特集
 東日本大震災現地取材レポート(前編)













1日目:4月29日 

「1000年に1度」と言われた未曾有の東日本大震災から約1ヶ月が過ぎた4月下旬、私に宮城県・石巻市を中心とした被災地の取材のチャンスが訪れた。あの3月11日、私は東京にいて帰宅難民となった。それから毎日、テレビの画面には押し寄せる津波に飲み込まれる車や家、跡形も無く破壊された町、全てを失って茫然自失とする人々の姿、が映し出され続けた。だが正直、あまりにも凄惨で想像を越えたその映像は、映画を見ているようにどこか遠かった。

 スーパーの棚から消える食品、停電で暗い駅や家々、買いだめの行列、放射能汚染の危険、疲労しきって怒りっぽくなっている人々。少なくとも家や水道などの最低限のライフラインは確保されているにもかかわらず、 確かに「3.11(スリー・ワン・ワン)」は自分の生活に影響を及ぼした。それなのに情報だけが錯綜して、冷静に自分を取り巻く現実を把握しきれていた人は本当に少数だったと思う。連日報道される被災地との距離感や体温差が益々、人々を不安に駆りたてていたと思う。

 テレビや新聞で報道される東北の状況は相変わらず困窮を極めていた。ボランティアに提供する物資も限られており、治安も悪化している様子だった。だがそれも報道から得た情報に過ぎず、現地の事情が把握できないため安全な取材計画がたてられずにイライラした。宿泊施設や交通機関などの正確な情報も集めにくく、余震も続くなかである程度の危険を覚悟しなければならないのは分かっていた。出発ギリギリまで、取材に行くのが賢い選択か迷った。
  
 それでも「あの大地震の日から、私、家族、友人、そして日本人と世界中の人々に大きな衝撃を与え、今も生活を脅かし続けている不安の正体が見たい」という気持ちが私を宮城県へ向かわせた。

 大まかなのルートとして、新幹線で東京駅から仙台市までへ行き、仙石線に乗り換えて東松島市まで行く計画を立てた。仙石線は仙台駅一つ手前のあおば通から終着駅の石巻駅までの31駅を結ぶ路線だが、現在(4月29日時点)は地震の影響で15駅目の東塩釜から先の半分以上の距離の運転を見合わせている。路線が復旧していない東塩釜駅から先は現地で何か別の交通機関(代行バス、自転車やタクシー)などを利用して石巻市、そして女川原子力発電所のある女川町まで行く予定を建てた。出発前に宿泊所も東塩釜駅から先の交通手段も確保できなかったので、食料と寝袋は持参することにした。 



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●東京から宮城県へ


 早朝6時40分東京駅発の「はやて115号」で仙台へ向かう。新幹線を使えばわずか127分でたどり着ける宮城県「被災地」の玄関口である。ヘルメットに寝袋担いでいる姿はゴールデンウィークを利用したボランティアに見えたらしく、東京駅のホームでレポーターから「ボランティアですか?ちょっと取材させてください」と声をかけられた。車内にもテレビクルーが乗り込んできていたが、私が見渡した範囲ではボランティアより家族連れやビジネスマンの姿が多かった。4月12日に東京都と仙台を結ぶ東北新幹線が運転を再開して約2週間半が経過し、少しずつ日常を取り戻している気がした。仙台が近付いて窓の外を見るとのどかな田園風景が広がっていて、とても過去1ヶ月半にわたって惨状が報道され続けてきた地域には見えない。だが都市部に近づいて住宅やビルが姿を現し始めると、瓦が落ちた屋根やひびの入った壁が目に飛び込んできた。

 仙台駅に到着すると、すぐに仙石線に乗り換えた。車窓から見える景色もいたってローカル線らしいのんびりした風景が広がる。ここでも、社内で地元の中年女性から「失礼ですけれど、ボランティアの方ですか?」と声をかけられた。「被災地の取材に来ました」と自己紹介してから話を聞くと「この線路からは、本当に被害のひどかった場所は見えないんですよ」と言われた。「ああ、あそこに車が見えるでしょう?」と女性が指差した方に目を向けると、家と家の間の空き地に車体がへこんでガラスの割れた車が十数台無造作に並べられていた。

