ビルマ──微笑みと苦悩
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ネ・ウィン

タイ英字紙「ネーション」提供/「東南アジア通信6号」より
1988.8月の民主化蜂起時、暴動を抑えるため井戸水に毒薬を入れて歩いて回っていたとされる政府軍側のスパイたちは、群集によって処刑された。スパイは麻薬を打たれていたとも言われている。当時のビルマの民間新聞に掲載されたもの

タイ英字紙「ネーション」提供/「東南アジア通信6号」より
民主化のデモ行進には小学生も加わった。タチュレクで
タイ英字紙「ネーション」提供/「東南アジア通信6号」より
1988年8月の地方での民主化運動。ビルマ独立の父、アウン・サンの肖像を抱えて民主化のデモ行進をする人々。僧も拡声器を使って、民主化を唱えている   タイ英字紙「ネーション」提供/「東南アジア通信6号」より
■はじめての方々への解説
  ●ビルマの民主化運動はいつ、なぜ起きたのですか?
  ●軍事政権下の政治状況はどうなっているのですか?
  ●人々の暮らしはどうなっているのですか?

3つの質問にわかりやすくお答えします
             根本 敬(PFB運営委員、東京外国語大学助教授)
ビルマの民主化運動について
ビルマ問題と現状
根本 敬PFB運営委員、東京外国語大学助教授

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1、1988年の民主化運動
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 ビルマで全国規模の民主化運動が起きたのは1988年のことです。皆さんは当時おいくつでしたか? 私は31歳で、ちょうど2年間にわたるビルマ留学から戻ってきて数ヶ月がたったばかりの大学院生でした。

1988年という年は、中国で天安門事件が起きた1989年の1年前です。また、フィリピンでマルコス独裁体制が民衆の蜂起の末に崩壊した1986年から2年後という時期でもありました。この時期、韓国でも民主化宣言がなされ、東アジアと東南アジアでは民主化への大きなうねりが生じていました。

 ビルマの民主化運動は、ビルマ式社会主義という体制に反対する運動から始まりました。それはネィウィン(1911年生まれ)という独裁者に対する民衆の強烈な反発でもありました。ネィウィンは元ビルマ国軍最高司令官で、1962年に軍事クーデターによってビルマで全権を握ってから26年間、軍と情報組織の力を用いながら、独自の社会主義思想に基づいてビルマを治めてきた人物です。しかし、ビルマ式社会主義は、極端な経済不振と、国軍将校を中心とする特権層の腐敗、さらに人権抑圧をもたらしたため、国民の不満を買い、それが1988年に爆発したのです。

 ただし、1988年のある日に人々がいきなり立ち上がったというわけではありません。運動の直接のはじまりは、その年の3月、ラングーン工科大学の一部の学生が、体制に対して命がけの抵抗を始めたのがきっかけです。警察や他の官憲によって発砲されたり撲殺されたり、警察車両内で窒息死させられたり、獄中でレイプされたり、さまざまな弾圧を受けながらも、彼らは屈することなく、運動を続けました。そして多くの大学生・高校生がそのあとに続くようになり、同年8月に一般市民も合流するようになったのです。

 1988年の8月後半から9月前半にかけてクライマックスを迎えたこの運動は、初期の反ネィウィン闘争から、「複数政党制の実現」「人権の確立」「経済の自由化」を三本柱とする民主化闘争にその姿を変えていきました。首都ヤンゴンでは連日のように数十万人の人々がデモや集会に参加し、後にビルマの民主化運動を象徴する女性となるアウンサンスーチー(1945年生まれ)も、8月に学生たちに推される形で表舞台に登場します。地方都市でも状況は同じで、数多くの人々がそれぞれの地元で集会やデモに参加し、その嵐は農村部にまで及びました。まさに学生たちの始めた運動が全国規模の国民的運動へと発展していったのです。多くの人々は旧体制の崩壊と新しい体制の誕生を確信するようになりました。

