シルクロードを西に向かえばそこは・・・シリアだった
(第5回 ハマの大水車)

                 記事:金丸知好













砂漠を越えて水車の町へ

パルミラを出た韓国製のバンの車窓には、しばらく一面の砂漠が広がっていた。しかしやがてそのなかに緑が混じるようになり、まもなく大地には目にも潤いを与える農地が多くを占めるようになっていった。ダマスカスとアレッポというシリア第1、第2の都市を結ぶハイウェイに合流した頃、砂ぼこりにまみれた乾いた大地の思い出は、たった数時間前だというのに遠くはるか彼方へと押しやられていた。ダマスカスとアレッポのほぼ中間に位置するシリア第3の都市ホムスの雑踏は、パルミラの古代遺跡がまるで幻であったかのように印象付けるのに充分な賑わいである。ところが、バンはホムスに立ち寄ることなくこれを黙殺し、郊外にある大きなレストランへ。シリアに来て4日、もうすっかり慣れてしまったが、午後2時からの遅いランチ(こちらではこれがスタンダードタイム)をゆっくり取る。食後、ハイウェイをさらに北上し、ハマという町に入ったのは、時計の針が午後4時を指そうとしていたころだったか。シルクロード・フェスティバルのコンボイは、ハマ市内を流れるオロンテス川に面した公園でいっせいに停車。

オロンテスのほとりでは、おそろしく巨大な水車が「ぎぃ〜〜〜〜〜、がががががが、ぎぃ〜〜〜〜〜」という音を立ててゆっくりと回転していた。川沿いにはもうひとつ、これまた呆れるほどの大きさを誇る水車が、やはりゆったりとしたリズムで音を立てながら回っている。いずれも直径20メートルはあるだろう。


ハマのノーリア(水車)
ビザンティン帝国の支配下にあった13〜14世紀につくられたもので、いまなお現役!




世界最大のノーリア

オロンテス川に面したハマは、紀元前3000〜2000年からすでにオアシス都市として栄えていたという古い歴史を持つ。砂漠を貫くシルクロードにあって、きれいな水を供給できることは都市の繁栄には絶対条件であり、ハマもその例に漏れず東西交易の中継地として殷賑を極めた。オロンテス川の恩恵を受けた農業で生きるハマであったが、その水面は非常に低いところを流れていたことで、水をくみ上げるのにはかなり苦労したという。そこで登場したのが、いま、目の前でまわっている水車(ノーリア)である。ハマが東ローマ(ビザンティン)帝国の支配を受けていた9世紀にノーリアがつくられ始めると、その数はどんどん増えていき、中世には農地のかんがい用に30以上のノーリアが現れたという。

私の目の前で回るノーリアもかなりの大きさだが、これよりも大きなものがある。オロンテス川沿いのさらに西にあるアル・モハンメディーエで、直径実に27メートル!ハマにノーリアが最も多く存在したという14世紀に建設され、いまなお現役の水車として世界最大である(※現在のものは1977年に建て替えられている)。そしてアル・モハンメディーエは国の誇りとして50シリアポンドにも登場している。ハマのシンボル、ノーリアは最盛期に比べると半減したが、それでも21世紀に入って17とも18とも言われる数が現役として活躍している。


世界最大級のノーリア
下にいる人々と比べると、その大きさがわかるはず。これでも世界最大ではないというから、すごい。



第3次中東戦争

ノーリアがビザンティン帝国時代から変わらぬリズムで音を立てながら回る風景。なんとものどかな空気が流れるハマはしかし、その牧歌的な情景からは考えられないような過酷な出来事を経験している。それも遠い昔のことではなく30年足らず前に。

