの山からはガスが立ちこめ、悪臭で吐き気をもよおすほどだ。一〇歳ぐらいの子供から老人まで約一〇〇人ほどの人々が、手に鉄の鉤を持ちゴミの中からめぼしい物を探していく。ビニール一s一〇〇リエル(約三・五円)、空き缶一〇個一〇〇リエル、鉄一s一〇〇リエル……。朝の六時から日の暮れる夕方六時まで、一日働いて一五〇円ほど稼ぐという。
 ゴミ捨場で暮らす人のほとんどが農村では食べることができなくなり、都市に流れてきた人たちだ。ポン・ルムさん(33歳)は、ここに来て二年になった。はじめ感じた悪臭も、今では慣れて感じなくなってしまった。夫と長女も一緒にここで毎日働いている。四人いる子供は全員、学校へ通っていないという。
 ルムさんの故郷は東部プレイベン。一ヘクタールの田は土地が貧しく、食べていくのがやっとだった。しかし三年前、田が冠水したため籾がほとんど実らなかった。プノンペンに出てきたものの、仕事はなく、こうしてゴミを拾うしかないという。
 農村が貧しくなっていく原因は、こうした天災や、耕運機・化学肥料などの導入による貨幣経済の浸透だけではない。昨年のフィリピンのように、カンボジアでも産業廃棄物投棄の問題も深刻で、この国は「アジアのゴミ捨場」となっているのが実情だ。
 カンボジア南部の港湾都市シアヌークビルには九八年十二月、台湾から約二八〇〇トンもの産業廃棄物が持ちこまれ、近郊の山の中腹に捨てられた。
 港でゴミ運搬の仕事をしていたピッチ・ソバンさん(当時30歳)は、仕事を終え自宅に戻ると、そのまま意識を失い死亡した。私がソバンさんの家を訪ねると、彼の母親は涙ながらにいかに彼が苦しんで死んだかを語ってくれた。ゴミの中には、水俣病を引き起こす有機水銀をはじめ、毒性の強い物質が含まれていたと指摘されている。
 ゴミ捨場近くのバットラン村では、ゴミが捨てられた直後、ゴミの毒性を知らずにゴミの入ったビニール袋をみんなで拾いに行ったという。また、地下水の汚染も心配されているが、村人にとっては唯一の水源なためこの水を飲むしかない。ゴミが投棄された直後から村人の多くが発熱や下痢といった症状に悩まされている。市場で風邪薬を買って飲んでいる者もいるが、多くは貧困ゆえそれすら買えない。
 跡地を訪ねると、現在もコンテナが野積みにされており、その周辺で数十頭の牛が草を食べていた。もともと牧草地として使われていたため、ゴミが撤去された後も村人がここに牛を放し飼いにしているという。しかし最近、ここで草を食べた牛がつぎつぎに死んだ。ある村人は二二頭飼っていた牛のうち、ここ半年で六頭が死んだという。また、五頭が同様にやせ衰えてきたため、死ぬ前に売ってしまったそうだ。
 自国で処理に困ったゴミをカンボジアに持ちこみ投棄する問題は、あとを絶たない。現在カンボジアにはこうした危険性の高いゴミの投棄を取り締まる法律が整備されていない。行政当局は取り締まるどころか、業者に買収されているという。
 経済格差の拡大や役人の汚職に対する不満が人々の間で鬱積している。それを表すかのように、現在プノンペンでは治安が悪化の一途をたどっている。特に昨年は商店主などを誘拐する事件が多発し、人々を震え上がらせた。
 大きく変貌するカンボジアの農村は、いま伝統の稲作が根本から揺さぶられる大きな問題に直面している。人口の八割を越す農民の自立こそが、今後のカンボジア安定の鍵だといえる。

(アジアプレス・インターナショナル/和田博幸)

 

トップページへ戻る