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タイ・ビルマ国境の難民を支援する日本のビルマ人たち
ビルマ市民フォーラム
久保真由美
難民キャンプ内の学校の試験が終わり、ほっと一息。ささやかな食べ物を持ってキャンプの中の山にハイキングに行く少女たち
難民キャンプ内のビデオ映画館で上映させるビデオを見る少年たち。外界に触れる楽しみのひとときだ
●近くて遠い国
「向こう岸がビルマ……すぐ目の前なのにね」
 今年二月、初めてタイ・ビルマ国境を訪れた私の隣に、一〇年ぶりに母国ビルマを見つめるビルマ人女性トゥートゥーマ(仮名)の姿があった。国境を流れる川を前に、私たちは何度となくこの言葉を口にした。
 一九八八年以降、ビルマから国境地帯や国外を目指す人が後を絶たない。本国では得られない就学・就労の機会を外国に求めるしかないからだ。そして、ビルマの民主化実現のため、国を出て海外で活動を続けているビルマ人たちも大勢いる。ビルマが民政移管され、政情が安定するまでは帰国できない。必死の覚悟で家族の元を離れ、超過滞在者という不安定な身分のまま生活している人がほとんどである。その一人がトゥートゥーマだ。

●ビルマ女性トゥートゥーマ
 おしとやかな容姿からは想像もつかない芯の強さと、人懐っこい笑顔を持ち合わせた女性である。活動家としての勇ましい姿を見せたかと思えば、ビルマの伝統舞踊の踊り手として在日ビルマ人主催のお祭りやチャリティコンサートの会場で華麗な舞いを披露し、誰もを魅了してしまう。これらイベントの収益金はすべてタイ・ビルマ国境の難民のもとに送られ、日本のビルマ人たちによる支援活動が続けられてきた。
 昨年末、来日して一〇年になるトゥートゥーマに、新たなチャンスが訪れた。ついに日本政府から難民として認定されたのだ。これで本国への送還の危険性はなくなり、海外への渡航も許可される。そして、彼女は最初の渡航先としてタイを選んだ。いつかはタイ・ビルマ国境の難民の状況を自分の目で確かめたいと思っていた彼女にとって、当然の選択だったのかもしれない。

●いざ、タイ・ビルマ国境へ
 今年二月末、私たちの旅の計画がついに実行された。今回の旅は、もともとトゥートゥーマと同じく日本で民主化活動を続け、一昨年、在留特別許可を受けたビルマ人男性マウン・ティン(仮名)からの誘いがきっかけだった。彼は昨年にもタイ・ビルマ国境を一カ月ほど訪れている。一〇年ぶりにビルマに近づいた時の思いを帰国後の報告会で、多くの仲間と私たち日本人に語ってくれた。彼らにとって、今のビルマは「近くて遠い国」なのかもしれない。そんなマウン・ティンに、今回、初めてタイ・ビルマ国境を訪れるトゥートゥーマと私たち日本人三名の引率役を引き受けてもらった。

●在日ビルマ人が支援する難民キャンプ
 タイ・メーサリアンから国境へ向けて険しい山道を二時間ほど走ると、山間部に位置するメコンカ難民キャンプに到着した。ゲートをくぐり、山あいの谷をぐんぐん突き進む。両脇の斜面に住居が建ち、ここで暮らす人々の生活が目に飛び込む。小川で水浴びや洗濯をする子供もいる。大自然に囲まれた細長い地形は、まるでどこかの村に来たようにさえ感じる。
 現在、およそ一万三千人が生活するメコンカ・キャンプは、全体が一二の居住区に分けられ、それぞれを海外のNGOが支援している。ゲートをくぐってから一〇分ほどして、私たちの目指す一三番目のセクションに到着した。大勢の子供たちが出迎えてくれる。現在、およそ四〇〇人、九七世帯が生活するこの居住区には海外のNGOからの支援が入っていない。ここは学生活動家たちの運営するキャンプで、国外のビルマ人たちからの支援などで運営されている。キャンプ内の学校で指導する先生も全てここの難民たちだ。
 キャンプ内の住居は、木や竹で編んだ骨組みの上に大きな葉っぱが敷かれたものが多い。落ち葉の季節に一枚一枚拾い集め、束ねて乾燥させたものが屋根の材料となる。縁側がついた家、ハンモックのある家など一つ一つの建物に住む人のアイディアが込められている。どの家からも小さな子供たちが顔をのぞかせ、こちらをじっと見る。