 電車は30分ほどで東松島市の東塩釜駅に到着した。東塩釜駅で下車して周辺の観光案内所や商店から事情を聞いた。今日中に石巻、そして原子力発電所のある女川(おながわ)まで行きたいことを伝えると、東松島市や石巻市の旅館は復旧作業員やボランティアでほぼ満室だということ、女川で一般向けの宿泊施設や交通拠点が運営されているとは考えにくいことなどを教えてもらった。駅前の旅館にはひっきりなしに空き室や宿泊客に関する問い合わせの電話がかかってきていて、従業員の女性2人の両手が受話器でふさがっている状態だった。被災地近くに宿を確保できなかったボランティアたちが、比較的被害の少なかった東塩釜まで流れてきているという。思案の末、タクシーの運転手に案内役をお願いして、今日はとりあえず石巻市まで松島海岸を通りながら行ってもらうことに決めた。出発前に「ここから先はコンビニも閉まっていて、食べ物やトイレについてはしっかりと用事を済ませておいて下さいね」と念を押された。




●東名(とうな)

  タクシーの運転手がまず案内してくれたのが、東松島市の東名である。むき出しの地面に流された車や瓦礫の山が積み上がる光景が右手に現れて、息を呑んだ。もはや原型を留めていない家々の間を通って、東名駅前に車を止めて降りると「終日運転見合わせ」の本当の意味が分かった。駅だった名残は、崩れ落ちたプラットフォームしかない。線路は地面から持ち上がって歪み、その上を瓦礫が覆っている。出発前にJR東日本に「東塩釜から石巻までの運行再開予定はいつ頃ですか?」と問い合わせた時に、職員が口ごもりながら「復旧の見通しは全くついていません」と答えた声が頭に響いた。


2.東名駅のプラットフォーム跡


 海に向かって歩いて行く道の両側には家の残骸が並び、かろうじて建っている家も壁が崩れて室内がまる見えになっていて痛々しいくらいだ。


3.家財や流れ入ってきた漂流物の残骸が散乱する室内(東名)


4.家が根こそぎ流された跡(東名)

 だが、家の残骸が残っているのはまだ被害の軽い方だと海側に向かって歩いているうちに気づかされた。津波に家を根こそぎ押し流され、土台だけが残っている。視界を阻む家がないので、海が遠くに見渡せる。ところどころに建ち残った家がなければ、ここがかつては住宅街だったとはとても信じられない。


5.瓦礫が散乱する町の風景。向こう側が海(東名)

 茶色と灰色の光景のなかで、取り残されたようなポストの赤が目に留まって近づくと、地面に「〒」マークの看板が横たわっていて、ここが郵便局だったのだと気づいた。近くに
は金庫らしき金属の塊も落ちていた。ここは確かに、生活の場だったのだ。


6.東名郵便局跡

 墓地で自衛隊員が、なぎ倒された墓石の下を探っている姿が見えた。墓場で一体何をしているのだろう、としばらくの間いぶかしく思ってから気がついた。津波に流されて墓石の下に埋もれているかもしれない遺体を探しているのだ。3月11日から約1ヶ月半が経過し、既に行方不明者の捜索は生存者の捜索ではなく遺体の収集作業になっていた。


7.墓場で捜索活動を行う警官隊(東名)


8.東名の町を歩く自衛隊員(東名)


 雨が降ってきたので道を引き返すと、線香の香がしてきた。先ほど通った郵便局の瓦礫の上で手を合わせる男女3人の姿があった。男性の妻は郵便局で働いていて、建物ごと津波に飲まれて亡くなったという。


9.東名郵便局跡で手を合わせる遺族

 その3人の他に、周囲に地域の人らしい姿は見えなかった。廃墟の街で目にしたのは自衛隊員と警察官、そしてそれらの装甲車両のみである。一瞬、自分がSF映画のセットに紛れこんだような錯覚に陥って目眩がした。



