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今なお内戦の爪痕が残るカブール市内
       2000.4月
地雷で足を失った男の子。カブールにて 
           2000.4月
戦争で破壊された建物が広がるカブールの一角
      2000.4月
アフガニスタン・パキスタン国境の難民キャンプ、ジャロザイを去るとき、車のまわりに集まってきたアフガン難民の子供たち。発車してからも、いつまでも追いかけてきた
ヘワ・キャンプ近くにある煉瓦工場で働く難民少女。過酷で低賃金の仕事なので、パキスタン人はだれもやらず、難民だけが従事している
アフガニスタン難民キャンプ、ジャロザイ。見渡す限り、ビニール布などで作ったテントがぎっしりと並んでいる。材料はどれも難民が自分たちで手に入れたものだ
ジャロザイ・キャンプの難民ハウス。粗末なビニールテントは暑さにも寒さにも無防備だ。テント前を歩く難民の子供たち
その1
アフガニスタンAfganistan
タリバン支配下のカブールと
パキスタン国境の難民窮乏の現状
写真・文 川崎けい子



■アフガン女性団体と接触
 アフガニスタンでは、二〇年以上内戦が続いてる。また、イスラム原理主義の武装勢力タリバンは、女性の就労や教育を禁止するといったさまざまな禁制を実施していることで知られる。その結果、おびただしい数の難民が流出し、隣国パキスタンにはすでに二〇〇万人ものアフガン難民が暮らしているといわれている。
 わたしは、三年ほど前にインターネット上で、アフガン女性の団体RAWA(The Revolutionary Association of the Women of Afghanistan )のホームページを見て、アフガニスタンの問題に関心を持つようになった。そして、一九九九年の四月に、初めてパキスタンの難民キャンプを訪ねた。
 当時、難民の多くは、大変貧しく、慢性的な栄養失調で、病気になっても医師に診せることもできない状態だった。国連の食糧援助が打ち切られていたので、人々は自分で働いて明日のパンを手に入れなければならなかった。しかしアフガン難民の仕事は非常に限られており、過酷で低賃金の煉瓦工場や工事現場で働くしかない。それでも仕事があればまだいいほうで、物乞いになることを余儀なくされる難民も多い。ペシャワール市内のあちこちで、難民の女性や子どもたちが物乞いしていた。
 こうした難民の窮状を実際に見て衝撃を受け、なんらかの支援をしたいと思った。と同時にアフガン人の魅力をフィルムに刻み込みたいと思った。

■国境からタリバン支配下の首都カブールへ
 二〇〇〇年四月、友人のアフガン人男女二人とともにパキスタンから陸路でアフガニスタンに潜入した。国境の地トルハムを出発した車は、首都カブールに向けてひた走った。車窓には渇いた茶褐色の大地が広がる。やがて、荒涼とした大地を彩るような赤い花畑が見えてくる。麻薬ヘロインの原料となるケシの花である。アフガニスタンは世界最大のケシ畑を持つ国だ。ヘロインの取引による莫大な利益は、タリバンなどの武装勢力の軍資金になっているといわれている。その一方で、ケシの栽培は、荒廃したアフガニスタンの大地で暮らす貧しい人々にとって、大切な収入源でもあるのだ。主要幹線沿いに堂々と広がるケシ畑を眺めながら、複雑な思いにとらわれた。
 カブールの街は、パキスタンの難民キャンプによく似ていた。泥造りの家屋に高い塀。各家から道路に流れ出ている生活排水。わたしが滞在した家は二階建てで、中庭があり、トイレとバスルームが別棟になっていた。トイレは地面に穴を掘ってその上に板がのせてある。いっぱいになったら、別の場所に穴を掘るのだろう。生活に必要な水はタンクの中に汲み置かれている。こうした様子は難民キャンプの家とそっくりだ。本当は、難民キャンプがカブールに似ているというべきだろう。難民となったアフガン人たちは、パキスタンに自分たちの生活形態を持ち込み、アフガニスタンに似せた難民キャンプを作ったのだ。
 さて、カブールには水道がないので、各自で水を都合しなければならない。しかし、そのまま飲めるようなきれいな水はない。だから水を沸かすための燃料は必需品。また夜八時すぎになると電気がつくが、電圧が弱いためか、薄暗い。九時すぎても電気が来ないときがあり、そういうときはランプを使う。ランプのための油も貴重だ。電話はときどきつながるが、通信手段としてあてにできるほどではないそうだ。
 滞在期間中、アフガン女性と同じようにブルカを着てカブールの街を歩き回った。ブルカとは、頭の先からつま先まで布ですっぽりと覆い、目の部分だけが網の目になっている服で、タリバン支配下では十二歳以上の女性全員が着用しなければならない。
 バザール(市場)では、野菜や肉などの食料品、衣料品やシャンプー、石鹸、アクセサリ、子どものおもちゃ、たばこ、その他の日曜雑貨品が売られていた。にぎやかで活気があるように見えた。しかし、商品はすべて外国から仕入れたものだ。
 アフガニスタンには暮らしに必要なものを生産する工場がない。商人がパキスタンなどに行って買い付け、それをカブールで売っているのだ。産業のないこの国では、人々が生計を立てる手段が非常に限られているが、そのひとつが店で物を売ることだ。
 カブールには女性の物乞いが大勢いた。子どもといっしょに道路の脇に座ったり、歩き回ったりして物乞いしている。ブルカを着ていると目と表情で訴えることができないからか、大声で「お金をください」「パンをください」と叫んでいた。
 タリバンは、女性は男性に養われるものと規定して、女性が家の外で働くことを禁止している。その一方でタリバンは、民族の違い、イスラムの宗派の違い、あるいは反対派の支配地域に住んでいたという理由だけで、女性を養う役割を担っているはずの男性を殺してしまう。生活費を稼いでくれる男性(夫や父親、兄弟)がいない女性の多くは、物乞いをするしかなくなってしまうのだ。
 夫を亡くした「寡婦」の中には、昼間は物乞いし、夜は売春婦として働いている人もいる。しかし、タリバンは売春を禁止している。特に、既婚女性(夫を亡くした寡婦も含めて)が売春すると、姦通の罪として死刑になる。二〇〇一年の二月にもアフガニスタン南部の都市カンダハルで売春女性二人が処刑された。それでも女性たちは、彼女自身とその子どもたちが生きるために売春する。そして買春する男性の多くはタリブ(タリバンは複数形)だといわれる。売春宿にやってきたタリブは売春婦を脅迫し、支払わなかったり、ひどく値切ったりするという。こうした状況なので売春をしても生活費を稼ぐことは難しい。
 RAWAのメンバーの話では、路上で子どもを売る女性もいる。例えば五人の子どもたちをどうしても養うことができない場合、そのうち二人を売れば、残りの三人を食べさせることができるからだ。母親が路上で「子どもを売ります」と叫び続けていると、豊かな人が買っていくらしい。子どもはたいてい召使いとして買われるが、少女の場合は、妻として買われることもあるそうだ。

その2へ続く