CAMBODIA
カンボジア――新たな苦悩
農村から見た人々の苦悩
収奪と病苦に喘ぐ人々__希望への道
アジア子供教育基金代表
堀本 崇

 二十余年に渡る戦乱とポル・ポトの大虐殺という陰惨な歴史を抱える国、カンボジア。新生カンボジア王国が誕生し、今年で一〇年目を迎える。
 九三年日本政府派遣の選挙管理員としてPKOに参加して以後も農村でNGO活動を続け、バッタンバン州で僧侶を経験するなどして長くカンボジアに関わってきたアジア子供基金代表・堀本崇さんに、この一〇年を振り返ってもらった。カンボジアの問題や希望を、現場の生きた鮮烈な体験を通して記していただいた。(編集部)

●93年カンボジア総選挙が残したもの――政治の歪み


 一九九三年四月、世界の注目を集めた総選挙は、゛自治州をつくって抵抗する≠ニまで言った第二党カンボジア人民党への妥協として、世にも珍しい二人首相制が敷かれた。法よりも力が優先された。
 その後、選挙のたびに反対党運動員の殺害や、開票への不正が行なわれた。前回の総選挙では開票後に比例選挙の計算方式を変更し、反対党の獲得議席が減じた。そしてポル・ポト派の裁判。現在、収監されているのは二名のみという状況だ。虐殺に手を染めた大幹部たちは、いまも街を闊歩している。
「開発のための仏教」を主宰するヘン・モニチェンダは言った。「二〇年余の戦乱で、私たちカンボジア人が失ったものは、何が正しくて何が間違っているか判断する心です」と。正義の前に力を優先させる体質は将来に渡って禍根を残し続けるだろう。

●カンボジアの僧として


 九五年、私は親しくなったカンボジアの人々、特に子供たちの笑顔に魅せられて、教育生活支援を主活動とするNGO、「アジア子供教育基金」を立ち上げた。支援対象地域をバッタンバン州とバンテアイ・ミエンチェイ州とし、学校建設を手始めに、里親活動、孤児院支援、農業復興支援へと活動は展開した。
 九七年九月、支援活動を展開しているうちに、私はカンボジアの人々の心の中に仏教が深く息づき、精神的拠りどころとしていることに気づき、自らを省みた。復興とはまず心の復興から始まるべきだと思い、「仏教に触れずして人々の心は解るまい。日本人としての豊かさを享受したままでは、人々の心に触れることはできないだろう」との思いの末に、私はバッタンバン州アンロンビル寺にてカンボジア僧侶となった。平和行進で著名なマハー・ゴサナンダ師の得度していただいた。たった一五カ月の僧侶生活ではあったが、それまでは見えてこなかった民衆の姿が見え、聞くことのできなかった民衆の声を受け取れるようになった気がした。