●野蒜(のびる)

 野蒜に入っても、川面からは車や家電製品だったものが見え隠れしている。


10.東名から野蒜に向かう途中に流れる川に浮かぶ車

 風光明媚な景観で知られた松林の松も無残になぎ倒されて、木々の合間に押し流された車や家の残骸が横たわっている。


12.なぎ倒された木と、押し流された車が積み重なったかつての景勝地(野蒜)

 松林の中に、ポツンと取り残されたような建物があった。タクシーの運転手が「ここは病院だったんですけれど、津波でもう使い物にならなくなっちゃってね。医者も看護師もいないから、けが人を手当てしてくれる人が誰もいなくてね」と言った。


13.無人になった病院。外には病院から運び出された備品が積み上げられていた(野蒜)

 松林の突き当たりに来ると、T字路の向こう側には「立入禁止」の看板とロープが張られていた。ロープを越えればそこは海だ。50メートルほど離れた場所から見ても、堤防があまりにも低いので驚いた。おそらく大人の腰あたりくらいだろう。


14.この防波堤を越えて津波が押し寄せて来た(野蒜)



陸前小野 

 野蒜を後にして吉田川を右手に見ながら車は走る。川とは道路を隔てた左手の田畑にボートが沈んでいる。畑の向こうには、3月11日から止まったままの電車が見える。運転手が「これ、土がみんな塩水浸しでしょ。瓦礫を取り除くだけでも一苦労だけれど、その後に米なんかもう育ちませんよね」と呟いた。返事に困って視線を右側に移すと、吉田川で水没者の遺体を探すボートが目に入った。


15.塩漬けになった田畑(野蒜)


16.吉田川で遺体を捜索する自衛隊員(陸前小野)




矢本

 矢本の閉鎖されたコンビニの駐車場で人だかりがあった。車を寄せて見てみると、自衛隊が食料を配給していた。矢本には航空自衛隊の基地があり、そこが救援活動の拠点となっていることを運転手が説明してくれた。天皇・皇后の両陛下が南山陸町と仙台市を慰問なされた際も、矢本の自衛隊松島基地をご利用なさったそうである。


17.自衛隊による配給風景(矢本)

 タクシーに乗って以来、ようやく大勢の地元の人の姿を目にした安堵感を感じたのも束の間、目の前には信じられない光景が次々と広がる。ガードレールには屋根がひっかかり、ガードレール自体も水の勢いにへし曲げられて、まるで白い布切れのように畑の中に長く伸びていた。


18.流されてガードレールにひっかかった屋根(矢本)


19.津波で折曲がり、畑に向かって伸びているガードレールと倒れた街灯(矢本)


 墓石の上にボートがひっくり返って乗っかっている光景が目に飛び込んできて、思わず「車を止めてください!」と叫んだ。地図で確認しても、この辺りは海から2キロメートルは離れているはずである。文字通り、我が目を疑った。


20.墓場に乗り上げた船と車(矢本)

 矢本町の石巻市寄りの大曲(おおまがり)地区に入った。ここまで建物が破壊されると、自然災害の跡地というよりは空襲を受けた戦場地のようだ。


21.横倒しになったトラック(矢本・大曲地区)
 
 なんとか外壁だけは残った家も、赤いスプレーで「取り壊し不可」など日付入りで持ち主の意思決定が書いてある。正直、ここまで壊れてしまっては再建築の仕様もないのではないかと思った。しかし住んでいた人々にとって家は単なる建築物ではなく、長年の家族や友人との思い出が詰まった自分の人生の象徴なのだ。できることなら津波の前の生活を取り戻したい、という気持ちは決して理屈で割り切れるものではないだろう。


22.「取り壊し不可」の指示を壁に記した家(矢本・大曲地区)

 かろうじて原型を留めている家の中を整理する住民を見かけた。その胸の内は、私には想像することもできない。


23.家を整理する住民(矢本・大曲地区)