 しかし、同年9月18日、事態は急転直下、国軍による全権掌握という最悪の展開を見ます。国軍の幹部20名から構成される集団指導体制の軍事政権の成立が宣言され、それまで建前上は政治の表舞台に立つことのなかったビルマ国軍が、今度は全面的に政治権力を行使することになったのです。当然それを認めない多くの学生や市民たちは引き続きデモを続けましたが、軍事政権は国軍部隊を大量に動員してデモ隊への水平射撃・無差別発砲を繰り返し、一週間余りの間に1000人前後の市民を傷つけ、民主化運動を封じ込めました。この段階で国民と国軍との乖離(かいり)は明確となり、多くの人々は国軍に対する恐怖心を抱くようになりました。民主化運動封じ込めの後は、デモに参加した公務員に対する処分(懲戒免職・諭旨免職)が軍政によっておこなわれ、数万人の公務員が解雇されました。

 民主化運動の中心を担った学生たちの一部は、軍事政権の成立前後、逮捕・弾圧の危険を感じ取り、タイ・ビルマ国境地帯に脱出し、そこで1948年以来反政府闘争を続けているカレン民族同盟(Karen National Union: KNU)を筆頭とする少数民族武装勢力と合流、全ビルマ学生民主戦線(All Burma Students' Democratic Front: ABSDF)を結成しました。同戦線はKNUと共にビルマ国軍の攻撃に武力で抵抗し続け、2001年1月現在も活動を続けています。しかし、当初1万人いたメンバーは、いまや数百人にまで減っており、事実上、タイ国内で難民同様の生活を余儀なくされています。

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2、ビルマの軍事政権―SLORCとSPDC
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 さて、1988年9月18日に登場した軍事政権は、自らを国家法秩序回復評議会(State Law and Order Restoration Council: SLORC「スローク」)と名乗りました。その名称に含まれる「秩序回復」という言葉からは、「治安回復を主な任務とする暫定政権」というメッセージを読み取ることができ、彼ら自身が発足と同時に出した公布においても、治安維持回復のための政権であることを明言していました。実際彼らは、デモ隊に発砲を続ける一方で、民主化運動において人々が強く求めた複数政党制の導入と総選挙の実施については、それを明確に約束しました。また、経済体制についても、それまでの国有セクターを中心とする自給的・鎖国的な社会主義体制から、市場経済体制へ移行する姿勢を見せました。

 9年経った1997年11月15日、SLORCは突如、国家平和開発評議会(State Peace and Development Council: SPDC「エスピーディーシー」)に姿を変えます。ただしそれは政権交代ではなく、単なる名称の変更とメンバーの入れ替えに過ぎませんでした。軍政という基本枠組みには何の変化もなく、国民も覚めた目で受け止めていました。でも、新名称に含まれる「平和」「開発」という言葉からは、SLORC期にあった「暫定政権」としてのメッセージ性は消え、逆にビルマを牽引する「本格政権」としてのメッセージが読み取れるようになりました。実際、SLORC期も含めた2001年1月現在までの12年4ヶ月、軍事政権が行ってきたことは、彼らがビルマという国家の統治主体であることを国内外に対して印象づけようとすることであったことがわかります。それらについて次に説明いたしましょう。

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3、軍事政権の論理と行動
 ─―選挙結果の無視と制憲法国民会議の設置
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 民主化運動を封じ込めて登場した軍政は、発足後1年7ヶ月たった1990年5月27日、ビルマで30年ぶりとなる複数政党制に基づく総選挙を実施します。これは軍政発足時の公約を守ったものであり、選挙自体も、事前の選挙運動に対する厳しい規制と介入を除けば、投票当日の中立性の保持、開票の公正さにおいて問題は全く生じませんでした。一部とはいえ、外国人ジャーナリストも開票場に入り、インタヴューを行うことが許されたほどです。
 投票の結果は、軍政発足後に設立され、その後の民主化運動の中心を担った国民民主連盟(NLD)が圧勝しました。書記長アウンサンスーチーを当局による自宅軟禁のために欠きながら、NLDは総定数485議席のうち実に392議席(81%)を獲得したのです。投票率は72.5%、NLDの相対得票率は65%でした。議席獲得率の81%という数字はもちろんのことですが、得票率の65%という数字もきわめて高いものです(日本の全盛期の自民党でも50%を超えたことは稀です)。この事実は、いかに国民の多くが軍政を嫌い、逆にアウンサンスーチーとNLDに期待を寄せていたかを物語っているといえましょう。

