シルクロードを西に向かえばそこは・・・シリアだった
(第4回 パルミラからバグダッドへ愛をこめて)

                 記事:金丸知好













ナツメヤシの町

旧市街を出て、ヒジャーズ駅の前を横切ってホテルへ戻ろうと夜のダマスカスの街を歩いていたときのこと。ホテルへの道を確認しようとしてガイドブックの地図を眺めていたら、「May I help you?」と声をかけてくる人がいる。この若いシリア人男性はダマスカス市内のハイスクールで英語を教えているという。私は彼と話しをしながらホテルまで歩くことになった。英語教師は「シリアではダマスカスのほかにどこへ行くんですか?」と尋ねてきた。「明日はパルミラへ行きます」と答えると、「ああ、タドモールですね」という返事。


1980年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定され、シリアを代表する古代ローマ遺跡として知られるパルミラだが、シリアで話されるアラビア語での地名はタドモールである。ここはかつてナツメヤシの産地として有名なオアシス都市であった。アラム語やヘブライ語など中東で話される言語ではナツメヤシのことを「タマール」といい、タドモールはこれに由来しているようだ。いっぽう、古代地中海世界の共通語・ギリシャ語ではナツメヤシのことを「パルマ」と呼んだことで、このオアシス都市は古代ギリシャ人やローマ人からは「パルミラ」と呼ばれ、それがいまや世界的にも通用するようになった。



バグダッド・カフェ66

翌朝、私は韓国製のバンに乗ってパルミラに向かっていた。喧騒のダマスカスを抜けると、やがて360度見渡す限りの荒野が広がった。一面の荒野はまもなく美しいデューン(砂丘)も持つ砂漠へと変わっていく。砂の海を切り裂くように伸びる一本の道の上を、私たちを乗せたバンを含めたシルクロード・フェスティバルのキャラバンが疾走している。ダマスカスを出てから2時間ほどたっただろうか。砂漠の真ん中にこつ然と1軒のカフェが現れ、シルクロード・フェスティバル参加者の車が次々とその前に停車した。カフェの名は「バグダッド・カフェ66」。カフェの中にあった地図を見ると、バグダッド・カフェ66はダマスカスとパルミラを結ぶハイウェイのちょうど中間地点に位置しており、カフェからパルミラ方面に走って、まもなく交差するハイウェイを右折してシリア砂漠をさらに直進すればイラク国境にたどり着く。そういえばパルミラに向かうハイウェイにある標識には、南方のボスラへ向かうハイウェイに「JORDAN」(ヨルダン)とあったように、オリエント(東方)方面に「IRAQ」と書かれていた。


日本に暮らしていても、イラクという国名やその首都バグダッドという地名はテレビや新聞、インターネットなどの報道で目にする機会は多い。しかし残念ながらそのほとんどが戦争やテロという文字を含んだ血なまぐさい性格のものであり、そして記事に触れる機会がたとえ多かったとしても、日常生活から遠く離れた「別世界の出来事」としてとらえている人がほとんどであろう。そんなイラクが、あと200キロほどの近さにある。砂丘を眺めつつシャーイ(紅茶)を飲むといった平和な時間がゆったり流れるカフェからは、戦争やテロで多くの人命が失われていく隣国の日常などとても想像できない。しかし同じ空の下で、この瞬間にもイラクでは悲劇が繰り返されているかもしれないのだ。標識にあるIRAQというアルファベット4文字。そしてBAGDADという地名を冠したカフェ。これらだけでも、イラクを身近に感じることはできる。それは東京の自室でネットのニュースを眺めているだけでは決して得られない感覚だった。30分ほどの小休止が終わり、シルクロード・フェスティバルのキャラバンは「現代のオアシス」であるカフェを後にして、パルミラへと向かう。やがてイラク国境へとつながるハイウェイが右手に現れた。目を凝らしてその先を見るが、もちろんバグダッドの蜃気楼さえも見えい。私を乗せたバンはパルミラに向けて直進し、イラクへのハイウェイは後方へと消えていった。



シルクロードに栄えたオアシス都市

「バグダッド・カフェ66」でシャーイを飲むために財布を取り出したときのことである。ダマスカス空港で両替した500シリアポンド札が出てきた。シリアでは1000ポンドに次ぐ高額紙幣であり(※連載第2回に登場したシリア出身のローマ皇帝ピリップス・アラブスが描かれているのは100ポンド紙幣で、その上に200ポンド紙幣、そして500ポンド紙幣がある)、日本円にすれば500ポンドは1000円に相当する。その表面中央には、これから訪れるパルミラ遺跡の記念門が描かれている。そしてその右側には女性。この女性はゼノビア女王。古代パルミラ王国を語る上で、決して外すことのできない人物である。


