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ワンカーの戦いに参加した日本人義勇兵士。左から二人目。故西川孝之氏
塹壕で戦死したカレン軍兵士たち。ティパウィチョウの戦いで
ティパウィチョウの激戦。ビルマ軍に向かって銃を撃つカレン軍兵士
マナプロウでのカレン軍兵士。この3年後、マナプロウは陥落した
カレン族の新年のお祭
●ビルマの現在についてのメール

 現在ミャンマーは超インフレで、この3、4ヶ月の間にインフレ率は100%を超えそうになっています。
 ガソリンやディーゼル車の燃料の値上がりに加え、タイとの国境は戦争状態で陸路で安価なものが手に入らず、輸入品はもちろん、国内製品に至っても、値上げ幅は信じられないくらいです。米も倍くらいの値段になっています。
 同時に、ミャンマー通貨のチャットは、暴落を続けており、両替自体が大変難しい状況で、不法両替による逮捕者が沢山出ています。3月中旬で、$1=470チャットくらいだったものが、5月中旬には830チャットを超えてしまっています。そのため、チャット収入の商売は大変な痛手で、儲かっている人がほとんどいないような、わけのわからない状況です。以前は他国のどこよりも治安が良かったヤンゴンですが、すこしずつ治安も悪化しているようです。それでも、まだ暴動は起こらないと思いますが……
(投稿)
●ビルマの現状メモ

 ビルマの経済はさらに悪化している。6月上旬、一時闇通貨レートは1$=1000チャットを越えた。その後670チャットに戻ったが、不安定な上に、また急落しそうな気配もある。
 日本人観光客やビジネスマンが激減している。在ミャンマー日本人も一時1000人ほどいたが、現在は200人に減っている。
 貧富の差が拡大し、物乞いが多くなっている。子供が育てられない親が捨て子をするケースが多く見られ、孤児も増えている。
 タイからの輸入は戦闘状態などから減っているが、中国やバングラデシュその他の国からの輸入が増えているので、なんとか物資がもっている。
 エイズ患者が増えてかなり深刻になっているので、政府は本格的に対策に乗り出したが、財政困難な上に、エイズ検査も技術的に困難で、打つ手に窮している。
 日本で開発された15分でわかるエイズ試薬が1本650円で、これの輸入に望みがかかるが、エイズ患者の実態把握以上に、予防キャンペーンが同時に急がれなければならない。
(旅行者からの聞き書き)