野蒜の港では、大型漁船が波止場から陸に押し上げられて、側の山西造船所は水で外壁に穴をあけられてまだ浸水していた。


26.港を乗り越えて住宅街にまで押し流された大型船(矢本・大曲地区)


 タクシーに戻ると、石巻に向かって車を走らせながら運転手が「野蒜一帯はね、明治政府が外国交易の玄関口にしようとして大きな築港工事を行ったんですよ。日本で初めての洋式近代湾港になる予定だったんです。だけど工事の途中に大きな台風が直撃されて、そのまま中止になったんです。それから横浜港に開発が移されたんです」と説明してくれた。今も昔も、この土地は自然災害さえなければ豊かに発展していくはずだったのに、と言いたげだった。


28.矢本・大曲地区の光景@


29.矢本・大曲地区の光景A


30.矢本・大曲地区の光景B



石巻(いしのまき)
 
 石巻市内に入る手前で、きれいに更地にされた土地に等間隔で植えられている花が目に留まった。運転手に聞くと、「ああ、あれは集団埋葬地なんですよ。もう火葬場がフル回転で遺体を処理しきれないから、土葬で埋めているんです」と答えた。近づいて見ると、柔らかい土の上に真新しい木の番号札、そしてその横に菊が献花されていた。全体を見渡して、番号札によっては果物やおもちゃなど供物が置かれており、マジックペンで名前が書かれている。家族が埋葬場所を見つけられた幸運なケースなのだろう。もちろん枯れかけた白い菊だけが供えられた番号札も多く、まだ身元不明で番号としてしか認識されていない遺体が多くある。

 遠くで手を合わせている家族の姿が見えた。数字でしか認識さえない人間の遺体。木札も統計も死者や行方不明者を数字でしか表せない。その数字の一つ一つの向こうに、一体何人の悲しみで眠れない夜を過ごした家族や友人がいるのだろうか。

「お墓が流されて自分で供養したくてもできない家族が大勢いますから、しばらくは増え続けるんでしょうねぇ。遺体の身内が見つかった場合、ここに埋葬していいのは二〜三年って行政から言われているらしいです。でも被災して県外に引越しせざるえない人たちだっているでしょうから、このまま行き場所のない仏さんだって結構いるんじゃないでしょうか」


32.集団埋葬墓地の光景(石巻市)


33.集団埋葬墓地に参拝する遺族らしき姿(石巻市)


 墓地の隣には、新しく埋め返された土地があった。これから新たに埋葬される遺体のために、市営のサッカーコートを掘り返して準備していた。この日に私たちが見た最後の番号札は七六八番。今はどうなっているのだろう。


34.集団埋葬のために掘り返されたサッカーコート@(石巻市)


35.集団埋葬のために掘り返されたサッカーコートA(石巻市)

 それにしても東名、野蒜、陸前小野、鹿妻、東矢本、大曲と、今日の目的地であった石巻市に至るまでに訪れた数々の地名は、東京の報道ではあまり耳にすることのない地名である。タクシーの運転手にそう話すと「そうですねぇ、我々から見たらやっぱり(報道が数ヶ所に)偏っている気がしますね」という言葉が返ってきた。

 石巻市の産業の柱は、造船、漁業と製紙業である。海際に建つ日本製紙の工場敷地内では原料となる丸太、紙ロールとそれら製品を運ぶ貨物列車が散乱していた。日本製紙の工場復旧にあたって経営陣は県外への移転も検討していたようだが、関連企業も含めた同社の地元雇用は約一万人にのぼり、県と市の働きかけで石巻市での再建が決まったそうである。


36.日本製紙の工場。製品を運ぶ貨物列車が通るレールが見える(石巻市)


37.日本製紙の工場敷地内に散乱する紙ロール(石巻市)


38.鯨肉の巨大広告が道に倒れ込んでいた(石巻市)


39.廃車置場(石巻市)


 数百台の車が整然と並んだ空き地があった。津波で流されて持ち主が分からない、あるいは連絡しても引き取りにこない廃車の保管所だった。ざっと見渡しても億単位相当の被害ある。


