特集
 東日本大震災現地取材レポート(後編)















2日目:4月30日

女川(おながわ)

 翌朝、タクシーで牡鹿郡(おしかぐん)女川町に向かった。「女川町に入りますよ」というタクシー運転手の言葉と共に飛び込んできたのは、戦場と見紛うような光景だった。街のほとんどの建物が押し流されて、異様に見晴らしが良い。「町が消えた」、とは正にこの眺めを指す言葉だろう。

ビルが波で土台から根こそぎ持ち上げられて、横倒しになっていた。


49.横倒しになったビル(女川町)

 かろうじて残った建物も、鉄筋がむき出しになって痛々しい。


50.鉄筋がむき出しになったビル(女川町)


51.津波で3階の屋上に打ち上げらた車(女川町)


 三階建てのビルの上に車が乗っかっている光景を目にした。タクシーの運転手が「道が通れるようになって、僕が震災後初めて女川町に来たのが一週間後なんですけど光景があまりにも現実離れし過ぎてて、もう笑うしかないんですよね。おお、あんなところに車が乗っかっているぞ、って。ドラマや映画でしかこんな光景みないと思っていましたから。これでも大分きれいに片づきましたよ」と教えてくれた。

 女川町をいったん通り抜けてもらって、女川原子力発電所(以下女川原発)の建つ小高い山の上に向かってもらった。女川原発は、太平洋に面して女川町の南から石巻市にまたがっている。山頂へ向かう道路脇の木でも、クリスマスツリーのようにブイや魚網がからみついてぶら下がっていた。家の二階部分だけが、砂浜に打ち上げられている光景を二度目にした。しかし山に入って海しか木々の間から見えなくなると、日の光を受けて輝く海の向こうに島々が連なる美しいリアス式海岸が広がる。「僕も石巻の出身なんだけど、この辺は本当はすごく綺麗なところなんですよ」と、タクシーの運転手が繰り返し言った。


52.浜辺に打ち上げられた家の2階(女川町)


53.女川原子力発電所入口(女川町)


 原子力発電所は普段から一般人の立ち入りが禁止されており、女川原子力PRセンターも臨時休館となっていたので残念ながら取材はできなかった。高台に建つ女川原発には3月11日の地震直後に地元住民約40名が助けを求めて駆け込んで来た。女川原発は避難所に指定されていなかったが人命を優先させて受け入れたところ、情報が広がって一時は約330名が敷地内の体育館に避難していたことを東京に戻ってから知った。


 女川原発は3月11日の地震で3つある原子炉が全て自動停止したが、1号機タービン建屋から出火し、1〜3号機の燃料プールの水が床に溢れるなどした。また外部電源3系統のうち2系統が地震で使用不可になり、残る1系統で原子炉の核燃料に残る熱の冷却を行った。私たちを乗せてくれたタクシー運転手は、この作業に連日あたった現場作業員を地震発生から1週間後に乗せたことを話してくれた。山形県まで帰りたいので大崎市の古川まで乗せて欲しいと言われたが、ガソリンの不安を抱えていたため石巻駅で降ろしたという。

 女川町に向かって車を戻らせているうちに、山に入ってから感じていた違和感の原因に気づいた。周辺に巨大な鉄塔が立ち並んでいるのだ。麓(ふもと)の女川町では電柱を一本も見なかった(電気自体は女川町でも復旧していた)。原子炉を冷却して安全を確保するために、ここから真っ先に復旧作業が進められたという話をタクシーの運転手から聞いた。「木曜日(5月28日)には宮城県知事、石巻市市長、女川町町長が原発の視察に来ていたようですけれど、女川町はやはり原発関係者向けの旅館や飲食店などで潤っている部分が大きいですから廃止にするのはかなり難しいんじゃないでしょうか」と語った。


54.女川原発に電力を供給する鉄塔(女川町)

