写真の無断転載厳禁
その3へ
トップページへ戻る
その2
1999年秋、アフガニスタン北部から脱出してカブールにやって来た女性バビ
パキスタンのペシャワルで物乞いをするアフガン難民の子供たち。戦争で両親を失い、子供たちだけでパキスタンに来た
2000.4月
パキスタン・イスラマバードにある難民居住地。イスラマバードには約5万の難民が暮らしていると言われる
 2000.3月
ジャロザイ難民キャンプのトイレ。地面に穴を掘って板をわたし、まわりをビニールで囲んである。しかしトイレの外側の地面も汚物だらけ
2001.3月
「水がない」「食べ物がない」と必死になって訴える難民女性
2001.3月
アフガニスタンAfganistan
タリバン支配下のカブールと
パキスタン国境の難民窮乏の現状
写真・文 川崎けい子


■内戦と虐殺と
 一九九三年に勃発したイスラム原理主義者同士の内戦によってカブールは徹底的に破壊された。街の中は破壊された建物だらけであり、荒涼とした瓦礫の風景が広がる地区もあった。そして今も、アフガニスタン北東部を中心にタリバンと反タリバンの北部同盟の戦いが続いている。
 九九年夏、アフガニスタン北部で戦闘が激しくなった。家も畑も焼きつくされて立ち退きを命じられた人々は、カブールや隣国のパキスタンに逃れていった。

 北部のシャマリ地区からカブールに逃れてきた男性は、この戦闘の様子を次のように語った。
「まるで動物が狩られるように、兵士でも何でもない一般の人々がタリバンに撃ち殺された。道路が切断されている中を、すべての人々が歩いて逃げ出した。妊婦や大勢の子どもたちが逃げる途中で死んだ。何とかカブールにたどり着いた人々も、破壊されて廃墟となっていたロシア大使館跡に閉じこめられ、水も食べ物もない状態で外に出ることも許されずに寒さに震えて死んでいった。子どもたちもまた大勢死んだ」
 彼はさらに続けてこう言った。
「タリバンはわたしたちが故郷に戻ることを禁じている。しかしもし禁止がなくなったとしても、何もかも破壊されてしまったし、多くの男性が殺されてしまったので、戻ることは難しいだろう。わたしたちの将来は真っ暗だ」
 カブール大学近くの破壊された建物の片隅に、九九年の九月から十月にかけてシャマリ地区から逃れてきた女性たちが暮らしていた。そのひとりアリスは言った。「夫は、昨年の七月に、突然家にやってきたタリバンの兵士に理由も告げられずに逮捕され、九カ月経った今でも捕らえられたままです。父親も戦闘に巻き込まれて殺されてしまいました。タリバンは『この場を去れ。残っていたら殺す』と言って人々を地域から追い出しました」。彼女は二人の娘と三人の息子を連れて脱出し、寒さに震えながら五時間歩き続けてカブールにやってきたという。現在彼女は、家で他の人の洗濯をしてわずかな収入を得ているだけだ。外で働くことを禁止されているため、家の中で洗濯をするような仕事しかできない。彼女の五人の子どもたちは全員路上で物乞いをしている。彼女に今の望みは何ですか? と訊くと、「夫が釈放されて戻ってくること、それだけです」と答えた。
 二八歳のバビも、タリバンに「逃げなければ殺す」と言われ、五人の子どもたちを連れて、まる二日歩いてカブールにやってきた。夫や父、兄弟もいっしょに脱出したが、途中でバラバラになってしまい、彼らが生きているのか死んでいるのかわからないという。娘三人と息子二人は物乞いをしている。「仕事もお金も食物もなく将来は真っ暗」と寂しそうに話した。
 二〇〇一年の一月上旬には、中央アフガニスタンのハザラジャート地方、ヤカオラン一帯で、多数のハザラ人市民がタリバンによって虐殺されたと報告された。ハザラ人は、アフガニスタンの少数民族でイスラム教シーア派であることから、パシュトゥーン民族でスンニ派のタリバンによって敵視され、しばしば虐殺されてきた。
 この虐殺時にヤカオランを脱出して難民となったハザラ人女性のマリヤム(40歳)は、ヤカオランでの虐殺の様子を次のように語った。
「タリバンは、三〇〇人もの男たちを殺しました。残った人々は、山に逃げ込みました。何人かは山の中で寒さのために死にました。また(山狩りをした)タリバンに捕らえられて殺された人もいました。タリバンは一六歳の少年を素っ裸にしました。彼らは少年の手を縛って、目かくししました。そして彼らはたくさんの少年たちを撃ち殺しました。タリバンは少年たちを一人残らず殺しました」

その3へ続く