柳宗悦没後50周年特集レポート

日本民藝館
朝鮮陶磁―柳宗悦没後50周年記念展―











●朝鮮陶磁−柳宗悦没後50周年記念展
会期:2010年4月1日(木)〜6月27日(日) 午前10時〜午後5時 月曜休館(5月3日は開館し、5月6日は振替休館)
場所:本民藝館(東京都目黒区駒場4-3-33) 地図
最寄り駅:京王井の頭線「駒場東大前」駅西口より徒歩7分 
HP:http://www.mingeikan.or.jp/html/contact-the-mingeikan.html


柳宗悦没後五〇周年 
その哲学と再評価の動き
 

 昨年は文学にとって、太宰治、中島淳、大岡昇平、松本清張など著名作家たちの生誕百周年にあたる節目の年だった。そして、今年は民芸運動の創始者であり、『白樺』のメンバーでもあった柳宗悦の没後五〇周年である。日本民藝館では柳宗悦没後五〇周年記念展として、柳の美学の原点ともいえる朝鮮陶磁約二七〇点を展示する。また、韓国文化院や高麗美術館などでも、没後五〇周年を記念する様々なイベントが開催される予定である。
 日本が欧米列強の仲間入りを目指して、今も引きずるアジアとの溝を深めていた明治から昭和。そして、敗戦から立ち直るために、やはり人々が欧米の美術的基準に憧れた戦後。激動の時代にまたがり、強い信念を持って「民芸の美」を唱え続けた柳の哲学と、その根幹をなす朝鮮陶磁について日本民藝館の協力をえて取材した。


「光州へ民藝蒐集の旅」 一九三七年
柳は生涯を通じて、刺激しあう友に多く恵まれた。右から陶芸家の濱田庄司、柳、河井寛次郎。


1.柳宗悦という人物
父楢悦から受け継いだ冷静な科学者の眼

 柳宗悦は一八八九年(明治二二年)、東京の麻布に生まれた。父は海軍少尉・柳楢悦、母は講堂館を創立した柔道家・嘉納治五郎の姉・勝子である。宗悦は二歳になる前に父と死別しているが、柳の開拓者精神、分析能力と蒐集癖は父親譲りと思われる。
 父楢悦は、海軍水路部で沿岸の測量を指揮していた科学者で、和算の大家でもあった。水路の測量だけでなく、そこで採取される海産物や土地の人々の風俗にも関心を持ち、博物学者としての一面を覗かせたという。部内に自然科学の総合研究の場としての水路学会を設置する一方で、海軍の外でも東京数学会社や大日本水産会の設立に関わっており、もし長く生きたならば、新華族に加わってもおかしくない功績を海軍で上げている。海軍創立計画について問われた時には、日本の航海・測量技術の未熟さに加えて、藩閥の身内びいきによる人事が、乗組員の命と国費を浪費していると建言している。(鶴見俊輔『柳宗悦』平凡社、一九九四年)。
 柳が、己の美学においては直感を大事にしながらも論理的な検証を忘れず、民族の伝統美を愛しながらも国粋主義に陥らない客観性を保ち、権力に屈しない気骨を持ち続けたのは、柳の家系に流れる科学者・数学者としての血と誇りであろう。 