「三月十一日当日はどうしていらしたんですか?」と聞くと、石巻市内で70代の女性を乗せて走っていた時に津波警報が鳴ったという。海が大きく引いているのが見えたので「これはかなり危ないな」と思ったそうだが、女性は事態をうまく理解できていないようだった。「私もここで死にたくないから、車を降りるか一緒に逃げてくれってお願いしたんです」と笑いながら話してくれた。女性を乗せて高台に車を走らせている途中で後ろを振り返ると、波が町を飲み込んでいるのが見えたそうである。


55.横倒しになった電車(女川町)

 石巻線の終点、女川駅は跡形も無くなっていた。丘の上の墓場には流された電車が横たわっていて、町を襲った津波の凄まじさを物語っていた。

 
56.高台の墓地に打ち上げられた電車(女川町)


57.写真56に映っている電車を、近撮(女川町)



 かつての自宅を訪れる地元の人々と、自衛隊員の姿を時折見かけるだけで町は閑散としていた。


58.町内を歩く自衛隊員。港の船はここまで押し上げられている(女川町)



 共同住宅の3階に木がひっかかっており、津波の高さが窺われた。開け放されたままのドアもいくつかあり、2階の家の中を玄関から覗くと、地震で散乱した室内の床は海水が運んだ泥にまみれていた。


59.共同住宅のベランダからふとんや材木が飛び出している(女川町)

60.マンションの3階に木がひっかかっている(女川町)


62.女川さいがいFM放送局(女川町)


 女川第二小学校の2階には町の災害対策本部が置かれており、体育館は配給食糧の倉庫として使われていた。校庭には、女川臨時災害放送「女川さいがいFM」放送局が建てられていて、10〜20代の若者が出入りしていた。担当区域内の避難所21ヶ所と自宅で生活を続ける住民に届ける地区依頼分14ヶ所の食糧を合わせた5088食を、朝夕の1日2回配給していた。「1日2食なんですか?」と驚くと、本部の担当者は「朝の配給分を多めにして、お昼に回せるように配慮しています」と答えてくれた。


63.女川第二小学校の体育館に保管された食糧


 体育館の外では休憩中の若い自衛隊員が、黒い雑種の犬にソーセージを与えているのを見て、何となくほっとした気分になった。後でボランティアスタッフに聞いたところ、この犬は自分で鎖をひきちぎって逃げ歩いているところを保護されて、この避難所で飼い主と一緒に生活しているとのことだった。

 小学校の裏に建つ女川総合運動場には、被災者、職員と自衛隊員も含めて約730人が敷地内に滞在している。


64.女川総合運動場に駐車している派出所

 総合運動場には郵便局と警察の車両が止められていて、簡易郵便局と派出所になっていた。


65.女川総合運動場テニスコートに設置された銭湯


 テニスコートには入浴のテントが張られており、近くには洗濯場も設置されていて水は自衛隊員がポンプで供給していた。中はビニールシートが張られて温水プールのようになっている。他の避難所からここへ入浴に訪れる人々のために、送迎バスの発着所もあった。女性専用の物干し場もあり、少しづつプライバシーに配慮する環境も整えられてきたのを見たのは嬉しかったが、それだけ避難所生活が長期化している証しでもあり複雑な気持ちだった。


66.女川総合運動場テニスコートに設置された洗濯場


 総合体育館の入口付近では、携帯電話会社が充電サービスなどを提供する相談デスクを置いていた。また残骸から発見された写真の修正作業を行うテーブルがあり、館内の壁には貼られていた。

 3台置かれたインターネットに子どもたちが集まってゲームに夢中になっていた。1階は談スペースになっており、ちょうど楽天の野球試合を見に人々が集まっていた


67.女川総合体育館の談話スペース


68.女川総合体育館のキッズスペース


 キッズスペースも併設されていて、各地から集まったボランティアが子どもたちと一緒に遊んでいた。帰り際にはここで慰問ライブが開かれていて、さらに人々が集まってきていた。

