絵 ― その2

アジアの印象

蓮への想い

 

 

 

 

世界各国の写真が載っているカレンダー。その中の一枚に、タイのスコータイ遺跡があった。夕闇を背にした大きな仏像。その前には蓮池が広がっていた。
 なんて神秘的な光景……。凛とした蓮の花の輪郭は、仏像と同じくらい神々しいものだった。この神々しさはどこから来るのだろう。
 蓮は仏の世界のシンボル。蓮の花に極楽を見るそれが実感できたのは、自分の眼でその花を見たときだった。
 いままで本物の蓮の花を見たことがなかった私は、ある夏、家の近くに小さな蓮池があったことを思い出し、その池に行ってみることにした。
「蓮の花が見られるかもしれない!」とウキウキしながらペダルを漕ぎ、やがて池の前に到着。が、そこにあったのは真っ黒い沼のような池に浮かぶ、黒いハスの残骸。すべての生きものが息絶えたような、まさに地獄の風景だった。あまりの恐ろしさに、すぐにその場から立ち去ってしまった。
 そしてまた夏が来て、蓮の花の季節になった。今度は別の大きな蓮池に行ってみたけれど、固く閉じたつぼみにしか出会えなかった。
 今年も蓮の花は見られないのか……。「どうしても蓮の花が見たい……そうだ、もう一度あの場所に行ってみよう!」私は一年前のあの近所の蓮池に行ってみることにした。
 薄暗い中、おそるおそる池に近づくと、そこには今にも咲きそうなつぼみと、鬱蒼と繁る大きな葉が小さな池にひしめき合っていた。私は確信した。
「明日の朝、咲くに違いない!」
 翌朝早く、蓮池へと自転車を飛ばした。
 私の目の前に現れた蓮池は、この世のものとは思えなかった。朝のやわらかい光に照らされたピンク色の大きなハスの花。青空に映える鮮やかな緑色の葉。もうそれはまさに極楽浄土。見ていると心がすーっと穏やかな気分になる。私はしばらくその光景に見とれていた。
 生まれて初めて見た蓮の花はとても神々しく、そしてみずみずしく輝く生≠サのものだった。
 蓮の花は朝開き、お昼には閉じてしまう。そしてまた次の朝咲く。が、最初の開花から四日目にはもう散ってしまう。なんとはかない命だろう。でも、だからこそ神々しく、美しいのかもしれない。やがて花は枯れ、あの黒い残骸≠ノなっていく。あの黒い残骸とこの華麗な花はひとつのもの。あの残骸をもひっくるめて蓮≠ネのだ。そう、自分自身の中にもキレイ≠ニキタナイ=A善≠ニ悪=A生≠ニ死≠ェ存在するということを受け入れなければならない。そしてそれこそが真の強さなのかもしれない。
 蓮が仏の世界を象徴しているように思えた。
 それ以来、蓮の花は私にとって、いっそう大切な存在になった。

 

 

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