 けれどもSLORCは、この結果を認めず、政権移譲の無期限延期という態度をとりはじめました。言うまでもなく、これは民主主義の重大ルール違反を意味します。軍事政権がSLORCからSDPDに名称を変えた今日も、この誤った対応を修正する素振りを見せていません。ビルマの軍事政権がその正統制に根源的な弱点を持つのは、1988年9月18日の武力による権力奪取もさることながら、より大きな理由としては、民意を直接反映した選挙結果へのこうした非常識な対応の仕方にあると言えます。

 ところで、総選挙後になって示された軍事政権の論理はどのようなものだったのでしょうか? すなわち、彼らは選挙結果無視の「言い訳」をどのように展開したのでしょうか?彼らの論理は、早期の政権委譲よりも新しい安定した憲法をつくることを優先すべきであるというもので、次の6段階から成るものでした。

(1)選挙で当選した議員は、憲法制定のための議会(制憲議会)の議員にすぎない
(2)その制憲議会については、当分の間、開催しない
(3)代わりに、軍政が独自に選んだメンバーによって構成される制憲国民会議という別個の場を設置し、そこで新憲法の草案をつくる(その草案の原案は軍政が提示する)
(4)憲法草案が国民会議でまとまったら、その段階で当選議員から成る制憲議会を招集し、同草案を諮る
(5)制憲議会で審議・承認された案を軍政が最終的にチェックし、正式な新憲法案とする
(6)それを国民投票にかけて、国民の承認を求める
この6段階にいったい何年かけるつもりなのかという「期間の問題」については、軍事政権は今日にいたるまで曖昧な答えしか示していません。制憲国民会議の審議完了の時期については、常に「あと2年くらい」「2年後あたりを目安に」などといいつつ、2001年1月段階で8年以上が過ぎています。また、国民投票で新憲法が承認されたら、もう一度総選挙をやり直すのか、それとも1990年総選挙の当選議員を自動的に国会議員として認めるのかという問いかけについても、軍政は答えを示していません。
 こうした軍事政権の論理では、1990年5月の総選挙で選ばれた国会議員は、憲法制定という限られた目的しか有さない議会のメンバーにしか過ぎず、それも別個に設置される制憲国民会議なる組織が憲法草案を作り終わるまで出番はないということになります。こんなこと、選挙の前には公言していませんでした。仮に憲法制定を最優先するという軍政の論理に理解を示すとしても、なぜ、すぐに当選した議員たちによる国会を開催し、そこで新憲法の審議をしないのかという疑問が生じます。この疑問に対し、軍政は選挙後の記者会見で、「特定の一政党に属する議員が圧倒的な国会では、さまざまな民族や階層の利害が絡みあうビルマの新しい憲法を安定した形で作るのは無理」という主旨の理由づけをおこなっています。これはすなわち、民意に基づいて議会の4分の3を占めて第一党となったNLDを、まったく信頼していないということを表明しているにほかなりません。

 NLDは当然こうした軍政の態度に反発しました。しかし、当局はNLD所属の当選議員や党員を逮捕したり、当選の資格を剥奪するなどのやり方で、同党の抵抗を封じ込めました。選挙から10年経った2000年5月27日現在の軍政当局による記録では、資格を剥奪された当選議員は185人にのぼり、その大半がNLD所属の議員です。死亡した議員や、当局の圧力に屈して辞任した者も含むと、自由の身でいるNLD議員は110人に過ぎません。これは当選したNLD議員総数のたった28%です。

