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■干魃(かんばつ)と難民と この数年アフガニスタン全土は、激しい干ばつに見舞われた。戦争で荒廃していた大地は、ますます渇き、人も動物も飢餓におちいった。全人口の半数が干魃の影響を受け、一〇〇万人以上が餓死の危機に直面していると、国連は報告した。 人々は、生存のチャンスを求めて難民となり、続々と国境を越えた。この結果、二〇〇〇年の九月以降に一七万人もの難民がパキスタンに流入した。これらの難民が暮らすいくつかの難民キャンプの中で最大のものが、パキスタン北西部の都市ペシャワールから南東三五キロメートルのところに位置するジャロザイキャンプである。 二〇〇一年三月、アフガン人の案内でジャロザイキャンプを訪ねた。このとき約七〜八万人が暮らしていたが、その多くは二〇〇〇年の十一月以降にやってきた人々だった。わたしは、一時間だけ安全を保証すると言われて、キャンプの中に入った。飢餓状態にある難民の中に、外国人が入ると、身ぐるみ剥がされる恐れがあって危険なのだ。 キャンプに着いて車のドアをあけると、排泄物と汗の臭いが混じったような嫌な臭いが鼻をついた。もうもうと舞い上がる土埃が全身を包み、直射日光が肌を刺した。吹きさらしの荒野に見渡すかぎりぎっしりとテントが並んでいる。テントといっても、地面に木の棒を立てて、どこで手に入れたのかわからないようなビニールシートやボロ布などを被せただけのものだ。テントの中にビニールなどが敷いてあるのはまだいい方で、むき出しの地面に座っている人も多い。寒さに対しても、暑さに対しても、まったく無防備である。 テントの間のところどころに、仮設トイレが設置されていた。地面に穴を掘って板をわたし、そのまわりを青いビニールシートで囲ったものだ。しかしシートの外側の地面にも汚物が散らばっていた。ほとんどの人が下痢していてトイレが足りないために、垂れ流し状態なのだ。 狭いテントの中に、病気の幼子を抱えた母親がうつむいて座っていた。子どもは「エム(ママ)、エム(ママ)……」と弱々しく、苦しそうにつぶやき続けている。しかし彼女は、子どもの声にまったく反応しない。ただ、じっと座っているだけだ。三日前に十三歳の息子を病気で亡くし、落胆のあまり何もできない状態だという。 また別のテントでは、母親と四人の子どもたちが暮らしていた。子どもの手足を見ると、カビがはえたような吹き出物がブツブツとたくさん出ている。テントの中には、蝿がぶんぶん飛び、嫌な臭いがしてひどく暑かった。一〇分もたたないうちに額に汗が吹き出した。 どうやって食べ物を手に入れているのかと母親に尋ねたところ、子どもたちがキャンプ周辺のパキスタン人の民家に行ってパンをもらってくるいう答えだった。 このキャンプでは、国連や海外のNGOによる食料の配給が一切行なわれていなかった。パキスタン政府が、ジャロザイの住民を「難民」と認めていないために、食料を配給することを許可しなかったからだ。住民の多くは物乞いして食べ物を手に入れていた。WFPによる食料の配給が初めて行なわれたのは、今年の五月十四日だった。 キャンプの片隅に、精神を病んでしまった少年が座っていた。彼の両親・兄弟姉妹が戦闘に巻き込まれて皆殺しにされてしまったという。そのショックのため、狂ってしまったのだ、と世話をしている難民たちが言っていた。 ジャロザイを去るとき、子どもたちが車の周りに集まってきて離れなかった。日本人によく似たハザラ人の男の子は、ドアのノブにしがみついて放さなかった。わたしたちの車は、子どもたちをふり払うようにして走り出した。子どもたちは追いかけてきた。どこまでもどこまでも、力つきるまでずっと走って追いかけてきた。 その後の報道によると、ジャロザイでは、五月に入ってから二週間で三〇人の子どもが四五度を越える暑さと渇きのために死んだという。 九月十一日、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。アメリカは犯人グループをオサマ・ビン・ラーディン氏の組織と断定し、彼が潜伏していると見られるアフガニスタンへの軍事行動に向け準備態勢を固めた。これまで無視されてきたアフガニスタンに世界の注目が集まった。そうした中、アフガニスタンから国外に脱出する難民が続出している。 (おわり) |