2010.9月



『森崎書店の日々』
(2010年/日本映画/109分/2010年10月23日(土)より神保町シアター、シネセゾン渋谷他にて全国順次公開!/配給:ファントム・フィルム)


(C)2010 千代田区/『森崎書店の日々』製作委員会

 山と詰まれた本に囲まれ、本棚の奥で気の向く一冊を読みながらいち日を過ごす。読書に疲れたら、狭い棚の間を歩いたり、“いつも”の喫茶店に行ったり。本好きなら誰もが一度は憧れるのではないだろうか、そんな古本屋の店番に。
 けれども客足のまばらな、読書に耽りながら日がな過ごせるような古書店が“バイト募集”なんて張り紙を出していることは、まずない。そう、静かな古書店は、生業もまたひっそりとしているのだ。
 日に焼けた紙の匂い、堆積した時間の重み。一歩中に入ると古書たちの息づかいが聞こえてくるような「森崎書店」も、店主サトルがひとりで営む小さな店。店番をする貴子を見た常連は云う、あれ、バイトの子?この店にバイトを雇う余裕なんてあったっけ?

 主人公・貴子25歳は、失恋の痛手で会社を辞めたばかり。心配した叔父サトルのはからいにより、ときどき店を手伝うことを条件に、古書店2階のひと間に住むことになる。読書人にはなんとも羨ましい限りだが、文学には無縁に生きてきた貴子にとって梅雨どきの本棚の匂いは「カビ臭さ〜」だし、本は「あんまり読んだことない」。

 「ここにある本ぜんぶ、好きに読んでいいからね」とかわいい姪っ子に微笑むサトル。目を瞑って積み上げられた古本の背表紙を指でなぞり、運まかせでその日に読む本を決めながら、貴子は一冊、また一冊と頁を捲りはじめる。
  
 ネットや電子書籍に親しんで育った若い世代が、とまどいながら“本”と出会っていく様子を、透明感と柔らかな雰囲気が漂う菊池亜希子が好演。170軒を超える本屋が集まる本の街・神保町で、物語はゆるやかに進行していく。
 
 ある日、偶然に元の恋人とすれ違い、動揺してふさぎこむ貴子。サトルに励まされ、意を決して会いに行くが、平然と二股かけた男を前に棒立ちになるばかり。必死に言葉を絞りだし、涙をこらえながら「私は物じゃない。感情がある」とだけ伝える。このシーンのリアルさ、自然さがなんともいえずいい。芝居じみた罵倒シーンではなく、若い頬にただ涙が滴り落ちる美しさ。まだ大人じゃない、でももう子どもじゃない。そんな若者の初々しさとそれを見守る大人の優しさが、貴子とサトルの交流から伝わってくる。サトルもまた、かつては迷いを抱えた若者だった。
 失恋が悲しいこと、丁寧に淹れた一杯の珈琲が美味しいこと、居場所を探して悩むこと。スクリーンに映し出されるのは、等身大のささやかな人生。喫茶店で働く人々や森崎書店に現れる常連など、本の街を愛する登場人物たちは誰もが魅力的だ。原作を読み、「こういう映画があったら素敵なのに」と思ってメガホンを取ったという日向朝子監督は、かけがえのない日常を水彩画のような柔らかなタッチで見せてくれる。

 原作は第3回ちよだ文学賞大賞受賞作品『森崎書店の日々』八木沢里志著(小学館文庫 定価500円)。小説の舞台が神保町だったことも、監督が映画化を考えた理由のひとつだとか。今ある神保町の風景を残しておきたかった、と語る言葉どおり、看板や路地、古本まつりの様子など、街の佇まいがさりげなく映画にとりこまれている。バブルに踊った昭和60年代前半、土地の人々が団結して地上げの嵐を乗り切り、古書街として生き残った歴史を思うと感慨深い。

 観終わったら、きっと行きたくなるはず。古書店が並び、昔ながらの喫茶店が旨い珈琲を出す本の街へ。

(2010.9 待本里菜)

作品公式ホームページ
http://www.morisaki-syoten.com/




『セラフィーヌの庭』
(2008年/フランス・ベルギー・ドイツ映画/126分/2010年8月7日(土)/岩波ホールほか全国順次公開/配給:アルシネテラン)


(C)Productions/France 3 Cinema/Climax Films/RTBF 2008

 ひと気のない野辺を、がっしりとした中年女性が籠を手に歩いて行く。その歩き方は童女のようで、どこかぎこちない。籠に入っているのは、教会から失敬したキャンドルのオイルや道すがら摘み取った草花。待つ人のない小さな部屋に戻ると、野草をすりつぶして絵の具を作り、神さまに語りかけながら絵を描くのだ。
 
 彼女の名はセラフィーヌ・ルイ。1864年生まれの実在した女性で、ルソー、ピカソ等を発掘したドイツ人画商ヴィルヘルム・ウーデによって見出され、美術史では素朴派の画家と分類されている。演じたヨランド・モローは、口数が多いわけではないセラフィーヌの心の襞を全身で体現し、終には精神科で治療を受けることになる孤独な魂の軌跡に、観る者は自然に引き込まれてしまう。「ヨランドは演技ではなく、セラフィーヌの化身となった」と語るマルタン・プロヴォスト監督の言葉通りだ。

 スクリーンに詩情豊かに映し出されるのは、ウーデと出会うセラフィーヌ48歳から、精神科に収容されるまでの20年間。パリ郊外サンリスで、昼はわずかな賃金を得るために家事の下働きをし、夜はひとり絵筆を握る日々を過ごしていたセラフィーヌ。彼女の絵を目にしたウーデは、その才能に衝撃を受ける。称賛するウーデに「私はののしられながら生きてきたんです」と、セラフィーヌはとまどいを隠せない。ウーデへの信頼が芽生え出した頃、第一世界大戦の激化により、ウーデはサンリスから姿を消す。