40.ショベルカーで市内から集められたスクラップや瓦礫をまとめていた(石巻市)

 車外から望んだ広大な空き地では、市内から集めた瓦礫をひたすら積み上げる作業が続いていた。それはまるで賽の河原の石積みのように、永遠に続く作業のように見えた。

 避難所になっている、石巻市立湊小学校を訪れた。校庭には入浴所が仮設されており、子どもたちがボランティアと一緒にシャボン玉を飛ばして遊んでいた。自転車の修理サービスの看板もあり、サービスの提供だけではなく修理技術の指導もしてから帰るつもりだとボランティアスタッフの一人が語っていた。校庭のプールには、流された車が浮いたままになっていた。


42.自衛隊の手で石巻市立湊小学校校庭に臨時に設置された簡易銭湯(石巻市)


43.校庭でシャボン玉作りをして遊ぶ避難所の子どもたち(石巻市)



44.無人となった派出所(石巻市)

 湊小学校の向かいには、無人になった派出所と壊れた消防車が並んでいた。予想を超える大震災の前では、救助機能自体が麻痺して使い物にならなくなるのだと見せつけられた。


46.橋の向こう左手に見えるのが「石ノ森萬画館」(石巻市)

 内海橋の反対側、北上川に浮かぶ中瀬には「サイボーグ009」「仮面ライダー」などで知られる宮城県出身のマンガ家・石ノ森章太郎氏の記念館「石ノ森萬画館」が建っている。萬画館の近未来的な建築デザインと相まって、周囲の破壊された光景がSF映画のワンシーンのように見えた。 


47.「かたづけて下さい」のメッセージが書かれた車(石巻市)

 内海橋の手前に、ひしゃげた車の車体には「かたづけて下さい」と書かれていた。車という資産も、津波でその価値を奪われてしまった。

 石巻市の駅周辺は比較的片付いているかに見えたが、電車はこの時点では復旧の見通しがついておらず、多くの店も閉店したままだった。泥の掃除のためかシャッターも下ろしていない休業中の店舗が多く、ソファーやシャンプー台などの使い物にならなくなった商売道具が積まれていた。窓ガラスから店の中を覗くと、空っぽになった店内で壁をじっと見つめている人の姿が見えた。

 その晩は幸い石巻駅近くのホテル「HAYASHIYA」に空き室が見つかり、屋根の下で寝ることができた。オーナー夫妻に3月11日の話を聞くと、ホテルの外壁80cmの高さまで水が来て、ドアを閉めきった1階にも10cmまで浸水したそうである。ご主人は1960年に発生したチリ地震津波の時に小学校6年生だったそうで、3〜5メートルの高さの波を海で目撃したのが記憶に強く残っていたそうだ。しかし今回の地震では、友人が高さ約18メートルの日和大橋(雲雀野と明神町を結ぶ橋)を津波が飛び越える光景を目にしていた。18メートルといえば5階建てのビル程の高さなので、相当な威力である。翌日の早朝に女川に出発する旨を伝えると、津波の影響でキッチンの排水溝から油が逆流してしまったので料理は何も用意できないが、朝食にとおにぎり、パンとヨーグルトを奥さんが用意して渡してくれた。ボランティア、報道など目的は様々でも宮城県のために訪れてくれた方々に安全な休息所を提供したい、と繰り返し言っていた。

2日目(後編)に続く


(取材:「文芸思潮編」集部)

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1.東塩釜側から見た東名の入口。向こうに海が見える




5.瓦礫が散乱する東名の風景。向こう側が海







































































































































































































11.東名から野蒜に向かう途中の風景





















































































































 




























































































24.破壊された造船所(矢本・大曲地区)




25.陸に乗り上げた船(矢本・大曲地区)

 


27.クレーンで残骸物を道路上に釣り上げる自衛隊(矢本・大曲地区)
              



31.誰かが船体に書き記した「ガンバロー大曲」のメッセージ





































































































































































































































































































































41.避難所となっている石巻市立湊小学校(石巻市)



















45.動かなくなった消防車(石巻市)