ハマに血塗られた記憶を刻んだ出来事を振り返るには、少なくとも1967年までさかのぼらなければならないだろう。この年、イスラエルとアラブ諸国の間に第3次中東戦争が勃発した。アラブ側はイスラエルの前に大敗。ヨルダンが支配していた東エルサレムがイスラエルによって占領され、現在もなお続く中東和平実現のための最大の難関・エルサレム帰属問題の起源となった(※イスラエルは東エルサレムを一方的に自国領に併合し、80年に基本法で「エルサレムはイスラエルの不可分の首都」と定めたが、国際社会の承認は得られていない)。イスラエルが占領したのは東エルサレムだけではなかった。アラブ側に立ってイスラエルと戦ったシリアは、ゴラン高原という肥沃な大地を失ってしまった。イスラエルは東エルサレムと同様に、ゴラン高原の併合を宣言(これも国際社会から認められていない)し、いまなおシリアとの間で領有権が争われている。イスラエルとシリアなどアラブ諸国が再び戦火を交えた第4次中東戦争(1974年)の停戦後、国際連合は国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)をゴラン高原に派遣し、停戦合意の実施を監視し続けている。なお、96年からは日本も自衛隊をゴラン高原のUNDOFに派遣している。



ムスリム同胞団

第3次中東戦争での大敗は、アラブ諸国に計り知れない衝撃を与えた。日本の報道でもよく耳にする「イスラム原理主義」がイスラム世界に広がるきっかけの一つにも挙げられるという。ガイドブック「地球の歩き方ヨルダン・シリア・レバノン」の316ページに「イスラム原理主義」についての説明がある。ここでは「1979年に起こったイラン・イスラム革命以降、イスラム圏の各地でイスラムを復興させようというさまざまな運動が起こった。」と書き出し、「このイスラム復興運動が各地に広がった大きな理由として、1967年の第3次中東戦争でアラブ諸国が大敗したことが挙げられる。なぜイスラム教徒が、ユダヤ教徒の国イスラエルに負けたのか。それに対し、多くの信者は『自分たちが、コーランの教えを忠実に守らず、あまりにも世俗化してしまったために神の怒りを買ったのだ』と考えた。イスラム復興運動は、そのような自己反省から始まった。」と続けている。

最古のイスラム原理主義組織は1928年にエジプトで結成された「ムスリム同胞団」だという。ムスリム同胞団はエジプトだけでなく、国境を越えてシリアでも膨れ上がっていった。シリアの人口の85%がイスラム教徒といわれるが、そのうち70%をスンナ派(イスラムの宗派では最大勢力)が占めている。このスンナ派の支持を得て、シリアでのムスリム同胞団は勢力を広げていったのである。



1982年ハマの悲劇

第3次中東戦争はシリアの政治体制をも大きく揺るがした。この戦争の4年前、アラブ社会主義バアス党(以後、バアス党)はクーデターで政権を握った。しかし第3次中東戦争の大敗と、その戦後処理を巡って対イスラエル強硬派と慎重派の対立が表面化した。慎重派のリーダーにはアサド国防相がいた。1970年、アサドは無血クーデターで権力を握り、翌年に大統領に就任する。このアサド大統領をはじめ軍部やバアス党の有力者はアラウィー派の出身者である。アラウィー派はイスラム二大勢力のシーア派から分派したといわれるが、はっきりとしたことはわからない。現在のシリアでも人口の12%を占めるに過ぎない。そしてシーア派と対立するスンナ派から見れば、シーア派から枝分かれしたウラウィー派は異端でしかない。ところがアサド政権の成立により、少数のアラウィー派が実権を握り、絶対多数のスンナ派を支配するという構造になった。アラウィー派が幅を利かすアサド政権に反発するムスリム同胞団の反政府活動は1970年代に激しさを増す。それはシリア政府やバアス党要人の暗殺・誘拐、政府施設への破壊活動といった過激なテロ活動として現れた。ムスリム同胞団の拠点となっていたのが、シリアでもイスラム色が濃厚で、スンナ派の聖地とも言うべきハマであった。そして1982年、ハマでムスリム同胞団による大規模な反政府暴動が発生する。これを機に、アサド政権はムスリム同胞団の壊滅を決意。ハマに政府軍を派遣し、大がかりな空爆を加えた。ノーリアのあるのどかな古都ハマは、古い歴史を持つ大モスクや旧市街なども含めて灰燼に帰した。ムスリム同胞団は壊滅し、以後の活動はすっかり鳴りを潜める。痛ましいのは一般のハマ市民の大多数が政府軍の攻撃の巻き添えで死傷するか、シリア当局に逮捕されて拷問・処刑されたことであった。ハマ市民の犠牲者は1万5000から2万、それ以上との報告もある。