その前にゼノビア女王が登場するまでのパルミラの歩みについて触れておかねばならない。パルミラは地中海とそれに面したシリアやフェニキア、そしてアラビア半島や今のイラクがあるメソポタミアさらにペルシャ(イラン)を結ぶ位置にあった。パルミラはシリア砂漠を横断するキャラバンにとって極めて重要なオアシス都市であり、やがて紀元前1世紀からローマと中国を結ぶシルクロードの中継都市として繁栄を遂げることとなる。


西にローマ帝国、そして東にパルティアという二大勢力に挟まれたパルミラは、両者の対立を絶妙に利用する。ローマの属州になりながらも最低限の独立を守り、シルクロード交易の関税収入で経済力を蓄える。そしてペトラ(現在はヨルダン領内にある。映画「インディ・ジョーンズ」の舞台としても知られる世界遺産)が2世紀にローマに併合されると、その通商権をそっくりそのまま引き継いだことでパルミラは最盛期を迎えた。パルミラ遺跡に現存するローマ建築物は、この黄金時代に建設されたものが多いという。


さて、連載第2回でシリア南部シャハバ出身のローマ皇帝ピリップス・アラブスについて触れた。彼が皇帝になったのは「軍人皇帝時代」という、過去のローマの栄光がほとんど失われ、帝国滅亡への道を歩みだす大混乱のさなかであった。軍人皇帝時代に乱立した皇帝のほとんどがそうであったように、ピリップス・アラブスが非業の死を遂げたのは249年のこと。その4年後に帝位についたのがウァレリアヌスである。



パルミラのクレオパトラ

ところが260年にウァレリアヌスがササン朝ペルシャ(226年にパルティアを滅ぼして独立)との戦いに敗れ捕虜となると、シリア属州総督だったオダエナトゥスはパルミラを本拠として、ローマ帝国からペルシャ国境の防御を任された。こうしてローマから半ば独立したオダエナトゥスを権力者とするパルミラ王国が出現する。267年にオダエナトゥスが甥に暗殺されると、オダエナトゥスの妻ゼノビアは、幼少の息子ウァバラトゥスを後継者としてパルミラの混乱を収拾。自らはその後見人として実権を握ることになる。


ゼノビアがパルミラに君臨した当時、軍人皇帝時代という大混乱期にあったローマ帝国の威光は、辺境にはもはや届かない状態であった。ローマの弱体化をついてゼノビアはローマ帝国領であるシリア、パレスチナ、カッパドキア、エジプトを次々と手中に収めていった。古代エジプトといえばローマに滅ぼされた悲劇の女王クレオパトラ(紀元前70〜30年)を思い出す人も多いはずだ。クレオパトラの死から300年後、ゼノビアは「エジプトの女王」と自ら称し、クレオパトラの後継者を自認したという。また、ゼノビアはクレオパトラのような美貌を誇ったとも言われ「戦士なる美の女王」とも呼ばれた。


しかし、パルミラ王国の絶頂期は短かった。270年にローマ皇帝となったアウレリアヌスは、長年悩まされ続けてきた北方から侵入する異民族を退け、次に東部国境に目を向けた。アウレリアヌスはパルミラ王国に降伏を勧告したが、ゼノビアはこれを拒絶。こうして271年、アウレリアヌスはパルミラ遠征を開始した。息子ウァバラトゥスはローマ軍に敗れて戦死し、ゼノビアはパルミラに立てこもる。ローマ軍はパルミラを包囲し、籠城戦は長期にわたった。ペルシャの支援に頼ろうと考えたゼノビアはパルミラを脱出するが、ユーフラテス河畔でローマ軍に捕らえられ、パルミラ王国はここに滅亡した。パルミラ住民はローマ軍の撤退後に反乱を起こしたが、戻ってきたローマ軍によって鎮圧。アウレリアヌスは見せしめのため、ローマ軍兵士にパルミラ略奪を許可する。こうしてシルクロードの交易で空前の繁栄を遂げたパルミラは廃墟と化し、その栄光は二度と戻ることはなかったのである。