 ところで、上述の軍政主導による制憲国民会議は、総選挙から2年8ヶ月がたった1993年1月に発足しました。この会議は何回もの長期休会を繰り返しながら、2001年1月現在に至るまで、長々と憲法草案の審議を続けています。先に述べように、いったいいつ草案ができあがるのか、軍政はその回答を先延ばしにしたままです。当局によって制憲国民会議の代議員に選ばれた者は当初701名いました。しかし、その中に1990年5月の総選挙で当選した議員は99名しかおらず(その大半はNLD所属)、残りはその他の政党(=総選挙に候補者を出したものの当選者を出せなかった政党)や、少数民族、農民、労働者、知識人、技術者などから当局が一方的に選んだ代表によって構成されました。1990年総選挙の当選議員がこの会議に占める比率は14%に過ぎず、また総選挙の全当選者に占める制憲国民会議代議員に選ばれた者の比率も20%に過ぎませんでした。よって、この会議が民意を反映しているとはとても言えません。
 ましてや、その後、1995年11月にNLD所属の代議員全86名が、制憲国民会議における議論の進め方が非民主的であるとして会議のボイコット戦術をとると、軍事政権は彼ら全員を同会議から除名したため、それ以降、代議員全体に占める1990年総選挙の当選議員の占める割合はほとんどゼロになりました。このため、制憲国民会議は民意から完全にかけ離れた存在と化したと言えます。

 この制憲国民会議に提出された軍政による憲法草案の素案では、正副大統領計3人のうち最低1人は軍人であること、上下両院それぞれの議席の25%は国軍関係者によって占められること、などが書かれてあり、国軍がビルマの政治に介入しつづけ、監視しつづけるという姿勢が露になっています。これは軍の政治的中立を訴えるNLDには、とうてい受け入れられない案です。

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4、NLDの論理と行動―正しい目的と正しい手段の一致
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 NLDは、軍政が自国の民主化に対して不熱心であるという事態を打開するために、1988年9月末の結党以来、何度も当局に対し、相互に前提条件なしの対話を申し入れてきました。国家防御法を適用され1989年7月から自宅軟禁に処されていたアウンサンスーチー書記長が1995年7月に6年ぶりに解放されると、より一層、対話への姿勢を強調し、軍政側に働きかけました。けれども軍事政権のアンフェアな対応のため、公式対話は実現せず、逆に軍政によるNLD抑圧が強まっていきました。

 軍事政権のアンフェアな対応とは何を意味するのでしょうか? それは、アウンサンスーチー書記長とはけっして会わないという特定人物排斥の論理の下、彼女以外のNLD幹部を対話の相手に指名し、それも日時や場所を一方的に指定して「呼び出し」風の態度をとり、指名されたNLD代表(アウンシュエ議長ら)がそこへ赴くと、軍政側の見解表明やNLDへの指示ばかりがなされ、相手側の意見をまったく聞こうとしない、そうした不公平な姿勢を意味します。すなわち、軍政側は常に「アウンサンスーチー抜き」「軍政が話をし、NLDがそれに聞き従う」という条件を対話につけてくるのです。無条件の対話ではないため、NLDはそのことに反発を強めるわけです。

 何度も申し入れてきた国会の開催に関しても軍政が応じないため、NLDは1998年9月16日、独自に当選議員10人から構成される国会代表者委員会(Committee of Representing Peoples' Parliament: CRPP)を発足させ、1990年5月の総選挙で当選した議員の過半数の委任状をその正統性根拠にして、国会の「代行開催」に踏み切ります。もちろん、これは通常の国会と異なります。しかし、非暴力で民主化の実現を目指す政党として、NLDはこの「代替国会」を通じ、軍事政権が出す様々な法令に正当性がないことを個別具体的に宣言し、独自の新憲法草案作成にも着手しました。別名「10人委員会」とも呼ばれるこのCRPPは、毎年、委員会の報告書をまとめています(ただし国内で発行や配付ができませんから、秘密裏に海外に持ち出され、関係者や希望者に配付されています)。