2.柳宗悦の青春時代
白樺派の批判精神とバーナード・リーチのインタナショナリズム

 
 柳は学習院初等科に入学、同高等科在学中に雑誌『白樺』の創刊に関わる。『白樺』の同人には志賀直哉、武者小路実篤、里見ク、郡虎彦、有島武郎・生馬兄弟らがいた。彼らの個人や人道を重んじる自由主義的精神に、青年期の柳が大きな影響を受けたことは間違いない。また、同人には美学・美術史研究家の児島喜久夫や蒐集家の三浦直助らもいた。柳の眼を美学や蒐集に向けさせた重要な人物達である。
柳は挿絵や紙の選定など雑誌の体裁作りを担当し、今で言うアートエディターとして活躍した。オーブリー・ビアズリーの木版画などに興味を持ち、印刷効果にはこだわっており、元々鋭い美的感覚の持ち主だったことが窺える。
 『白樺』の同人達は文学だけではなく西洋美術にも強い関心を抱いていた。毎号『白樺』は美術作品の写真を多く掲載し、美術思潮を論じるなど美術雑誌としての色合いも強かった。ロダン、セザンヌやゴッホを日本に初めて本格的に紹介したのも『白樺』である。『白樺』の同人達は梅原龍三郎や岸田劉生ら日本の若い洋画家と交流して、展覧会を何度も開いている。その情熱が伝わったロダンからは、ブロンズ像三点を寄贈された。同人達は「白樺美術館」の設立を志して読者に募金を呼びかけたが、十分な資金が集まらないうちに『白樺』が関東大震災で終刊となり、夢は叶わなかった。それでも柳が、当時は珍しかった本物の西洋美術作品に触れて審美眼を養うことができる、非常に恵まれた環境にいたことは確かである。柳の蒐集とそのコレクションを展示する館の建造に対する情熱は、この頃に芽生えたものであろう。
 里見クによると、白樺派の文体は「(権力にすり寄る)いい子病」「意味ありげ」と「知ったかぶり」の三点を避けようとしたという(鶴見俊輔『柳宗悦』平凡社、一九九四年)。柳は終生、「本当に自分で体験したことなのか」「自分の言葉で語っているのか」ということを周囲に厳しく問い、知ったかぶりを大いに嫌ったという。また、柳が一般の人々にもわかるような平坦な文章を用いて民芸に関する著述を書き記せたのも、『白樺』時代の文章鍛錬によるところが大きいと思われる。
 激しい個性がぶつかり合う『白樺』において、穏やかな性格の柳は仲間の調整役として頼りにされていた様子である。後年の民芸運動においても、柳を「柳初歩悦」と揶揄して真っ向から攻撃した北大路魯山人も含めて、他者との争いを避けている。そのかわり家庭では、頑固な夫であり、厳しい父親であったらしい。
 それでは、エリートとして欧米思想や美術に親しんだ柳が、過度の西洋崇拝にも国粋主義にも走らなかったのは何故だろうか。また、当時は蔑視されていた国々の雑器のなかに、どうして美を認めることができたのだろうか。
 柳は多感な青年期に啓発し合う友人に恵まれたが、そのなかには外国人もいた。英国人陶芸家バーナード・リーチである。リーチは日本や香港などで幼少期を過ごした経験を持ち、ロンドンに留学していた高村光太郎との出会いを通じて日本への憧れを高め、一九〇九年(明治四二年)に来日した。元々画家だった彼は、上野桜木町でエッチングの教室を開いた。ここに柳を含む『白樺』の同人達が集まり、交流が始まった。リーチは招待された茶席で楽焼の美しさに心を動かされ、尾形乾山に弟子入りして修業を積んだ後、母国で日本式の登り窯を開いた。欧米至上主義の風潮が強かった当時、日本の美を認めて対等に日本人と付き合うリーチとの友情は、真の国際人として在り方を柳の心に育てたのではないだろうか。一九一二年(明治四五年)、リーチは博覧会で見た朝鮮陶磁に興味を持った。この関心は、当然柳にも伝えられたであろう。


「柳夫妻とリーチ」 一九二〇年 京城
兼子夫人は生涯にわたって柳と一家の生活を支えた。リーチは英国帰国前に柳の勧めで朝鮮を訪れ、深く心を動かされたことを柳への手紙に書き記している。

 またリーチが「幻視者」の異名を持つウィリアム・ブレイクの詩集を柳に貸したことがきっかけとなり、柳は宗教哲学者として長年研究するテーマを見出した。ブレイクは神を主題にした詩を多く書いており、一般にロマン派神秘主義に分類されている。
 ブレイクは銅版画家、挿絵画家そして編集者としての顔も持っている。彩飾印刷を開発して、言語テクストと視覚テクストを同列に表現することを可能にした。その印刷技術においても、柳の興味を捉える人物であったに違いない。
 宗教と哲学と芸術が三位一体となった柳の美学の原風景は、ブレイクの思想に見てとれる。柳は高い教育を受けていたが、知識よりも、内面から湧き出でて神へと繋がる直感を重視した。
柳にとって、神を求める心と美を求める心の源、宗教における真理と美における真理は一緒だった。

「ちょうど科学者が少しでもこの世を真理に近付けたいと仕事に勤しむように、私は生きている間に少しでもこの世を美しくしてゆきたいと念じている者です。宗教家の身になれば、どうかして神の世をこの世に具現したいと希うでしょう。同じように私は美の国をこの世に来したいばかりに、様々なことを考えまた行おうとしているのです。」
(柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫、二〇〇六年)

