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●日本ビルマ救援センターは
ビルマ国内避難民の孤児たちにお米の支援を続けています。(詳細はアジアウェーブNO.92/8P9P「カレン難民とビルマ避難民孤児たち」にあります。) 
また、難民キャンプでの仏教系学校支援、保育所支援も行っています。ヌウポーキャンプ寺院建設基金提供者も募っております。どうか、タイ・ビルマ国境の難民、避難民と孤児たちの窮状をご理解いただき、支援の手を差し伸べていただきますよう、心からお願いします。
■ 連絡先
日本ビルマ救援センター(BRC-J)
代表 中尾恵子
〒大阪府富田林市津々山台1-13-12
電話&ファックス 0721-29-4423
E-mail brcj@syd.odn.ne.jp


寄付●1口1000円から(いくらでもけっこうです)
郵便振替番号00930-0-146926 受け取り人名 BRC-J
または
大和銀行金剛支店(普通)6553928 口座名義 日本ビルマ救援センター

参考文献/世界人権問題叢書20『ビルマの少数民族』マーティン・スミス、明石書店
メラ難民キャンプの難民家屋と、物売りをして働く子供
タイ・ビルマ国境
カレン難民キャンプから
日本ビルマ救援センターBRC-J中尾恵子
メラ難民キャンプ・サタトゥク仏教小学校のポー・カレン語の授業風景。皆熱心に勉強に励む
メラ難民キャンプのKRCWDGの織物プロジェクト

●たくましい難民女性
「この子の父親はカレンの兵士、母親はタイの警察につかまって刑務所にいれられているの。だから私たちがこの子たちの世話をしているのよ」。モモが一〇カ月の赤ちゃんをあやしながら私に説明してくれる。モモは色白できれいなカレン人女性。二三歳で独身だ。赤ちゃんはやせているが元気そうだ。モモがあやしている赤ちゃん以外にも親が世話をできない、あるいは両親をなくした子どもたちが数人いる。難民女性がその子どもたちの世話をしている。ここはタイ・ビルマ国境の町、メソットの北にあるメラキャンプ。難民約三万八千人が住むタイ・ビルマ国境最大規模のキャンプである。カレン難民女性たちのグループの事務所に私たちはお邪魔していた。
 今年三月、私は五人の学生ボランティアと、タイ・ビルマ国境の難民キャンプとビルマ難民支援NGOを訪問した。このとき私たちはカレン難民女性グループKRCWDGのモモにメラキャンプを案内してもらい、彼女たちの織物自立プロジェクトを見せてもらった。伝統的なカレン民族の織物を織ってそれをロンジー(ビルマ人男性・女性の巻きスカート)やテーブルクロス、カバン、壁掛けなどに仕立てる。キャンプで彼女たち女性が得られる貴重な現金収入獲得手段のひとつだ。
 キャンプの中での女性の仕事は水汲みから始まって、子どもの世話、食事の支度、洗濯と大変忙しい。その合間、彼女たちはこうやって織り機のある建物に集まり仕事をする。出来上がった織物をKRCWDGが買い取りそれをメソットの町にあるメタオクリニックやKRCWDGの事務所で売る。メタオクリニックはビルマ人難民、避難民、移民労働者に対して無料で医療・厚生活動を行っているクリニックだ。ビルマ難民支援をしているNGOの活動家やボランティアたちがクリニックや事務所を訪れたときにその織物を買う。私たちも小さな白い種のついた刺繍の壁掛けや鮮やかな色の生地などをたくさん買った。

●カレン女性グループKRCWDGの活動
 メソットの町に事務所をもつ彼女たちのグループはメラキャンプだけではなくメソット南にあるウンピャンマイキャンプ、さらに南にあるヌウポーキャンプへも支援活動を行なっている。それぞれのキャンプで保育所の運営、自立プロジェクト、公衆衛生教育、孤児の世話、老人の世話、未亡人の世話、図書館、キャンプ間のネットワーク作り、トレーニングプログラム(人権トレーニング、女性と子どもの権利トレーニング、リーダーシップトレーニング、技術開発トレーニング、織物・縫製トレーニング、文化トレーニングなど)に取り組んでいる。代表のサンダウェイから日本出発二週間前にEメールをもらっていた。ヌウポーキャンプに新しく到着した難民女性や子どものため衣服を送ってほしいという内容だった。私たちは事務所に直接衣服を届けた。新来者のために必要な歯磨き、歯ブラシ、石鹸、洗濯用洗剤も寄付した。これらは国際的な難民支援NGOから手に入らない生活必需品だ。特にヌウポーキャンプはメソットの町から車で五、六時間かかる。交通に不便なところにあるキャンプはNGO支援が届きにくい。キャンプ内の生活状況も他のキャンプに比べてまだまだ十分ではない。