 10人委員会(CRPP)の発足はしかし、軍事政権のNLD抑圧を一層強めることになりました。家族への嫌がらせなどを通じてNLDの党員を脱党させたり、国営紙を利用してアウンサンスーチーと他のNLD幹部に対する中傷記事や漫画を連日掲載したり、軍政によって組織された翼賛団体である連邦連帯開発協会(Union Solidarity and Development Association: USDA)に集会を開催させ、強制的に動員した人々にNLD非難とアウンサンスーチーの海外追放要求の決議をさせたり、それを国営メディアで連日大きく報道するなど、常軌を逸したさまざまな方法がとられています。また、アウンサンスーチーが首都ヤンゴンから出ることを一切認めず、彼女が他のNLD幹部と共に地方へ移動しようとすると、それを物理的に封じ込め、強制的に自宅へ連れ戻しました。1998年8月と、2000年8月・9月の計3回、この強制連れ戻し事件は起きました。3回目の連れ戻しのあとは、事実上の自宅軟禁措置をとり、2001年1月11日現在、アウンサンスーチーは例外的にしか家からの外出を許されていません。

 NLDはこのような追い詰められた状況に置かれながら、なぜ暴力闘争や、もう少し「悪賢い」方法(謀略や金権の活用など)を採用しないのでしょうか? それは、NLDがアウンサンスーチーの思想的指導の下、あくまでも非暴力で民主化を達成するという方法にこだわり、武装闘争を全面的に否定しているからです。正しい目的(=民主化の達成)は正しい手段(=民主主義にふさわしい手段)でしか達成できないという、目的と手段の判断基準を分けない哲学にそれは基づいています。もし間違った手段(=暴力闘争や謀略、相手への復讐など)を採用してしまうと、正しい目的(=民主化)は永遠に達成できないと考えるわけです。「良い種を蒔かない限り良い木は育たない」と語ったインドのマハートマ・ガンディーの思想と根底において通じる哲学です。武装闘争や謀略などによって、万が一軍事政権を倒すことをできたとしても、代わって登場する新しい体制は、旧来の軍事政権と同じ「困ったら武力に頼れば良い」という非民主的な性格をその根底において持ちつづけてしまい、それは正しい目的である「民主主義の追究」から、かけ離れた体制であるとみなすわけです。

 NLDとアウンサンスーチーが、国軍を嫌い、敵対しているという見方も誤りです。アウンサンスーチーの父が、ビルマを英国から独立に導いたアウンサン将軍(1915〜47)であり、かつそのアウンサンがビルマ国軍の基礎をつくり指導したという事実が物語っているように、娘のアウンサンスーチーは、父のつくったこの軍隊に嫌悪感は持っておらず、逆にその独立闘争への貢献から親しみと尊敬の念を強く抱いています。彼女とNLDが批判の対象としているのは、国民のための軍であったビルマ軍を誤った方向へ導いていったネィウィンや現在の軍事政権のメンバーに限定されています。このことから、NLDと国軍が将来連帯して(和解して)民主化を目指す新政権をつくるという可能性は、夢物語ではなく、実際にありえる話として考えることができます。それを実現させる際の障害はNLD側にではなく、NLDとアウンサンスーチーに深い憎しみを抱く軍事政権のメンバーの頭の中にあるのです。

 ところで、ここ数年ビルマ問題の仲介に積極的な姿勢を見せ続けていた国連が、2001年1月9日、報道官を通じて、軍政とアウンサンスーチーとの間で関係修復のための対話が2000年10月から何度かにわたって秘密裏に行われていたことを公表しました。その対話が継続している旨の確認もなされました。2001年1月4日から9日までビルマを訪問したラザリ国連事務総長特使(ビルマ問題担当)が、軍政当局とアウンサンスーチー双方とそれぞれ会って、対話の存在と継続を確認し、アナン事務総長にそのことを正式に報告したというものです。軍政側のキン・ニュン第一書記という大物がアウンサンスーチーと会っているということですから、これは本格的な対話への前哨なのかもしれません。これまでの徹底した双方の対立状態を考えるならば、こうした秘密裏の対話の開始は、私たちに雪解けを感じさせ、ビルマにおける政治的和解が実現の方向に向かっていくのではないかという期待を高めます。しかし同時に、これまでの対立のあまりの深さに、悲観的な結末も考えられ、予断を許さない面もあります。