1982年の事件から、およそ30年の歳月が流れた。ハマは復興しているように見える。ただ、私たちシルクロード・フェスティバル参加者は、美しきオロンテス河畔の公園という一点に滞在しているに過ぎず、その痕跡を確かめようもなかった。ただ、ビザンティンの昔から回り続けるノーリアは、ハマの悲劇を見ていたであろう。しかし歴史の証人ノーリアは、事件について一言も発することなく、「ぎぃ〜、ががががが〜」と相変わらずのリズムを奏でるだけである。



警官が民衆に対して高圧的な理由

ハマの町が暮れなずんできた頃、シルクロード・フェスティバスのコンボイはいっせいに移動を始めた。といっても、ノーリアを臨む河畔の公園からほんの少ししか離れていない中心街にある隊商宿の前で停車するのだが。
厳密に言えば、ここはかつての隊商宿であった。そしてきょうからハンディ・クラフト・マーケットとして生まれ変わる。

そのオープニングを祝って、隊商宿跡の前ではシリアの民族舞踊がにぎやかに繰り広げられていた。私を含め、シルクロード・フェスティバル参加者たちは、その模様をカメラやビデオにおさめていた。この舞踊を見ているのは、私たち異邦人だけではなかった。我々が到着したとき、そこにはすでに黒山の人だかりができていたのである。この人たちはハマの市民であった。年に一度のシルクロード・フェスティバルで、ハンディ・クラフト・マーケットのオープニングセレモニーが行われるとあって、物珍しさも手伝って多くの人々が押しかけていたのである。


隊商宿跡の前で繰り広げられる舞踊

そうした群集を、警官が見た目にもかなり高圧的な態度で追い払い、踊りから遠ざけるようにしていた。これはシリアという国では、別段珍しい光景ではない。首都ダマスカスでも軍人や警察は民衆に対してとても居丈高であった。こうしたことは独裁政権の国ではしごく当然なのかもしれない。とりわけ人口比12%とマイノリティーのアラウィー派が支持基盤となっている権力者側が、この国の70%を占めるスンナ派信者が多い被支配層を服従させるために、マジョリティーの民衆に対して必要以上に威厳を保っておかねば現政権の存在が危うくなるからかもしれない。


それを見ようと群がるハマの人々と彼らを踊りから遠ざけようとする警官



締め出された市民たち

さて、にぎやかな舞踊はそのまま隊商宿跡の扉をくぐって内部に吸い込まれていく。私たちシルクロード・フェスティバル参加者たちも、踊りについて中に入るようにガイドのS君から促された。それに続いて、舞踊を取り巻くように見学していた市民たちも扉に向かって殺到しようとしたが、警官隊によって阻止されてしまう。舞踊隊が奏でる陽気な音楽と、私たちの背後から巻き起こる群集の怒号が交じり合う中、隊商宿のだだっ広い中庭へ入る。このセレモニーに招待された者すべてが入ったことが確認されると、隊商宿の重い扉は閉ざされた。中庭に入ると、舞踊の激しさはますますエスカレート。ファイヤーダンスが繰り広げられ、そのたびに音楽のボリュームもテンションもクライマックスに達していく。私はたまたまシルクロード・フェスティバル参加者というだけで、この素晴らしいパフォーマンスを見ることができたが、隊商宿の中に入れてもらえなかったハマ市民たちは、扉の外から漏れてくる音楽の高まりで舞踊の大団円を想像するしかなかった。これが日本にあるようなインドアのコンサートホールならまだしも、オープンエアーの隊商宿跡だっただけに、音はどうしても風に乗って外の人々の耳に届いてしまうのである。たしかにあれほどの大群衆に中庭を開放したら、収拾のつかないことになるのは充分に予想できるが、なんだか申し訳ないような気もした。


ファイヤーダンス!

