西アジア
アラビア半島南端の国Republic of Yemen
イエメンの風景
&中世イスラム暗殺教団

羽田敦盛     
その3

トップページへ

その1へ戻る

ワディダハールにある山頂の見張用建物。山頂に村を集めるのは、敵の襲来をいち早く知り、防御にも適しているからだという。略奪や襲撃の多かった歴史がうかがわれる
                      写真/須藤尚俊

●スンニー派とシーア派

 世界の三大宗教の一つであるイスラム教はスンニー派とシーア派の二つに分かれている他、無数の分派、支派、教団がある。「スンニー」は「教祖の言行による者」の意、「シーア」は党派の意である。
 スンニー派はシーア派を異端とするが、分派の原因は、次のような経緯による。
 カリフは「アラーの神の福音の継承者」の意で、イスラム国家の指導者、イスラム教徒の最高指導者を表す。
 始祖マホメットには男子がいなかったので、死後カリフは、義父(アブー・バクル)を初代として、高弟(オマール/最初の改宗者)、婿(ウトマン)、甥(アリー)の順で、第四代までカリフを継いだ。ここまで、マホメットと血縁があるのは、第四代のアリーだけである点に注目したい。
 不幸にも第二代オマール、第三代ウスマン、第四代アリーと続けて暗殺された。
 アリーの死後、カリフの継承をめぐって有力族長のムアヴィアの勢力が強くなり、アリー一族と族長のムアヴィアの子孫とが対立し、ついに衝突となって、アリーの次子フセインが六八〇年ケルベラの戦いで敗死した。アリー家は滅亡し以後ムアヴィア一族がカリフの位を世襲することになった。これがウマイヤ朝である。
 アリー派はウマイヤ朝のカリフを簒奪者とみなし、教祖マホメットの正統を継ぐ者はアリーの後裔でなければならないと主張してアリー家の復興に努め、シーア派として受け継がれていった。
 このようにしてもともと政治的紛争から分かれたシーア派は、正統派であるスンニ派と対抗するため、教理をはじめ制度・慣習などにアラブ世界の様々な要素を採り入れていった。バビロン、ペルシア、インドなど古代文明の要素が取り込まれ、これが秘境的・神秘的傾向を帯びさせることになった。
 シーア派はカリフの制度を否定し、代わりにイマーム(「コーラン」の唯一の解釈者であるとする)をもってイスラム教徒の総指揮者とした。イマームに対する個人的忠誠が強調され、その結果イマームは超人間的性質を賦与された。また血縁を強調して、はじめの三人のカリフ、アブー・バクル、オマール、ウスマンもまた正統カリフではないとした。こうした極端な否定はスンニー派の激しい反発を買い、各地で迫害を受けることになる。
 シーア派の最大の行事の一つである、ケルベラの戦いでフセインが戦死した記念日には、現在でも熱狂的な信者はフセインを殉教者として、自らの身体を傷つけ泣き叫びながら街を練り歩く。こうした殉教的理念は、シーア派の信仰の骨格の一つにもなり、スンニー派から受ける迫害をさらに信仰の強さに替えていく体質を備えている。