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5、軍政下の人々の生活―微笑みの国の見えない恐怖
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 以上、ここまでは2001年1月現在で政治に関することを中心に書いてきました。つづいて、軍事政権下におけるビルマの人々の生活について、説明したいと思います。人権状況と経済状況の二つの面から見ていくことにしましょう。

 まずは人権状況です。ビルマを訪問した方々は、それが仕事目的であっても、旅行目的であっても、なかなか表面から中に入り込んで深い部分を見る機会に恵まれないため、「ビルマはマスコミが報道するのとは違って、実際は平和で、国民も笑顔を見せて平穏そうに暮らしているじゃないか」といった感想を抱くことが多いようです。もちろん、この国が表面的には平和で、国民も微笑んで平穏そうに暮らしているように見えるという印象自体は、ビルマ研究を専門にする私自身も訪れるたびに感じることです。しかし、さまざまなビルマ人と深く長く接し続けてみると、国連人権委員会が1991年以降、毎年のようにビルマ政府に対し非難決議をおこなっているその国内における人権抑圧の実態が、この目にはっきりと見えてくるようになります。

 それは具体的に言えば、次のような事柄です。
(1) 道路や鉄道建設工事への地元住民の強制動員(強制労働)
(2) 住民の郊外新開地への強制移住
(3) 公務員に対する思想調査・統制
(4) 軍政擁護以外の政治活動を行った者への深夜の拘束や令状なし逮捕
(5) 警察署や軍の特務機関における拷問
(6) 弁護人抜き裁判や一審だけで終わりの裁判
(7) 刑務所での不衛生な処遇や警吏によるセクシャルハラスメント

 先述のNLD関係者とその家族へのハラスメントも、こうした人権侵害リストに加えることができるでしょう。私の知り合いには、夫がNLD党員であるという理由だけで大学を解雇された女性物理学者すらいます。国民の多くはこうした逮捕や解雇、強制移住や強制労働の恐怖におののいています。旅人にはそれは見えないかもしれませんが、彼らビルマ人との交流を深めれば、その一端は必ず見えてきます。もし、軍関係者やビジネスで成功した例外的なビルマ人を除いた「一般の」ビルマ国民で、ここに挙げた事例とまったく無縁なまま暮らしている人がいたとしたら(すなわち、本人はもちろん、本人の家族にも親戚にも友人にも上述の人権侵害を蒙った人がいない場合)その人は幸運だとしかいいようがありません。何よりも本人がそのことを自覚していることでしょう。これは私の長年のビルマにおける経験からはっきりと言えることです。どうか、訪問した際にビルマが「平穏」に見えたからといって、マスコミや人権団体がこの国の人権状況について偏った報道をしているとは結論づけないでください。ビルマ国民の微笑みの奥に隠されている軍政への恐怖を、ぜひ読み取れるよう、彼らと深くつきあってみてください。

 このほか、少数民族による反政府武装闘争を鎮圧するため派遣されるビルマ国軍の将兵たちが、少数民族居住区において、一般住民に無法な振る舞いを行っていることも深刻な人権侵害の一つと言えます。一般の村人がポーター(運び人夫)として国軍に強制徴用され、武器や弾薬を運ばされるだけでなく、男は人間地雷探知機として地雷敷設地帯を国軍部隊より先に歩かされ、女性は夜間に将兵らの慰安婦(性的奴隷)にされるなどの被害が、命からがらタイ側へ脱走した元ポーターの難民たちによって生々しく証言されています。国軍部隊の命令に背いたという理由だけで村や集落が国軍部隊によって焼かれるという事件も、国際人権団体や英国国営放送(BBC)の報道を通じて伝えられています。