 私たちが見学した避難所の居住スペースは3部屋だったが、ダンボールで各家庭が仕切りを設けている部屋といない部屋があった。また、一人ないしは夫婦で暮らすお年寄りの部屋と、子どもがいて人数の多い家族の部屋とが分かれている印象を受けた。避難所の職員の方に話を聞くと、「避難所に入る時に部屋は選べませんし、事務所も家族構成で部屋を振り分けません。空いているスペースに順次入ってもらいます。仕切りについては、各部屋にいる班長さんがメンバーの意見を聞いて方針を決めました。プライバシーが欲しい、という方とダンボールで見えないと安全が心配だという方もいらっしゃいますので……」という説明だった。館内を警官が巡回している姿を見かけたが、大勢の人が出入りし、消灯後は暗闇になる避難所生活では治安に関する不安は避けられないのだろう。寝酒程度の飲酒は認められているそうだが、避難所で生活する方に聞くとそれ以上の摂取をして周囲に迷惑をかける人もいるようだった。だがストレスの多い避難所の生活では、お酒で気を紛らわすしかないというのも事実だろう。


69.女川総合体育館避難所の部屋の風景@


70.女川総合体育館避難所の部屋の風景A


 避難所で4人の子どもが近付いてきて、「ガム取って」と言われた。指をパチンと挟まれる、いたずら用のおもちゃである。避難所の生活に退屈しているのか、人懐っこくまとわりついてきた。8歳の女の子は、誕生日のお祝いをした次の日に津波が来たと言っていた。石巻市の家を失った後、母親の実家の家族が避難している女川町の避難所に一緒に身を寄せることにしたらしい。避難所に来る前は、母親と一緒にスーパーで一週間ほど過ごしていたらしい。祖父母を失ったようだったが、うまく自分の気持ちを話せない様子だった。赤いブーツを「さっき新しくもらった」と言って自慢気に見せてくれた。避難所の隅には、寄付された古着が集められていた。整理券をもらって、順番に選ぶ制度になっているらしい。

 9歳の女の子は、「飼っていたダックフンドが流されて、まだ見つかっていないの。だから、お母さんのお友達が仙台から来た時に、これ2つも買ってきてくれたの。ちょっと色が違うんだけれどね」と、脇に抱えた犬のぬいぐるみを見せてくれた。また、「私のお家ね、去年の11月に建てたばかりなのに津波で流されてちゃったの」と悲しそうに話してくれた。

 子どもたちは話を聞くだけの私たちに飽きたのか、「早く帰っていいよ」と私たちに言ってから「早くアレやろう」と新しい遊びに向かって走り去っていった。


71.女川総合体育館避難所で会った子どもたち


 ちょうど外で雨が降り始め、私たちのいたストーブの周りに人が集まり始めた。その中に、先ほど女の子の伯父にあたる男性がいた。女川町の区民センターの職員だそうだ。

「仕事先から避難した高台の上から港を見ていたら、あれ、こんな地形だったかなって思って。そうしているうちに黒い水と瓦礫が徐々に上がってきて、『マリンパル女川』の屋根が隠れたんですよね。あの光景と、地震の揺れはきっと忘れられないでしょうね。今でも夢に出てきますから」

 この「マリンパル女川」は漁港周辺で一番高い建物で、女川町を襲った波は約15メートルにも達していた。「日が登るのを待って、朝七時頃なんとかこちらの方に戻ってきました。あの時は本当に日が昇るのが待ち遠しかったですね。それでこの体育館で嫁さん、妹の旦那や両親と再会したんです」。

「いろいろとご不自由も多いでしょうね」と聞くと、「避難生活に生活なんてしたことないですからね。夜は9時に消灯です。食事は食堂で出るのではなく、配られたものを各自食べます。朝10時頃に朝食が出て、5時頃に2回目の食事が出ます。俺はその時間帯は仕事に行っているので、配給はもらっていません。風呂は朝の8時から空いていて、混雑しないように入浴の時間帯は割り振られています。俺の順番は夜の6時から8時までですけれど仕事で入れない時もありますから、そういう時は翌日が休みだったら朝に入ったりしています。区民センターの車を運転して、途中で別の避難所にいる同僚を一人拾って一緒に出勤しています。区民センターは山の方にあるので大丈夫だったんですけれど、町役場と生涯学習センターは壊滅状態です。3階建ての町役場の屋上まで避難した人が、すぐ下まで波が上がってきたって言っていました。女川町の職員は今、陸上競技場の仮設町民館で罹災証明書の発行など地震に関連した業務をしている人が多いです」。