●他に道はないんです!……――経済


 カンボジアのみならず、国家の発展は農業が端緒となる。メコンの恵みを最大に受け、一時は世界第二の輸出国であった米作も、二〇年余の内乱で疲弊を極めている。以前は二期作三期作が当たり前であり、一ヘクタール当たりの収穫量(籾米)は、四〜五トンが平均であったといわれている。現在はわずか一期作、収穫はよくて二〜三トンがせいぜいだ。すべては灌漑設備の崩壊と、森林伐採による生態系の破壊が原因である。九九年に行なった調査(バンテアイミエンチェイ州プコム区)では、最高の条件で算出した一ヘクタール当たりの利益は、年にわずか一三一ドルでしかなかった。農民の生活や知るべしである。
 一九九九年頃から起きている権力者による土地の不法簒奪は、農民の命を削っている。問題が問題なゆえ、詳細なデータは見ることができないが、ほとんどがホテル用地や工場用地などへの転売のためと言われている。
 シェムリアップで起きた事件を紹介しよう。土地を奪われた一三五家族のその土地は、ホテル建設予定地であった。二千万ドル相当の土地が軍隊まで擁して奪われ、何の補償もなされないのである。そうした農民が次々に首都プノンペンにやってきて、国王や国会へ請願に来続けた。私自身、パイリンから歩いてきたという一〇〇名を越える農民たちを、支援品とともに訪問したことがある。カンボジアーナ・ホテル近くの空き地に、彼らは野宿していた。屋根はブルーのビニールシートだった。
 カンボジア農業の現状を、街中にいながら知るには市場に足を運べばいい。輸入品のいかに多いことか。自国産業育成よりも、国境貿易での税や袖の下が大事なのだろう。快挙のごとく言われたアセアンへの加盟。自国製品を持たないカンボジアに、真の利益があるとは思えない。国民のわずかな現金も、海外へと出て行くばかりだ。ある人が言った言葉が今も蘇る――「お米を作っている農民の方々がお米を食べることができない」
 さらに農民を圧迫するのはカンボジアの至る所に存在する高利貸しだ。現金現物を問わず、年換算の利息は九六%〜二〇〇%にまでなる。あまりに生活を圧迫する現状に鑑み、国連関連の組織やNGOが小規模金融を行なっているが、安くて月に四%である。年にすれば四八%であり、日本では既に違法のレベルだ。末には土地を手放す例が多く、年々小作農の比率は高まるばかりである。
 そして、乾期には収入が途絶える農民は、ブローカーに手数料を払ってまでタイに出稼ぎに行く。しかし、契約終了寸前に雇い主が警察を呼び、不法滞在者としてまとめて強制送還される例のいかに多いことか。
「なぜ、信じるんですか!絶対行っては駄目ですよ!」との私の問いに、「解ってます!でも他に道はないんです!……」絞り出すように、悔しそうに村人は答えた。

●エイズに苦しむ人々


 カンボジアにおけるエイズは、今や日常の脅威だ。公称では感染者二〇万人といわれているが、実数はそれよりはるかに多いだろう。現在、村々でのエイズによる死者は珍しくない状況となっている。
 しかもカンボジアの場合、感染から発症までの期間が余りに短いように思える。私は専門家ではないのでわからないが、関連薬の有無でなく、基礎栄養不足や不衛生が原因と推察される。他にも理由がありそうだ。
 一家における感染源は夫であり、妻に感染するのは時間の問題だ。そして、子供たちが残される。そんな状況でも、日本人がとても及ばないのが相互扶助の精神である。自らが極貧であろうとも、そうして残された孤児を養子として面倒を見る家族のいかに多いことか。
 ある二八歳の母親は、昨年六月にエイズで夫を亡くした。自身もエイズを発症していた。三人の子供たちを抱え、ガリガリに痩せた身体にむち打って、毎日市場へ野菜を売りに出かけていた(近所で野菜を買い、市場で販売)。私が訪ねた日は赤字とのことだった。日本なら、ベットで治療の毎日だろうが、子供たちのため、日々働いている。自身の身体の辛さなど、彼女の口から一切出なかった。
 調査で、ある家を訪問したとき、自身が感染しているといまだ知らない若妻が、乳児におっぱいをあげていた。なすべきを知らずそれを見ているしかない夫、カンボジア人スタッフ、そして私。五人の子供を抱える極貧のその家族で、母親がエイズであるという告知はだれにもできなかった。慈愛の象徴であるはずのお母さんのおっぱいが……胸が痛んで仕方がなかった。この家庭の里子は、今九歳である。そんな家庭にありながらクラスで一番の成績なのだ。彼の笑顔が心に痛かった。