 見落とせないのは、ビルマでは役所に住民登録してある者以外の人間を自分の家に泊める場合、それがたとえ家族・親戚・友人であろうと、泊める前に必ず当局へ届け出る必要があるという、移動の自由を制限する法律が存在していることです。ビルマの人々があんなに外国人に親切なのに、めったに家に泊めてくれないのは、これが最大の理由です。また、国籍条項に「国民」「準国民」「帰化国民」の3つの等級を導入して、後者2つ(「準国民」「帰化国民」)に分類される者は大学の理科系学部への進学を拒絶され、公務員にもなれないといった差別的な国籍制度が存在することも特筆に値します。ビルマ独特の人権問題としてこれらは国連の人権特別報告官によって批判されています。
 こうした人権問題と関連して深刻な状況にあるのが国内の教育問題です。軍事政権は政権掌握後、学生が政治集会やデモを行うことを恐れて、軍関係と医学関係以外の大学すべてを何度かにわたって閉鎖してきました。なかでも1996年12月になされた全面閉鎖は、その後2000年7月まで3年半以上も続き、高等教育へ大きなダメージを与えることになりました。国際社会の批判もあって、再開されたビルマの大学ですが、キャンパスは都心から郊外に移され、不備な設備の下で不十分な授業しか行われていないのが現状です。学生たちの通学は、大学が用意するバスに教員たちと共に乗るシステムになっており、バス内での学生同士の政治的議論は禁じられています。大学閉鎖が長引いたため、大学生の学力レヴェルの低下は著しく、それは大学院生や大学教師の能力低下へと連鎖しています。大学ばかりでなく高校・中学・小学校も問題を抱えており、国定教科書の入手困難、教員不足、進級試験における軍関係者子弟に対する甘い採点などが、教育関係者の間で常に噂されています。

 次に国民の経済生活を見てみましょう。軍事政権は、1988年の民主化運動の要因を、それまで26年間続いたビルマ式社会主義体制がもたらした極端な経済不振に対する国民の不満の爆発であるとみなし、政権を奪取すると即座に社会主義を捨て、開発経済政策をとりはじめました。市場経済化を目指し、私企業の投資規制を撤廃、外国投資法をはじめとする各種経済関係の法律を整備して外国資本の本格的導入を図ります。その結果、1992年から96年にかけて、観光・資源開発・貿易・製造業などの分野に外国企業の投資が積極的になされ、国内の農業生産の好調さも手伝って、この間に国内総生産(GDP)の年平均成長率は6%から8%を記録するようになりました。

 ほとんどゼロ成長であった社会主義時代の低迷を完全に脱したかに見えたビルマ経済でしたが、早くも1996年の後半から経済成長は失速気味となりました。その主な理由としては3つ挙げられます。一つは、市場経済を目指しつつも、様々な非合理的な制限や禁止事項を企業活動に課したことです。たとえば、極端な例ですが、日本の「味の素」の工場を誘致しておきながら、いざ生産が始まると、政府が国営紙を通じてグルタミン酸ソーダの危険性キャンペーンを展開、原料の輸入が禁止され、その結果操業一ヶ月で工場は閉鎖、味の素は撤退を余儀なくされました。第二に、中央銀行からの政府借入金という形で国内の通貨供給量を増やしたため、財政赤字が拡大し、悪性に近いインフレを招いたことが挙げられます。第三に、二重為替政策に基づき、現地通貨チャットの米ドルに対する過大評価を続けたため、公定レートと市場レート(=闇レート)との差が60倍以上開いてしまい、現地通貨の下落とそれに伴うインフレの加速を招いたことが指摘できます。