舞踊が済むと、中庭を囲む回廊で「グルメ・フェスティバル」。これはトルコ、イラン、インドなどシルクロード沿いにある地域の料理をビュッフェ形式で参加者に振舞うというもの。要するに今夜のディナーはここで取る、ということである。さまざまなエスニック料理が手軽に味わえるというのはうれしいことだったが、スパイスのきいた料理が多いこともあって、すぐにのどが乾いてきた。私はS君に「飲み物はここにはないの?」と尋ねたところ、「表の商店で買ってくるしかないね」とのこと。そこで、隊商宿跡を出て散歩がてらにハマ市内に飲み物を買いに行くことにした。


グルメ・フェスティバルで並んだシルクロード諸国の料理
画像はインド料理のコーナー。どうせなら、チャイも置いてほしかった・・・。



ハマの小さな暴動

ところが、扉の向こう側、つまり隊商宿の外側の様子がどうもおかしい。重い木製の扉をドンドンとたたく音がやまない。扉の向こうからは怒号とも叫び声ともつかぬ音が響いてくる。言葉は理解できないが「開けろ!開けちまえ!」というニュアンスのようで、それがやがて合唱のかたちをとってきた。中庭にいる警官隊が警戒のため扉の前に集まり始めたそのときだった。ドゴォ!という音とともに扉が左右に開き、それとともに群集が中庭になだれ込んできたのだ。ワーッ!という喚声と一緒に群集が突進してくる。すわ、1982年以来の「第2のハマ暴動」か!?

よく見ると、なだれ込んできた人々のほとんどが幼い子供たちであった。中庭では警官隊と子供たちの鬼ごっこがしばらく繰り広げられた。数分後、子供たちは警官たちによって扉の外に放り出され、再び扉は閉じられた。こうしてミニ暴動の幕はあっけなく閉じた。ところが、である。どうも先ほどまでは姿がなかったはずの小さな子供たちが、残りも少なくなってきた各国の料理をムシャムシャと食べている。明らかに扉を破って中庭に侵入した子供である。そしてまんまと警官の目を盗んで、特別な夕食にありつくことに成功したのである。そしてあれほど威圧的だった警官隊も、もう面倒くさくなったのか、小さな侵入者たちの振る舞いを見て見ぬふりをしている。

その後、中庭ではミュージカル・コンサートが催された。シリア・ヨルダン・イエメン・イラク・トルコ・スペイン・チュニジア・インド・中国という各国のミュージシャンが、たとえばインド人ミュージシャンがシタールなどと、それぞれの民族楽器を演奏した。もちろん、小さな侵入者たちもちゃっかり前列のほうでコンサートに聴きいっている。そのなかの幼い女の子が、こちらをしげしげと眺めている。どうやら東洋人が珍しいようだ。私がカメラを向けると、少女はニコリと微笑んだ。そのエキゾチックな顔立ちに、奏でられる音楽とあいまって、自分はいまシルクロードに立っていることを実感させられた。そして美しい音色はハマの夜空に溶けていった。



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シリア人カップルのランチタイム
2人が頼んだのはピザ。そしてコーラ。コカではなくペプシであった。







シリアポンド札に印刷されたノーリア
50シリアポンドは日本円だとおよそ100円。かなり使い古されたお札だったが、右にあるノーリアはくっきりしている。







シリア国営テレビの女性スタッフ
シルクロード・フェスティバル・ツアーにはシリア国営テレビのクルーが同行し、その模様を毎日撮影、中継していた。私も彼女にインタビューを申し込まれたのだが、英語に自信がないのでお断りした。







ハマのアイスクリーム売り

シリアのアイスクリームは甘くて美味しい。そして男女の別なくシリア人はアイスクリームが大好き。アイス売り男性の背後にあるのはノーリアからくみ上げた水を農業用水に運ぶ水道橋。






ミュージカル・コンサートのクライマックス
各国のミュージシャンが歌い奏でる中、シリアの民族舞踊が披露される。それを見守るようにバッシャール・アサド現大統領の肖像画が・・・。1970年のクーデターで政権を握ったのは現大統領の父ハーフェズ・アル・アサド。彼が2000年6月に死去した後、次男のバッシャールが大統領を継承。アサド政権は父子によって40年間維持されている。