 柳の中では、美への献身は神への奉仕と同一の行為であったことが読み取れる。哲学者としてよりも民芸運動家として知られる柳だが、その生き方は宗教哲学者としての確固たる信念に貫かれていた。
民芸運動家として社会的地位を確立した後も、仏教の研究を生涯続けて美の見方を研鑽した。


3.朝鮮陶磁との出会い
その魅力と新しい美の基準


「忠清南道鶏竜山古窯後にて」 一九二八年
中央の柳を挟んで、向って右が浅川伯教、左が巧。この兄弟が調査に訪れた朝鮮古窯跡は、五百ヶ所になるだろうと柳は書き記している。

 柳の朝鮮陶磁への関心は、多くの人々との出会いのうえに成り立っている。なかでも重要なのが、浅川伯教・巧兄弟である。兄の伯教は彫刻家を目指しながら朝鮮で小学校教師を勤める、『白樺』の熱心な読者だった。その伯教が一九一四年(大正三年)九月に柳の自宅を訪れた際、持参したのが「染付秋草文面取壺」である。本来は瓢型だった瓶の下半分だけだったが、柳はその形状美と、傷物であるが故の不完全な美の虜になった。この壺をきっかけに柳は朝鮮陶磁の美に目覚めると同時に、現地で蒐集を任せる協力者達を得た。正に二重の意味で「運命の出会い」だった。朝鮮で植林事業を行う傍ら陶器と木工の研究をする弟の巧の審美眼に、柳は絶対の信頼を置いた。柳は、一九二四年(大正一三年)に京城(現在のソウル)の景福宮内にある緝敬堂に設立した「朝鮮民族美術館」のコレクションについて、浅川巧に「君が生みの親だ」と感謝の手紙を送っている。
 ここで着目すべきは、柳は李朝の名品を日本に持ち帰って紹介するだけでなく、現地で保存しようと努力したことである。柳が朝鮮陶磁や木工の蒐集を、個人の道楽や責任の範疇を超えた、民族あるいは人類レベルでの仕事とみなしていた証ではないだろうか。


「朝鮮民族美術館」外観


「朝鮮民族美術館」展示室 一九二四年開館日
柳が多くの協力者の助けをえて、実現したコレクション。


 朝鮮戦争の混乱で、これらのコレクションの多くは行方不明になってしまったが、一部は日本民藝館に保存されており、今回の没後五〇周年記念展で見ることができる。
 中国の芸術が形、日本の芸術が色で迫るならば、朝鮮陶磁の魅力はその線にあると柳とリーチは述べている。
なだらかな曲線が作り出す、静かで、素朴な、見る者を包み込むような温かさのある美。
 柳が虜になって蒐集した朝鮮陶磁の多くは、現地の日々の生活のなかで使われていた雑器であった。それは、当時の常識であった「観賞の美」や「装飾の美」とは異なる性質である。朝鮮陶磁は、柳に「用の美」「普段使い」という生活に寄り添う新しい美の基準を指し示し、柳の人生を方向付けた。
 当時は日本だけでなく朝鮮国内でも、朝鮮陶磁に対する評価は低かった。そのため柳は批判も受けたが、貴重な李朝の品々を安価で蒐集できた。

「私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。」
(柳宗悦「朝鮮の友に送る書」『民藝四〇年』収録 岩波文庫、一九八四年)


4.柳の闘い
健康な社会と芸術を目指して

 柳が、これほど惚れ込んだ朝鮮陶磁を生み出した土地と人々に敬愛の念を抱いたのは自然なことだった。しかし、時代は柳の想いと逆行していく。
 一九一〇年に日本による韓国の植民地支配が始まり、一九一九年三月一日に朝鮮で独立を求めるデモが起こった。「三・一事件」もしくは「万歳事件」として知られており、日本軍は虐殺に近い粛清を行ったが、この事件について日本の文化人のほとんどが無関心だった。そんな風潮のなかで柳は、「朝鮮人を想ふ」と題した対朝鮮政策を批判する論文を五回に分けて『読売新聞』に発表した。
 一九二〇年、柳は朝鮮の人々に役立てる資金を集める目的で、兼子夫人の音楽会と自分の講演会を開くために朝鮮を訪れた。柳は現地で受けた温かなもてなしとその文化水準の高さを、「彼の朝鮮行」という三人称で語られる旅行記にまとめて雑誌『改造』に掲載した。「彼の朝鮮行」のなかで、柳は「今日、日鮮の間にわだかまる不幸は、ただただ情けに欠け涙を持たない行いの結果ではあるまいか」と嘆いている。
 一九二二年に朝鮮総督府が京城の光化門(王宮の正門)の取り壊しを決定した際には、「失われんとする一朝鮮建築のために」という文章を『改造』に寄稿して非難した。この文章は英語と朝鮮語に翻訳されて世論を動かし、光化門は移転されて今もソウル市の象徴的な建造物として残っている。こうした親朝鮮的な言動のため、柳は危険人物として当局から監視された。