 最近は車でたまに息抜きに石巻市の方に食事に行ったりするらしい。煙草は石巻市のスーパーやコンビニで購入するらしいが、「外の喫煙コーナーでしか吸えないので、面倒臭くて吸う量が減りました」と苦笑していた。「家がローンだけ残して流されて、仮設住宅の抽選には一応申し込みましたけれど、全く期待していません。先のことはことは考えてもどうしようもないので、考えないようにしています」と話してくれた。


72.女川町生涯学習センター


73.女川町町役場の一階


 女川町役場の裏側。写真を撮影していると「そこから四十人くらい(遺体)が見つかったらしいよ」と通りがかりの人が教えてくれた。

 総合体育館の玄関先で、今年67才になるアメリカ人女性と話した。東京で息子が働いていて、日本人の義理の娘が福島出身だという。50年間近く看護婦として働いて、カウンセラーとしての経験も長年積んでいるとのことだった。テレビで見た光景にショックを受けて、アメリカから三週間前に渡航してきたという。アメリカの赤十字社に問い合わせたが人材の派遣はしないというとだったので、水戸の常盤大学に向かうアメリカの大学のボランティアグループに同行したという。当社は21名で来日する予定だったが、福島の原発事故でキャンセルする人が増えて結局3人になった。常盤大学でボランティアを希望する心理学専攻の学生などを対象に、天災による心と体のケアについてのトレーニングを一週間ほど行ったという。大学からは現地入りする必要はないと言われたが、アメリカからわざわざこのために来たのだからとNGO「ピースボート」に連絡した。すると福島北部と宮城県の惨状について教えられて、バスで宮城県までやってきたという。テントと食料持参で、その日ごとに目的に見合ったボランティア団体に合流しながら移動を続けているという。

「昨日は津波で泥だらけになった家の掃除をしていたのだけれど、そこの夫婦の結婚指輪と、ご主人が結婚記念五十周年に奥さんに送った翡翠のブローチを見つけたのよ。とても喜んでくれて、それだけで日本に来た甲斐があったと思える素晴らしい経験だったわ。避難所も訪れてまわってこれまでに五十人くらいの血圧を測ったりしているのだけれど、日本語ができなくてもボディランゲージで通じるわ。皆とてもフレンドリーで、私の家族の写真を見せるといい話のきっかけになるの。アメリカでは夫が寄付金を集めてくれているのよ」

 避難所から石巻市に向かうバスの中で、男性のボランティア1人と女性のボランティア2人と乗り合わせた。最初は友達同士で一緒に来たのかと思ったが、全員1人旅で関東からゴールデンウィークを利用して来ていた。石巻氏を拠点に、近郊の被災地を訪れてまわっているとのことだった。「災害対策本部に電話で問い合わせた時に、ボランティアに食事や寝るスペースを提供できないから『完全に自給自足で来てください』と言われました。テントと寝袋を持ってきたんですけれど、幸い石巻市内の旅館に予約が取れました。ただ、テントを張るのもなるべく目立たないようにするように言われました。避難所に滞在している方のなかには、プライバシーが欲しいから自分でテントを張りたいっておっしゃる方もいるみたいです。ボランティア活動に慣れている人は、車にキャンプ用品を積み込んでチャーハン作ったりしていました。作業は、毎朝ボランティアセンターから割り振られて、今日は家の中の泥のかき出し作業をしました」。三人とも普段は会社員だが、「自分で感じた地震のショックが大きかったから人ごとじゃない、何かしたいと思ってボランティアに参加しました。東京のNPOが出している、仙台行きのバスを渋谷から利用しました。事前の情報収集には、既に被災地入りした方々のツィート(各人が携帯やパソコンの端末から『ツイッター』という電子掲示板に投稿した百四十文字以内の短文)がとても参考になりました」と話してくれた。また、「一緒に作業をした自衛隊の方が、再建には長い時間がかかるだろうな、と言っていたのを覚えています。もともと平地が限られた土地なので、高い場所に家を建てようと思ったら山を崩すしかないけれど、そうすると年数がかかるらしいです」と話してくれた。