●イスマイリ派への迫害と秘教化
 この異端のシーア派からさらに異端のイスマイリ派が分離したのは、第七代イマームの継承権をめぐる争いに端を発する。イスマイリ派によれば、アリの後裔の一人、ムハマッド・ビン・イスマイリこそが第七代イマームであり、他にイマームはあり得ないという。
 イスマイリ派はペルシアの伝統的な神秘思想と古代東方的な文化を元に独自の神学思想を発展させ、他の何ものにも拘束されない自由思想を究極の考えとした。イスマイリ諸派に見出される共通の特色は、非妥協的であり、さらに代々のカリフどころか、初代イスラム祖師さえ認めない否定性にある。彼らはイスマイリこそ唯一にして真のイスラムの徒であると信じ、殉教的精神を鼓吹した。
 その熱烈な殉教的精神により、異端の中の異端、イスマイリ派は、バグダッドを中心とするイスラム世界から、苛烈な迫害を受けるところとなった。
 イスマイリ派によると、そのイマームは預言者によって神の属性の一部を与えられ、これを代々継承するものとされた。そして歴代の受けた迫害の事実が劇化され、迫害すら宗教的価値が強調されるようになり、イマームに対する忠誠のためにはイスマイリ信徒はスンニー、シーアなど他派からの迫害を進んで耐えるのは当然とされた。こうしてイスマイリ派は極端派というよりは、むしろ狂信派に近くなっていった。
 このような信仰は一方でいっそう秘教性を帯びていくことになる。
 激しい迫害に対し、イスマイリ派は西は地中海東岸から東はヒンズークシュ山脈西端に至るまでの広大な地域において、天険に拠り、自らの信仰を守った。イラン高原においてはイスマイリ派は十一世紀の末にカスピ海沿岸に沿うエルブルズ山脈中における難攻不落の城塞アラムートを奪取し、ついでイラン高原の他の峻険な山地に多くの城塞を築いた。その中からイスラム中世史上有名なアラムートを本拠地とするイスマイリ派ニザリ教団が現出することとなる。