「光化門」 朝鮮時代末期半
柳のペンによって破壊を免れた。


 柳は単なるコレクターではなく、蒐集した芸術作品の向こう側にいる人間、民族と文化の個性をしっかりと見つめていた。朝鮮陶磁を通じてその民族固有の美を認めていた柳にとって、植民地支配に伴う文化の教化と同化はおぞましい過ちだった。

「鋭敏な感情の所有者であるなら、どこに愛し得ない朝鮮の芸術があり人情があり得よう。
(中略)
その国の芸術を知る事が、やがてその国の人情を理解し、愛を呼び覚まし、敬愛を抱くに至る道ではないか。かくして人がその人情を愛する時、彼自らがその人情に愛されているのを見出すのである。芸術を理解する者には、あの黙する丘や静かに流れる河さえも真にその国の心を示すであろう。一国の文化をその自然や風土から全く分け隔てる事はできぬ。人情も風俗も習性も、またその工芸も建築も衣服も器具も、河も木も花もすべて一個の離れ得ない有機体であろう。」

(柳宗悦「彼の朝鮮行」『民藝』第六八七号収録 日本民藝協会、二〇一〇年)

 柳が朝鮮陶磁から導き出した民藝の「用美相即」は、健康な生活と平和な日常の上に成り立つ美である。人間の確かな毎日の営みのなかで作り出され使われることによって、初めて輝きを放つ。柳が暴力、略奪や人種差別を否定したのは、こうした不健全な社会から優れた工芸は生れないと考えていたからに他ならない。

「それにまた私一個人にとってこの民藝の問題から、大きな視野が開けて来ました。ある人は民藝品の如きは、非常に限られた特殊な問題に過ぎぬと云うかもしれません。しかし、そうではないのです。思えば思うほどそれは単に工藝の一問題ではなく、その本質問題であることを解するに至ったのです。しかもそれは美の問題に終わるのではなく、直ちに生活や経済や社会や、ひいては道徳や宗教の諸問題にも連関してきます。私は一個の民器に文化の諸問題の明確な縮図を見たのです。」
(柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫、二〇〇六年)

 柳は日本の植民地政策に批判的だったが、朝鮮人に武力をもって対抗することは薦めておらず、自身も暴力的な抗議活動には加わっていない。柳の冷静な理性と熱い宗教心が、ものごとをあるがままに見つめると同時に、偏った思想や過激な行動を抑制したのだろう。


5.現代のエスニックブームと柳の思想
物の向こうに民族の姿を見ているか

 自分のお気に入りの生活用品に囲まれて毎日を過ごそうというライフスタイルが、「エコ」や「ロハス」といっしょくたにされてメディアによって盛んに提唱されている。多国籍の雑貨で飾られたインテリアが、和モダンやアジアン・ミックスとして人気だ。アジアへ雑貨の買い物旅行にでかける人々も多くいる。
 一見同様に、柳も物の出自や世間の評価に囚われず、自分の直感に訴えかけた品を蒐集して、実際に身の回りに置いて使った。日本民藝館に展示されていた器は、柳家の食卓との間を行き来していたそうである。

「真に美しいものを選ぼうとするなら、むしろあらゆる立場を越えねばなりません。そうしてそのものを直接に見ねばなりません。立場は一種の色眼鏡なのです。」
(柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫、二〇〇六年)