●少女リムとの出会い


 僧侶であった頃、私は日々一時間半、私は村へ托鉢に出かけていた。九八年十一月のある日、托鉢中に一人の少女に出会った。リムという九歳のその少女は、左目に大きな腫れ物を抱えていた。翌日連れて行った州立病院の医師によると、リムは@フランスNGO(以降、Fとする)の手配で二度手術を受けたがいずれも失敗。A現在は恐らくガンの末期である。Bバッタンバンには癌治療の設備がなく、ベトナムかタイ、少なくともプノンペンに連れていかなければ助からない、ということであった。
 早速Fの代表に面会し、付き添いも含め、プノンペンで治療を受けるための費用一切を負担するので、リムをプノンペンに送らせてほしい≠ニ要請した。しかし、「助けてきたのは私たちです。何かしたいのなら十二月一日に予定の手術の後にして下さい。イギリス人のお医者さんの予約をしてるのです」と言ったのだった。「バッタンバンで手術をしたとしても、リムは死んでしまうことを知っているのですか?」と問うた私に、彼女は「知ってます」と言い放った。
 私は、一家の主人たるリムの祖母が、すべてを私に託すと言うなら、リムと祖母をプノンペンに送ろうと心に決めて祖母に面会した。しかし、祖母が選んだのはFであった。九九年間に渡るフランス植民地支配の記憶が残る世代の彼女は、恐らくFによる後難を恐れたのだろうと推察された。
 そして翌日、托鉢途中にリムの様子を見ると、取り替えたばかりのガーゼが血と膿に染まっていた。助けているはずのFからは、それまでもガーゼ一枚の支援もなかったことを初めて知った。直ぐに州立病院の医師の指示を得、医薬品や食品などを日々援助したが、それからのリムは日々衰弱していくだけだった。
 翌年四月、リムのたった九年の命は線香花火のように消えてしまった。後に、州立病院の医師を訪ねてみた。リムを回想しながら、以前F代表とのやりとりを話してくれた。「リムをプノンペンに送って欲しい」と懇願した医師に、「私はイギリス人医師と話をします」と言い放ったという。医師の苦しみは察して余りある。一人の少女の命が、人間の、NGOの、国のメンツの狭間で翻弄されたように思えてならなかった瞬間だった。

●自立に向けて――私にもできるんだ!


 還俗してからも私はむしろカンボジアにのめりこんだ。彼らとの人間関係はいっそう深くなっており、たくさんのカンボジアの人々が微力な私でも頼りにしてくれていた。私も彼らから支えられた。
 一九九九年六月、アジア子供教育基金は、バッタンバン州に「ノリア職業訓練所」を設立した。生徒は主に、孤児と極貧家庭の子女である。四六台のミシンと五名のスタッフで裁縫の職業訓練を行なっている。訓練コースと製作コースを設置し、製作コースではその質と製作数に応じて給金を支給している。二〇〇〇年度実績として、学校制服は一〇二八一アイテムを製作(内六九二一アイテムを完売)し、普通服は二二九九アイテムを製作(内八七七アイテムを完売)した。しかし、地方がゆえに廉価販売せざるを得ず、経営的にはいまだに苦しい状態ではある。目指すは彼女たちの自立である。自身の意思にかかわらず身を売らずに済むように。リムの祖母のように他者を恐れず済むように……。
 かつて、訓練コースで一番であった孤児の少女に、私用のシャツを仕立ててもらったことがある。彼女はかつてカンボジアクローム(南ベトナムのメコンデルタ地帯/アンコール帝国時代そこはカンボジア領土だった)に住んでいた。両親を亡くし、祖母を亡くし、引き取られた叔母は、彼女をタイ人の売春ブローカーに売ったのだった。ブローカーとともにタイに向けての中途、バッタンバンで運良く保護され、孤児院に引き取られた。しかし、しばらくは昼間でも一人で出歩けないトラウマを抱えていた。
 その彼女が服を仕上げて私に着せたとき、彼女は「私にもできるんだ!」と、満面の笑みを浮かべた。小さくとも確かな自信とともに。
 カンボジアの伝統舞踊、アプサラダンスは美しい。指を半月形に反らせ、踊り子たちは優雅に舞う。カンボジア大地に染み込んだ、すべての悲しみを昇華させるかのように。いつの日にかアプサラは、その慈愛に満ちた微笑みをカンボジアの大地に注ぐだろう。 そして、私たちの活動が人々の心に届くよう、アジア子供教育基金は今後も歩み続ける。リムが微笑むその日まで。




アジア子供教育基金をご支援ください
★現在、アジア子供教育基金ではエイズによって両親が死亡した孤児を、在宅里子として支援しています。
 またアジア子供教育基金は、今後も家庭生活の向上を核に、教育生活支援、農村援助を行なってまいります。どうぞ皆様、アジア子供教育基金の活動を、そして子供たちのために御支援、御援助を賜わりますようお願い申し上げます。

アジア子供教育基金
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アジア子供教育基金
●年会費
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口座名義/アジア子供教育基金
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普通5387145
口座名義/アジア子供教育基金
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写真/五十嵐勉
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