 戦後に再会し、ウーデから金銭的な援助を受けるようになったセラフィーヌは、絵に専念し、人の心を捉える神秘的な作品を生み出していく。セラフィーヌが描くのは、木の葉や花。色彩豊かで独特な画風は、現代では「アウトサイダー・アート」と呼ばれるジャンルに近いともいわれている。「アウトサイダー・アート」の担い手には、自らがアーティストという自覚さえない場合もあるといわれるが、世界恐慌とセラフィーヌの浪費に悩まされるようになったウーデに「もうお金は払えない。いまは絵も売れないんだ」と宣告されたとき、彼女は「売り方が悪いのよ。きれいな額縁に入れれば買ってくれるのに」ときり返す。自分の作品の価値を主張する芸術家然とした自信とは無縁のこの台詞に、彼女の素朴さと子供のような無邪気さが垣間見える。

 セラフィーヌが望んだのは地位や名声ではなく、祝福されること。個展の日を夢見て買ったドレスが、ウェディングドレスだったのが痛々しく、美しい。いつも聖歌を口ずさみながら絵を描いていたセラフィーヌにとって、個展の日は天使たちが自分に会いに来てくれる晴れがましい日。いつしか現実との繋がりを失いはじめた彼女にとって、ウェディングドレスは誰のためのものだったのだろうか。「準備はできているの」といいながら、老いた体を花嫁衣裳に包み、裸足で町をよたよたとさ迷う姿が目に焼きつく。

 映画の中でも、セラフィーヌの作品の再現は見ることができるが、世田谷美術館に足を運べば、彼女の作品1点を含むウーデが見出した素朴派の画家たちの絵画10点を9月5日まで鑑賞できる。

(2010.7 待本里菜)

作品公式ホームページ
http://www.alcine-terran.com/seraphine/



『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩(うた)』
(2009年/イギリス・オーストラリア映画/119分/2010年6月5日「Bunkamuraル・シネマ」「銀座テアトルシネマ」「新宿武蔵野館」ほか全国ロードショー/配給:フェイス・トゥ・フェイス)


(c) 2009 Apparition, All Rights Reserved

 花々の甘い香り、ミツバチの羽音、降り注ぐ陽光・・・。物語の舞台は、かぐわしい自然に彩られた1818年のロンドン郊外ハムステッド。スクリーンに映し出される風景は、今作の主人公、ロマン派詩人ジョン・キーツの詩さながらに瑞々しい。キーツは、25歳で夭逝したにもかかわらず、英国ではシェイクスピアに並ぶほど讃えられているロンドン生まれの詩人。美しい英国の自然を背景に、22歳のキーツと18歳のファニー・ブローンの繊細で初々しくも情熱的な恋が綴られていく。監督は、キーツの伝記を読み、恋人たちの痛みと美しさに涙したというジェーン・カンピオン。代表作「ピアノ・レッスン」でも見事だった美しい映像と抑制の効いた演出により、監督は映画自体を一篇のきらめく叙情詩のように仕上げている。
 
お洒落が好きで、裁縫が得意。自分でデザインしたスタイリッシュなファッションを纏ってパーティに繰り出すファニーは、出会った頃のキーツに「詩って難しくてよくわからない」と話す。「僕にもよくはわからないよ」と穏やかにこたえるキーツ。やがて隣同士に住むことになった二人は惹かれあい、若者らしい純粋さで相手を深く想いあう。ファニーの存在がキーツの詩作の邪魔になると考えるキーツの友人チャールズ・ブラウンや、地位も財産もないキーツとの交際を心配するファニーの母親。周囲の思惑が交錯する中、恋人たちはせつなさを募らせる。やがてキーツは結核を発症。療養のためにイタリアに出発する彼は、愛するファニーに二度と地上で会えないことを予感していた・・・。

“ 恋人の豊かな胸を枕に
その柔らかなうねりを感じつつ目覚めよう
甘き不安の中で
静かに彼女の息づかいを聴き
永遠の生か恍惚の死を求めん  
ジョン・キーツ『輝く星よ』1819年 より”

まるで自らの命の儚さを知っていたかのように、キーツはファニーから得る感情の高まりや歓びを書き残す。映画を見終えた後詩集を開けば、彼の詩がすっと心に入り込んでくるだろう。

瞳に誠実さをにじませ、ナイーブな表情を浮かべる主役のベン・ウィショーは、まさに詩人そのもの。キーツの人となりを、存在感たっぷりに演じている。
キーツが裸足で木に登るシーンがある。
樹冠に到達すると、彼は花をいっぱいにつけた枝の上に両手、両足を広げて目を瞑る。そこはまさに天空と地上の間。小鳥のように自然の息吹に感応し、初夏のよろこびをうたった詩人にふさわしい場所。過って空から落ちた天使が気を失い、いまだ覚醒していないかのようにも見える。純粋さを象徴するワンシーンにはっと胸をつかれるはず。
 
英国の自然美と並んで、今作の大きな魅力がファニーの衣裳。物語の冒頭には、華やかな真紅のワンピースで装っていた彼女が、キーツとの仲が深まるにつれ、優美で落ち着いた装いに変化していく。現代ファッションでもなく、時代モノのコスチュームでもない。19世紀初頭の流行りだろうか、登場するハイウエストのワンピースの愛らしいこと!ファニーの幼い妹も、特筆すべき可憐さだ。

(2010.5 待本里菜)

作品公式ホームページ
http://www.brightstar-movie.jp/index.html




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