朝鮮民家裏庭の漬物置場 一九三七年
こうした漬物瓶も、民芸品として柳のコレクションに加わった。


 柳とその仲間達は、今流行の「自分が良いと思ったものはなんでも取り入れる」という自由なライフスタイルの先駆者といえよう。しかし、その生き方の選択は思想の追求であり、当時は社会的立場や命を失う危険を伴うほどの強烈な自己表現であった。
 確かに、気に入ったカップやリネンを使うと豊かな気分になる。物を大事にすることは毎日の生活を丁重に過ごすことであり、自分を大切に扱うことに繋がる。そして自分を愛せる人間が、隣人を思いやることができる。だが実際には、自分にとって心地よい美を与えてくれる物から、それを作った第三者へ愛を感じる可能性を伝えている雑誌やテレビは稀である。それは器の使い手に、大きな想像力と世界観を持つ努力を要求するからだ。エスニックブームなのに「民族(エスニック)」への視線が欠けているのではないか。アジアンブームのなかで、雑貨を作ったアジアの人々については語られることはない。固有の民族の姿が不在のため、多国籍というより無国籍スタイルなのである。
 現代では、ドラマや音楽などポピュラーカルチャーの面における日韓の交流も盛んで、朝鮮に対して戦前の日本人のようなネガティブな先入観を持つ人々は少なくなった。武力ではなく文化的理解によってのみ民族の融和が図れると考えた柳の考えを、現代の社会は立証しているだろう。だが、偏見が弱まることと、無知が消えることはイコールではない。隣国の文化について、私達がまだ知らないことは多すぎる。
 独自の哲学と宗教観に基づいて民芸運動を展開した柳の美学の原点となった朝鮮陶磁を、没後五十周年にあたる今見直すことは、一連のブームに欠けている「民族そのものの美の姿」を己に問いかける好機ではないだろう。


取材協力:日本民藝館

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取材:冨久田純


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柳宗悦没後50周年記念関連イベント情報

柳宗悦没後50年・韓国文化院新庁舎オープン1周年事業 「柳宗悦 朝鮮とその藝術」展 

駐日韓国大使館・韓国文化院共催。日本民藝館の創始者・柳宗悦が、朝鮮工芸の紹介に情熱を燃やした1910年代から1930年代を、柳の写真アルバムや雑誌『工芸』の挿絵写真から作成した大型パネルを中心に、自筆原稿や出版物、そして柳によって蒐集された朝鮮時代の諸工芸品によって紹介。

会期:2010年6月9日(水)〜6月19日(土) 午前10時〜午後5時
休館日:日曜日
会場:韓国文化院ギャラリーMI(東京都新宿区四谷4-4-10)
入館料:無料

お問い合わせ:韓国文化院
TEL: 03-3357-5970 FAX: 03-3357-6074
E-mail:postmaster@koreanculture.jp
HP:http://www.koreanculture.jp/


柳宗悦没後50年・韓国文化院新庁舎オープン1周年事業 記念講演会「柳宗悦 に学ぶ−日韓文化交流の礎」 
日時:2010年6月15日(火) 午後1時〜5時
会場:韓国文化院2階 ハンマダンホール(東京都新宿区四谷4-4-10)
参加費:無料、定員270名(先着順)

基調講演「これからの日韓交流を考える」
映画上映「柳宗悦 美信一如」
記念座談会「日韓文化交流と柳宗悦」

お問い合わせ:韓国文化院
TEL: 03-3357-5970 FAX: 03-3357-6074
E-mail:postmaster@koreanculture.jp
HP:http://www.koreanculture.jp/


●浅川伯教・巧が愛した朝鮮美術 
朝鮮に暮らし、柳宗悦らに影響を与えた浅川兄弟。彼らが触れた陶磁器や木工品、貴重な自筆の日記や絵画資料を展示。兄弟の純粋な眼から朝鮮美術の魅力に迫ります。

会期:2010年6月12日(土)〜8月15日(日) 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日休館)
場所:高麗美術館(京都市北区紫竹上岸町15) 
入館料:一般500円/大高生400円/中学生以下無料

お問い合わせ:高麗美術館
TEL: 075-491-1192 FAX: 075-495-3718
HP:http://www.koryomuseum.or.jp/








柳宗悦没後50周年記念展・展示陶磁の一部


「染付秋草文面取壺」 一八世紀前半
浅川伯教が手土産として柳に渡した。この壺の美から受けた感動が、柳を朝鮮へと導いた。




「鉄砂雲竹文壺」 一七世紀後半
一九一六年、柳が初めての朝鮮旅行で購入した最初の朝鮮陶磁。




「辰砂虎鵲文壺」 一八世紀後半
柳が、朝鮮陶磁の収集品の中で一番好きな作品として挙げている。





「白磁文房具各種(水滴・筆筒・筆洗)」 全て一九世紀後半

こんな小さくて可愛らしい朝鮮陶磁もある。