 四〇以上の民族が住む多民族国家ビルマは、地勢的に中央平野部と周辺山岳地とに分かれる。主に中央平野部に住むビルマ族は六〇%以上を占めるが、他の民族の多くは、周辺山岳部に住む(平野部にもモン族、カレン族、アラカン族などが住む)。
 古来険しい地形の周辺山岳部には、中央権力が届かず、独立自治の気風が強かった。イギリス統治時代になっても、各地の土侯の自主権を尊重する形で統治されてきた。
 しかし第二次世界大戦後、ビルマがイギリスから独立するさい、大きな問題になったのが、この周辺民族の問題である。ビルマに組み入れられるのか、それとも各民族で独立するのか。それともイギリスがそのまま統治するのか。結局当時の指導者アウンサンは、周辺民族の意向を尊重する形でビルマ連邦として、ある程度自治を尊重しつつビルマ国家に組み入れる方向を採った。
 一九四八年二月、イギリスから独立の約束を取り付けて帰国したアウンサンは、少数民族の代表を招いてパンロウン会議を開き、自治権を認める約束をして連邦国家に参入してもらうことに成功した。
 しかしそれ以前から確執のあった、少数民族最大勢力のカレン族はこの会議にオブザーバーとしてしか出席せず、発言権を認められなかった。この会議は二つの大きな禍根を残すことになる。一つは周辺民族に自治権を約束したこと、二つ目は、カレン族を無視したものであったことである。しかし四七年七月、独立を目の前にして、アウンサンが暗殺される悲劇が起こった。
 一九四八年一月ビルマは独立したが、カレン族もこのとき独立を要求して武力蜂起する。一時は首都ラングーンまで迫ったが、首謀者が謀殺されると急速に勢力が衰え、敗退する。
 六〇年代以降ネ・ウィンによる軍事政権は、武力によって中央集権化を進め、周辺少数民族の支配を試みるが、険しい地形のうえに、中国、タイなど国境を接する事情から他国の援助や思惑も絡み、武力衝突がそのままくすぶり続けていた。
 しかし事態がまた大きく変わることになったのは、一九八八年八月に起きた民主化を求める暴動である。一時は成功するかに見えた民主化運動は、その後結束した軍部に武力鎮圧された。その犠牲者は一〇〇〇人以上とも言われている。
 民主勢力はある者は地下に潜伏し、ある者は外国に逃亡し、ある者は周辺山岳民族の元へ合流避難した。こうした背景の下に成立したのがDAB(ビルマ民主同盟)である。
 民主化運動の中心であった学生たちABSDFも、敗れて周辺山岳地の反政府ゲリラ勢力に合流して軍事政権と対立する方向をとった。カレン族やカレニー族で軍事訓練を受けた学生たちは現在も一部残っている。
 民主化勢力と、反政府少数民族連合は、民主化と反軍事政権という旗印の下に手を結ぶことになった。少数民族の反政府同盟NDF(民族民主戦線/一九七五年結成13の民族)はDABとの結びつきを強化した。
 一九九〇年に選挙が行なわれ、アウンサン・スーチーが率いる国民民主連盟NLDが圧勝したが、軍事政権SLORC(国家法秩序回復委員会)は政権を委譲しなかったばかりか、民主勢力の弾圧を強化した。
 また周辺民族への攻撃と弾圧も強化され、中国の支援を得て、一九九二年頃より、カレン、モン、カチンへの攻撃が激化された。ティパウィチョウ、ワンカーなどで激戦が続く一方、ビルマ軍は少数民族の村人を弾圧し、強制労働や強制運搬に駆り出し、不服を唱える村を焼き払った。
 こうした政府軍の弾圧を逃れる人々が、タイ国境やバングラデシュ国境に増え、カレン難民、カレニー難民、ロヒンギャ難民としてしだいに増大した。一九九二年三月の時点でカレン難民は約四万人がタイ国境に居住するまでになっていた。その後も増え続け、二〇〇一年二月現在カレン難民は約一〇万人、カレニー難民は二万人、モン難民は一万二〇〇〇人と、合計約一三万人がタイ国境に逃れている。
 これらの難民は、国連から難民としては認定されていず(タイ国自身の国連への提訴が必要)、政府間および国連としての公的な援助はなされていない。
 中国の軍事機関により指導された政府軍の特殊部隊は、毒ガスやヘリコプターなど用いて、一九九五年カレン軍の牙城ワンカーを落とし、またカレンの首府マナプロウを陥落させた。
 軍事的優勢と交渉術により、少数民族の共闘同盟に一つ一つクサビを打ち込む形で分断に成功した政府軍は、カレンを除いて停戦を約束させ、一時は完全な分断と制圧に成功したかに見えたが、一九九七年のアジア経済危機によって経済問題が深刻化する足元の危機に見舞われた。あらゆる経済政策が失敗し、インフレはさらに高まり、頼みの日本を中心とする外資はビルマから次々に引き揚げて、窮地に追い込まれた。これを救う形でASEANが加盟を容認したが、しかし逆に欧米の反感を招き、欧米との経済交流や貿易は凍結化を強めることになった。
 また国内的に、エイズなどの蔓延が軍事政権をさらに困惑させた。
 一九九九年、ビルマの学生によるバンコクのビルマ大使館占拠事件が発生、この動きはテロの流れを起こし、カレン族の急進派グループ「神の軍隊」による病院占拠事件とタイ軍による射殺を呼び、過激化の方向を辿っている。
 二〇〇〇年、国連によるアウンサン・スーチーと軍事政権との調停が繰り返され、夏には車に篭城する事件ともなったが、明確な対話の軌道はまだ敷かれていない。
 二〇〇一年に入り、軍事政権下での経済はさらに悪化し、インフレ率は跳ね上がって、一時は一ドル八〇〇チャットとなり、国民生活を逼迫させている。さらに、タイとの関係が悪化し、軍事衝突や国境貿易の減少を招いた。
 一部には、カレン軍などにアメリカから援助が入り始めているとも言われているが、ここへ来てSPDC(国家平和開発協議会/97年改名)軍事政権は、内外の問題が大きく膨らみ、一触即発の危機に直面している。
 ビルマの民主化は、歴史的な懸案である周辺民族の自治と協和の問題を内蔵している。現在の政治の動きそのものも少数民族を抜きにしては考えられず、それをどう民主主義の下に連邦の形へ組み入れていくか、あらためてアウンサンのパンロウン会議の課題が、民主化の問題そのものとして立ち上がっている。またその和合にこそ、真の民主化とビルマの方向が存在すると言えるだろう。


ビルマの現状メモ
2001.6月

ビルマの現在についてのメール
BURMA
ビルマの民主化と民族問題
五十嵐勉(作家・アジアウェーブ編集長)