74.女川第二小学校の駐車場にボランティアが張ったテント


 バスが万石(まんごく)浦(うら)を通った。ここだけが、海につながっているにもかかわらず被害がほとんどない。タクシー運転手から聞いた、流された船が橋にひっかかって防波堤の代わりになったという話をすると三人とも驚いて「被災地を見てまわって思ったのですけれど、ほんのちょっとの偶然の差で被害の大きさって全く違ってしまうんですね」と話していた。

 私たちの知らなかった、石巻駅から仙台駅へ向かう民間のバスの時刻表とその混雑状況までボランティアの女性が教えてくれた。ボランティアたちは、こうやって混乱する現地で生の情報を分かち合って助け合い、初対面でも仲間のように見える連帯感を育んでいくのだな、と思った。それは例え数日間の縁でも「絆」と呼んでいいものだろうし、そういった繋がりを求めて人は無償の奉仕をするのではないだろうか。



再び石巻市

 石巻市に午後四時頃戻って、駅前のたこ焼き屋に入るともう売り切れだという。店を出ようとすると、「せっかくだから、コーヒーぐらいなら出せますよ」と言ってくれた。母親と息子さんが経営している店で、四月十九日に「何が何でも開店させた」そうである。「避難所生活をしていると、しょっぱいものが食べたいって買いに来られる方がいらっしゃるんですよ」。壁には、「ここまで津波がきました」と書かれたマークがあった。「この間、何も言わないで店に入ってきて、その矢印の写真だけ撮影して出ていった人がいます。ボランティアではなく、物見遊山で来る人が結構多いんですよ」と憤慨していた。避難所に行って何も手伝わず、炊き出しだけ食べてブログに載せる写真を撮影して帰る人がいるらしい。

「申し訳ありません。実は私たちもボランティアではなく取材で来たんです」と言うと、「野蒜や女川など、あまり報道されていない地域を見てきたたみたいですね。メディアの取り上げ方にも偏りがあると思うので、そういった忘れられた場所について雑誌で現状を伝えていただけたら何よりです」と言ってくれた。タクシーの運転手から南浜長と門脇(かどわき)町(ちょう)の被害が特にひどい、と教えてもらったことを伝えると「南浜町や門脇町を見ると、石巻市なんか被害がなかったんじゃないかって思えるくらいの壊滅状態です。門脇町では大勢の人が門脇小学校に車で避難してきて、校庭に駐車された車が津波で校舎に打ち寄せられて引火して火事になったらしいです」と説明してくれた。津波が繰り返しやってきて消化活動が困難を極めるなか周辺の火事は三日間燃え続けて、日和山(ひよりやま)から見下ろした光景はさながら地獄絵図のようだった、とタクシーの運転手が話していたことを思い出した。

 石巻駅前で、タクシーに乗って日和山に寄ってから門脇町に行ってくれるようにお願いした。


76.日和山から見下ろす南浜町、門脇町

 南浜町、門脇町を眼下に見下ろす展望台には花がいくつも手向けられており、じっと町を見つめながら涙を流している2人連れの女性姿も見かけた。

 タクシー運転手が門脇朝に車を走らせながら、「石巻市はみんな津波警報慣れしちゃってたんだね。これまでに津波警報は何回も鳴っていたけれど、せいぜい1メートルだったから、どうせ今度も大したことないだろうって思って逃げない人も大勢いたんだね。一度は逃げた人も、第1波が50センチメートルくらいで大したことなかったから一度家に荷物を取りに戻ったところを、大きな第2波が襲ってきて飲み込まれちゃったんだね。俺の知り合いで、高台から家に戻ってきて旦那さんを先に2階に上げたところで大きな津波が押し寄せてきて、奥さんが車ごと流されちゃったっていう夫婦がいたよ。職場でも1人連絡のつかない同僚がいて、みんなでどこかの避難所で記憶喪失になっているんじゃないかな、って話しているんだよ」と喋ってくれた。石巻市タクシー協会では、全タクシー約240台のうち147台が水没、乗客を含む25名が死亡ないしは行方不明と発表していると教えてくれた。