●ニザリ派──暗殺教団

 ニザリ派がイスマイリ派からさらに分離したのは、第六代イマームの継承権をめぐる争いが発端で、ニザルを以て正統イマームの系統として他派に対抗したからである。
 その思想と行動の極端からニザリ教団は正統スンニー派と真っ向から対立したのみならず、シーア派とさえ対立して、自らの信仰を純化し、先鋭化させていった。彼らは預言者モハメッドが布教の当初、排斥されてメディナに移って勢力を拡大し、やがて聖地メッカを武力で落としてイスラム帝国を建国した故事に拠り、妥協のない行動を以て預言者に倣うものだと信じ、迫害を逃れて天険に立てこもると、スンニー派への徹底抗戦を開始した。
 これに対してバグダッドを中心とするスンニー派の中央勢力はニザリ教団のみならずイスマイリ諸派への仮借ない殺戮を以て応じ、その勢力の殲滅を図った。ニザリ教団の戦術は時に相当の武力での戦闘も行なったが、大多数の場合はゲリラ的小集団による奇襲、或いは単身での暗殺などの手段によるものであった。
 ニザリ教団の指導者は特に十一世紀、こうした政治的暗殺を実行するために巧妙な幻惑的手段を案出し、実践した。マルコ・ポーロの東方見聞録にも特に章を設けて詳述されている組織的洗脳は以下のようなものであった。
 ニザリ教団の支配する地域の山岳の頂上の城砦には、「秘密の花園」と呼ばれる天国のような場所が築かれていた。果物の木や薔薇のあずまやがあり、噴水があり、きらめく小川が流れ、そこここには乳や蜂蜜が湧き出している華麗な庭園が配置されている。御殿には豪華な絨毯や、柔らかい長椅子など、贅をこらした調度が置かれている。その廻りを天女と見まごう妙齢の魅惑的な娘たちが金銀の容器に入ったワインを持って歩いたり、楽器をかき鳴らしながら美しい声で歌っていた。
「秘密の花園」を支配する「山の長(おさ)」と呼ばれる団長は、腹心の部下をあちこちの村に派遣する。目をつけられた屈強な若者は、麻薬ハシーシュで陶酔状態にされ、秘かに人工の楽園に運び込まれる。目が覚めると、若者は自分が聖典コーランに描かれた通りの楽園の中にいるのを発見する。美しい花園と宮殿で、酒とともに夢のような官能で美女につくされ、快楽を満喫する。若者が十分にこの世の天国を味わい、快楽に溺れ切った頃合いを見計らって、彼はまたハシーシュで酔わされ、外に連れ出される。若者は厳しい現実の世界に戻り、みじめな自分の姿を知らされながら、失われた楽園に恋焦がれる。
 失意の底に落ちた若者の前に、再び団長が現れて、「あの楽園にもう一度戻りたいか」と、厳かに語りかける。「汝は、汝を待っている天国を、ほんの一部前もって味わっただけだ。我らが始祖の御意志を実行することにより、汝はあの天国以上の永遠の天国に喜びに満ちて迎えられるのだ」と。天国を約束された若者は、団長によって用意された暗殺計画に喜びとともに参画し、楽園への道として殺人に命を賭ける。実行すれば再びあの天国に戻れること、たとえ殺されても天使が我が魂を楽園に運んでくれることを信じて。
 こうしてつくられた暗殺者によって、ニザリ教団は強力な暗殺団を組織することに成功した。死を怖れず襲いかかる暗殺者はニザリ派の政敵を次々と凶刃で葬り、年代記にはバグダッドのカリフをはじめニザリ派の犠牲になった権力者の名が連なった。
 当時の西アジア一帯は多くの大小諸侯とその家臣の領地に細分化されていたため、小規模な奇襲や暗殺でこれらを各個撃破していく方法は効果が大きかった。またこのような戦法は大規模な戦闘を行なうよりも彼我の犠牲が少ないものであった。
 暗殺の実行者は自分自身の命を失うことを覚悟しなければならない。この意味では暗殺は一種の自殺行為である。こうした暗殺行為を敢えて行なうには極度の狂信状態を必要とする。ニザリの暗殺者にはその自殺行為を行なうだけの個人的かつ社会的動機が与えられていた。一つには暗殺者たちは死んでも現世で垣間見たような悦楽に満ちた生活ができると信じたことであり、もう一つはただ一人の権力者を倒すことで敵味方双方の人命を失うことを避けることができる、いわば慈悲から行なうという「一殺多生」の論理を信奉したことである。
 暗殺集団の魔手は当時の西アジア一帯を蓋い、恐怖の渦を巻き起こしたばかりでなく、十字軍の将軍たちにまで伸びた。トリポリ伯レーモンドなども彼らの魔手によって命を落とした。ハシーシュで酔わして殺人を行ななわせるということから、西洋ではハシーシュが、暗殺を意味する「アサシン」という語の語源になった。
 さらに十三世紀、モンゴルの第四代皇帝メンゲ・ハーンにまで暗殺の手は伸び、怒ったメンゲは弟のフラグを指揮官にして、イラン西部の討伐に大軍を派遣した。第一の目的はイスマイリ教団の殲滅である。
 一二五七年、モンゴルの大軍の前に、抵抗を続けたアラムートとレムバッセルの城塞もついに陥落し、城主は八つ裂きにされた上に城壁から投げ落とされた。当時の「山の長」ロクン・エッディンも捕えられ、元の本国に送られて、甘粛省の山中で処刑された。
 イスマイリ派はこれにより殲滅されたとされたが、事実はそうでなく残党の一部が南ペルシアに逃れて隠れ、その末裔が一五世紀頃に西インドに侵入した。現在も西パキスタンの北部、カラコルム山脈中のフンザ王国はイスマイリ派に属するなど、アジア各地に信者が散在するという。
 私がイエメンの山間部で出会ったイスマイリ派の集落は、ひょっとしたら彼らの子孫だったのかもしれない。

※現在のイエメンとニザリ派とはまったく関係がありません。暗殺教団に関する部分は随想であることをお断りしておきます。(筆者)

※参考文献「暗殺者教国 |イスラム異端派の歴史|」「世界秘密結社T」「東方見聞録」「世界の歴史5西域とイスラム」(中央公論社)

その1へ戻る

ハッチャ付近の山岳の村。2000m以上の山の頂上にある村は雲の上に浮かぶこともある

写真/須藤尚俊