●カレン難民キャンプ内の仏教徒支援
 カレン難民女性グループの代表サンダウェイからヌウポーキャンプの仏教寺院建設企画書を預かった。キャンプ内にある寺院が老朽化のため廃屋同然となり、仏教徒の難民が仏教の行事やお参りなどをすることができなくなっている。キャンプで暮らす難民にとって宗教は彼らの心の、そして生活のよりどころであり、宗教は生活の隅々にまで浸透している。
 寺院建設費用が四万一七〇〇バーツ(約一二万円)。寺院の仏像や備品に一万四六七〇バーツ(約四・一万円)。仏教の教材に五六五〇バーツ(約一・六万円)。運送費や仏教行事の運営費として三万九〇〇〇バーツ(約一一万円)。これがキリスト教の教会だとカトリック教会、プロテスタント教会の支援を得てキャンプ内にすぐに教会が建てられるらしい。私が訪れたメラキャンプでもカレンニー第3キャンプでも、キャンプの一番高い見晴らしのよい場所に立派な教会があった。学校やクリニックの建物の入り口にカリタス○○提供とかキリスト教団体グループの名前が書かれた看板を目にした。しかし仏教系支援団体が提供しているクリニックや学校は見あたらなかった。
 仏教徒は寺院に喜捨することで功徳を積むといわれている。寺院を建てるということは仏教徒にとって、なによりもすばらしい功徳を積むことになる。しかし、キャンプに暮らしている難民には定職がないし、寺院に喜捨したいと思っていてもそれを行う手段がない。ヌウポーキャンプの寺院建設企画書にはそう書かれていた。
 日本ビルマ救援センター(BRC|J)はこの五年間、メラキャンプにあるサタトゥク、シリサンダ仏教学校、仏教第8保育園の学校運営資金を提供してきた。サタトゥク仏教学校では一六〇人、シリサンダ仏教学校には五二〇人、仏教第八保育園には一二〇人の子どもたちが学んでいる。BRC|Jからは学校運営資金として教材費、給食代、先生の給与、校舎の補修代などを支援している。これは日本で行なう難民支援バザーの売上だけでは到底まかなえない。寄付金に頼るしかない。引き続き支援活動を行うためには、キャンプの仏教学校の現状を理解し、支援をしてくれる資金提供者を募ることが必要である。

●ポー・カレン語とスゴー・カレン語
 今年三月、ボランティアと私がメラキャンプを訪れた日は日曜日だったが、子どもたちは教室でポー・カレン語の特別授業を受けていた。サタトゥク仏教学校の教室は二〇人ぐらいが座れるくらいの大きさでいくつかに仕切られていた。若い先生が黒板の文字を棒で指す。子どもたちが指された文字を大きな声で復唱していく。どの子もどの子も元気いっぱい。見せてもらっている私たちは子どもたちの元気をいっぱいもらう。
 カレン人はもともと水田耕作を行なう仏教徒のポー・カレン人と、焼畑をするカトリック教徒中心のスゴー・カレン人で七〇%を占めるとマーティン・スミスの『ビルマの少数民族』(注※)に書かれている。メラキャンプではスゴー・カレン人が多く、スゴー・カレン語が話される機会が圧倒的に多い。このままではポー・カレン語が失われるのではないかとの危惧から仏教学校の先生たちが夏休み(三月後半から四月中)を利用してポー・カレン語の特別授業を始めた。また、毎年八月の初めから二週間、大人のためのポー・カレン語の授業も開講している。このときは言葉だけでなく、音楽や踊り、歌などの文化伝承トレーニングも行なう。最終日八月一四日はリスト・タイングの祭りで締めくくられる。BRC|Jは毎年この「ポー・カレン文化、識字教室」を支援している。コーディネーター、マントゥントゥンから送られてくる祭りの写真と報告を見ると、民族衣装を着た数十人ごとの踊りのグループが何組もあり、竪琴の演奏、優秀者の表彰と彼らの熱心さや楽しさが伝わってくる。最後にリスト・タイング。幸運を祈って手首に紐を結んでもらう。「今年こそ、祭りを見にきてください。」とマントゥントゥンが言ってくれた。

●なぜ、ビルマ?
 私が日本ビルマ救援センターと関わったのは、職場の同僚が大学院時代から続けていたビルマ難民支援活動のビデオ翻訳の手伝いが始まりだった。私はビルマの正確な場所もわからない、知っていることはノーベル平和賞受賞者アウンサン・スーチーという偉い女性がいる、この程度のお粗末な知識しかなかった。ビデオの内容は衝撃的だった。子どもや女性の証言でつづられていた。少年兵士。強制労働。ポーター。強制移住。国内避難民。レイプ。英語を日本語に翻訳しながら、怒りを覚えた。こんなことが本当に、現実に起こっているのか。
 現在、日本ビルマ救援センターの代表として年に二回タイ・ビルマ国境を訪れ、ビルマ難民キャンプと支援NGOを訪問している。支援を通して、信頼できるビルマ人の友人や活動を共にする仲間がたくさんできた。大阪ボランティアセンターで行っている月例ビルマ学習会や活動報告会、難民支援バザーで時々聞かれることがある。「なぜ、中尾さんはビルマなんですか?」これはカンボジア支援でもなく、バングラデシュ支援でもなく、なぜビルマ難民支援をしているのか、という質問だ。私は数多くある支援を必要としている国々の中からビルマを選んだのではない。軽い気持ちから始めた翻訳の手伝いがビルマの人々の窮状を伝えるビデオだっただけだ。だが、私はこの偶然に感謝している。
 日本ビルマ救援センターの代表を名乗りながら、私はいまだにビルマの地に足を入れていない。いつか、難民キャンプにいるビルマ人の友人が故郷に帰り、安心して暮らせるようになったら、そのとき初めてビルマを訪れ、友人に会いに行こうと思う。その日が一日も早く訪れることを心から願う。