 こうした1996年後半以降の経済失速に追い討ちをかけたのが、翌1997年後半から東・東南アジアを襲った通貨危機でした。この通貨危機は「通貨の危機」という形でビルマに直接影響を与えるものではありませんでしたが、その年から東南アジア諸国連合(ASEAN)各国のビルマへの投資額が激減し、ほぼ同じ時期に人権問題と民主化への不熱心に対する制裁から米国が対ビルマ新規投資の全面禁止に踏み切ったため、ビルマへの新規外国企業投資総額は大幅に減りました。GDP成長率も年4%から5%台に低下し、年率40%台のインフレが進行、外貨準備高の不足にも見舞われ輸入制限が強まったため、商品を輸入しないと商売の成立しない貿易業や、部品を輸入しないと何も作れない製造業がとりわけ打撃をこうむりました。こうした状況は、ASEAN主要国(シンガポール、マレーシア、タイ)が経済回復を見せ始めた1999年以降も基本的に変わっておらず、ビルマは政治面のみならず経済面においても深刻な状況にあるのが実情です。
 ところで、この間、首都ヤンゴンに住む人々の生活は、一面では裕福になったように映ります。たとえば、ぜいたくなレストランや衣料店、食料品店が市内あちこちに増えました。それまで知人の家に訪問してもお茶しか出なかったのが、コーラやジュースなどが出されるようになったのも印象的です。冷蔵庫や電話の普及率も確実に高まっています。

 しかし、よくよく見ると、車や冷蔵庫、電話などを持っている人々は、家族か親族の中に、外資系の企業に勤め外貨兌換券(FEC)で給料をもらっている人か、もしくは海外に出稼ぎに行って米ドルで家族に送金してくれる人がいる場合が多い、ということに気がつきます(外貨兌換券FECとは、ビルマ国内だけで通用する米ドル準拠の特殊通貨で、国内では事実上米ドルと同じ価値を有します)。すなわち、彼らの裕福さは、ビルマ国内の経済成長による個人消費の順調な増加によるものではなく、「海外」「外国」が絡んではじめて味わえる裕福さなのです。よって、「外国」と何の関係もない人々は、たいてい、裕福な生活とは縁がないといっても過言ではありません。

 経済的に完全に取り残された層も多く、子供に食べさせる物すら手に入らない人や、乞食に転落する人も90年代後半以降多く見かけるようになりました。3日でなくなる程度の給与しかもらっていない公務員たちは、2000年4月に一気に給与が5倍に上げられたとはいえ、あいかわらず生活費確保のために、人々から袖の下や賄賂をとる習性に浸っています。もちろん、まじめな公務員もたくさんいますから一般化してはいけませんが、袖の下の相場は、私の経験では軍事政権になってからの12年間でほぼ100倍になっています。これはこの間(1988年〜2000年)の物価の上昇率(約30倍から40倍)を上回っています。

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6、おわりに
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 2001年1月現在、日本には1万人以上のビルマ人が住んでいます。その多くはヴィザ切れのいわゆるオーバーステイの人たちです。彼らは、今まで述べてきたような状況下にある祖国から脱出して日本にやってきました。短期滞在のヴィザを取って日本にやってくるよりほか選択肢がなかったのだと言えます。日本では、自分自身と祖国にいる家族を養うため、一日12時間以上仕事をする場合が圧倒的です。さらに、貴重な休みの日に、祖国の民主化を支援するための運動をおこなっている人も300人ほど存在します。1万人のうちの300人ですから、けっして目立ちませんが、休日を犠牲にし、「楽な」生き方を捨てて祖国の民主化のために闘い続けるその姿には、個人的に感動を覚えます。フィアンセが民主化活動のために捕らえられ獄中に5年以上もいるという女性活動家もいます。

 そうした人々は日本政府に難民申請を行っている場合が多く、1999年以降、少しずつ活動家のビルマ人に難民認定が下されるようになってきました。これにはビルマ市民フォーラムと同フォーラムの事務局が置かれている「いずみ橋法律事務所」の弁護士たちによる積極的な支援活動が大きく影響しています。

 皆さんの中には、都内に十数店あるビルマ料理店に行ったことがある方もいらっしゃると思います。そこではたいてい、在日ビルマ人たちが楽しそうに食事をしています。彼らは多くの場合、活動家ではありませんが、そうした「ふつうの」ビルマ人である彼らと、是非しゃべってみてください。ここに私が書いたことが、けっして嘘でもなければ大げさでもないことが、よくおわかりいただけると思います。

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(了)