●「なぜ、自分は難民なの? 
なぜ、難民キャンプで生活しているの?」
 斜面の上方に学校が見えた。ここは在日ビルマ人たちが支援を続けている学校だ。ちょうどこの時期はビルマと同じテスト期間で、子供たちは試験の最中だった。現在、この学校には二四六人の生徒と二五人の教師がいる。生徒の年齢は五歳から上限はなく、だいたい一〇年生(高校卒業程度)までの教育は受けられるそうだ。教室の隣の職員室に、テストを終えた子供たちが集まってきた。テストの採点をする先生の横でじっと英語の絵本を読む六歳の少女がいた。彼女はこのキャンプで生まれ育ち、まだ一度も外には出たことがない。英語の勉強が楽しいという彼女は、愛らしい声で覚えたてのアルファベットを読み聞かせてくれた。
 そして、もう一人、一昨年から学校の隣にある女子寮で生活する七年生の少女がいた。娘をどうにか学校に通わせたいと願う両親が、彼女をこのキャンプに連れていってもらえるよう知人にお願いしたのだという。彼女の両親や兄弟は今でもビルマに残り、ポーターとして働かされている。彼女にとっての選択は、「家族と離れて難民キャンプの学校で勉強をする」か、「家族とともにビルマでポーターとして働く」、その二つしかなかったという。そんな彼女が昨年、首席をとった。彼女の左手には先生からご褒美にもらった腕時計がはめてある。そして「将来は何になりたい?」という私の質問に、彼女は「英語と算数が好きです」とだけ答え、うつむいてしまった。「彼女の答えは、電話もパソコンも見たことがなく、医者がどういうものなのかがわからないという理由だけではない。いつ、キャンプの外へ出られるのかさえわからない状況では、彼女たちは夢を口にすることさえできないのだ」とマウン・ティンは説明してくれた。「本当のビルマの歴史」を子供たちに教えることは、「なぜ、自分自身が難民なのか?なぜ、難民キャンプで生活しているのか?」ということを子供たち自身に考えてもらうことなのだ、と少女の隣にいた先生が話した。

●自由な議論の場所
 学校を出て、さらに斜面を上った所に休憩所があった。椅子とテーブルが並べてあるだけの建物だが、この場所には深い意味が込められているのだという。BNew Generation Students OrganizationCと名づけられたこの場所は、学生が好きな時に集まり、好きな議論を自由に行なえる場所なのだ。ビルマ国内では学生たちが集まり、自由な議論をできる場所がなかったので、子供たちのためにどうしてもこの場所を作りたかったのだという。
 他にもキャンプの中には裁判所や映画館といった興味を引く場所があった。ここの裁判所は罪を裁くための場所ではなく、結婚式を挙げるために建てられたようだ。そして、映画館の前にはいつも子供たちが溢れている。映画館といっても映写機とスクリーンがあるわけではなく、テレビでのビデオ上映だ。
 最後に私たちは、難民キャンプへの支援物資として、日本から持参した子供向けの衣服や現地で調達したお菓子やフルーツをキャンプの子供たちに渡した。どこからともなく駆け寄ってくる子供の多さを改めて実感し、私たちはキャンプを後にした。
 帰国後、まだ難民キャンプを訪れたことのないビルマ人たちから、難民キャンプの状況について尋ねられることがある。普段は仕事の上でも在日ビルマ人たちから様々な状況を教えてもらうことが多く、私が難民の状況を伝える側に立つというのは、なんとも不思議な気がしてならない。今回、日本で難民申請をしたトゥートゥーマやマウン・ティンとともに、彼ら自身が「難民」と呼び、支援を続ける難民キャンプを訪ねることができた。生まれた時から難民として生まれてきた多くの子供たちと出会い、胸を痛めるトゥートゥーマたちの姿に言葉を失う。私にとっても今回の旅は特別なものとなった。皆、思い思いに日本からできる支援、新たな目標を見つけたようである。

●ビルマとの出会い
 ビルマの政治問題、政治活動を続ける人たち、これは何も特別なことではない。私がビルマ市民フォーラムの事務局を勤め、いわゆる政治活動をするビルマ人、難民申請をするビルマ人の人たちと出会ってから、もう二年が経つ。初めはビルマを旅行し、人々の笑顔と穏やかな国民性に惹かれ中毒になって帰ってきた。それから帰国後にビルマと名のつく場所に足を運ぶうちに、日本で知るビルマの状況があまりにも異様に思えたのだった。
 単純なきっかけではあるが、一人でも多くの日本の人に、ありのままのビルマを知ってもらい、受け止めてもらう中で本当のビルマを考えて欲しいと思う。彼らの生き方を通して教わることも多いはずだ。私はよく在日ビルマ人の人たちと近い将来、必ずビルマで会う約束をしている。彼らに思い出の場所を案内してもらうのが私の夢でもある。その日が近いことを祈らずにいられない。

●ビルマ市民フォーラム(People's Forum on Burma)事務局
〒101-0032東京都千代田区岩本町3-10-13幸ビル2階 いずみ橋法律事務所内
TEL03-5825-1600 FAX03-5825-1501
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教室の隣の職員室でアルファベットを読み聞かせてくれた少女/在日ビルマ人が支援しているタイ・ビルマ国境の難民キャンプ内の小学校で