 前にも「災害の跡地というよりは空襲を受けた町のようだ」と被災地の惨状を描写したが、南浜町はさながら原爆が投下された跡のようだった。跡形も無い、とは正にこの光景のことを指すのだろう。町内の建築物の8〜9割が流されていて、火事のせいか赤茶けた残骸が多かった。東京に戻って来てから調べると、この地区では複数の場所で火事が発生したらしい。ほんの一段高くなった日和山の麓の住宅街には幸い延焼しなかった。毎朝、窓を開けると目前に焼け野原が広がる毎日とは、一体どんなものだろうか。生と死の分かれ目が本当に紙一重だということを、ここまではっきりと目にしたのは初めてだった。

 たこ焼き屋のご主人から話に聞いていた通り、自動車が門脇小学校の壁に打ちつけられて重なっていた。手前のプールには、自動車が沈んだままだ。


77.門脇町の光景


78.炎上した門脇小学校


「想像を絶する」という表現があるが、この旅では新しい被災地を訪れる度に「もうこれ以上酷い状況はなありえないだろう」と思った。そしてその度に、考えられもしなかった惨状を次に目にしては打ちのめされた。女川町の町を見てどうかこれで打ち止めにして欲しい、と願ったが現実はどこまでも残酷になれることを思い知らされた。


再び仙台へ

 夕方6時半のバスで石巻市から仙台行きのバスに乗り、8時過ぎに仙台駅に降り立った途端に目眩がした。「日常の風景」が、つい数時間前までにいた場所と今いる場所ではあまりにも異なるので身体がついていけなかったらしい。夜のネオンの灯り、駅ナカの土産物店、道を行きかう人々と車、明るいデパートと駅構内……震災前は当たり前だった光景が被災地を訪れた後では非現実的に見える。

 しかし仙台駅を一歩出ると、外壁にネットがかぶせられて現在も修復工事が進められており、駅前の道路にもひびが入って大きくへこんだ部分が見えた。駅前の大通りには、灯りをつけていない店もまだ多くて暗い。3月11日にテレビで見た景色は本当だったのだと記憶を確かめる。仙台市も石巻市もそうだが、1ヶ月半という時間と必死の復旧作業は、外からやって来た人間が町を素通りしてしまえば、そこまでの被害を感じさせないまでに町を回復させていた。今回の取材旅行を振り返って一番印象が強かった光景は、実は廃墟や残骸ではなく、そこで繰り広げられる「日常生活」だった。門脇町の廃墟を犬を連れて子どもと一緒に散歩する父親、避難所で遊びまわる子どもたち、女川町の瓦礫を通り抜けて通学するジャージ姿の女子中学生の姿、日和山で南浜町の焼け跡を背景に咲く桜とお花見をする地元の人々……。人々からそれまでの生活を奪った地震と津波も、被災者の心を慰めている桜も、同じ自然なのだと当たり前のことを思った。5月1日に到着した東京駅で、「女川で初めての梅が咲いた」というニュースを目にした。私もその梅の木は目にしていた。正確には、家が押し流されて船が近くに転がっていたその梅の木の側で、じっとたたずんで見入っている母娘を私は少し離れた場所から見ていた。

 自然に人間の都合は関係ない。そして人間も、自然にどれほど翻弄されてもまた自分たちの生活を築いていく。(了)


79.瓦礫の横を通学する学生たち


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(取材:「文芸思潮編」集部)

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48.女川町の入口


























































































































































































































































































61.土砂まみれになった3F室内の様子(女川町)





















































































































































































































































































































































































































75.たこ焼き屋店内風景(女川町