私たちはパルミラ遺跡の手前にあるホテルにチェックインし、午後2時から遅い(シリアではこの時間からがランチタイム)昼食をとった。食後に少しだけ午睡をとって、暑さもひと段落した夕方になってからパルミラ遺跡を見学した。まずはローマ属州時代(1〜2世紀ごろ)に建設されたベル神殿へ。ベルとは豊穣の神を意味する。ベル神殿の真向かいにはローマ記念門があり、その先には列柱道路が伸びる。左にはメソポタミアの神を祀ったナボ神殿、右手にはローマ浴場の跡がある。さらに進めば円形劇場が完全な姿で残っており、その周辺には元老院の議事堂や取引場(アゴラ)の廃墟が広がっていた。そして列柱道路はいったん4本の石柱によって成り立つ四面門で中断する。ゼノビア女王の短かった栄華の跡は、1740年の歳月を経て、その崩壊直後の風景のまま残されている。



「世界の修復者」とイラクに思いを馳せて

パルミラ王国を滅ぼした皇帝アウレリアヌスは3つに分裂していたローマ帝国の再統一に成功した。それを記念して274年、ローマで凱旋式を行った。この式典で征服した各民族とともにゼノビアも市中を引き回されたのである。しかし、ゼノビアは黄金の鎖で自らを縛り、その美貌と威厳をローマ市民に示した。その姿に捕囚の惨めさはなく、かえってパルミラという失われた王国の豊かさを印象付けたであろう。その後、ゼノビアはローマ近郊に高級な別荘を与えられ、華やかな余生を送ったという。戦いには敗れたが、その後は自殺したクレオパトラとは、まったく正反対の人生だった。


いっぽう、パルミラを征服したアウレリアヌスについても触れておきたい。ローマ帝国の威厳を取り戻したアウレリアヌスは元老院から「世界の修復者」の称号を得た。ゼノビアをローマ市民の見世物にした凱旋式や、世界の修復者の栄誉を得た274年が彼にとって人生の絶頂であった。しかしその翌年、ペルシャ遠征の途上で部下に暗殺されてしまう。敗者のゼノビアがその後送った人生とは対照的な、あっけない最期であった。


パルミラの廃墟を歩きながら、私は歴史の非情さ、そして不思議さを感じざるを得ない。そしてそれははるか遠い古代の物語の中だけに生きるものではない。パルミラからさほど遠くないイラクでは、イランに誕生したイスラム革命政権を倒すためにサダム・フセインという独裁者をアメリカが支援した。イランとイラクの8年間にわたる戦争が終わると、サダムはアメリカにとって手に負えない怪物に育っていた。1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦争という二度にわたるアメリカの「イラク征伐」でサダム政権は崩壊し、独裁者は処刑された。しかしイラクに残されたのは「現代世界の修復者」を名乗るアメリカに対する憎しみと、無実の市民を巻き添えにするテロリズムであった。そして勝利者であるはずのアメリカは、イラクの泥沼からいまだ逃れられてはいない。


パルミラ遺跡を眼下に眺めることができるアラブ城砦から、落日を眺めた。


バグダッドにでも同じ夕陽が見えているはずだ。バグダッドをはじめイラクの人たちは、どんな気持ちで沈む夕陽を見ているのか。明日も太陽が見ることができるかどうか、それすらわからない境遇で。



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バグダッド・カフェ66から砂丘を望む
ダマスカスとパルミラのほぼ中間地点の砂漠のど真ん中に「バグダッド・カフェ66」はある。ここからパルミラ方面に進むと、今度は「バグダッド・カフェ55」という店があった。





バグダッド・カフェ66でシャーイを
カフェではシャーイ(紅茶)以外にも、絨毯やアクセサリーなどみやげ物も売っていた。店内にはなぜか各国の紙幣が貼られていて、日本円(野口英世の肖像が描かれた紙幣)もあった。





バグダッド・カフェ66所在地
カフェのテーブルクロスにはシリア全土の地図とカフェの所在地が描かれている。ここからイラクはそれほど遠くない。




500シリアポンド札
私の財布に1枚だけ入っていた500シリアポンド紙幣の表面。中央にあるパルミラ遺跡の記念門はこの6時間後にくぐることになる。右に描かれているのが「パルミラのクレオパトラ」ことゼノビア女王。なお、この500ポンド札は記念門の正面にあるベル神殿でお土産を買ったときに財布から去っていく運命にあった。





ベル神殿の母と子
ベル神殿を観光していたシリア人の母と赤ん坊。赤ちゃんはすやすや眠っていた。





パルミラ遺跡にいた少女たち
シリアの少女たち。年齢をたずねたところ、13歳と14歳とのこと。質問には恥ずかしげに答えていたわりには大人っぽい。




ラクダはらくだ〜
記念門の付近には観光用ラクダがいっぱい。客引きの男たちは私が日本人だとわかると「ラクダはらく(楽)だ〜!」というオヤジギャグを見事な日本語でかましてきた。日本からは縁遠いイメージのシリアだが、パルミラ遺跡には多くの日本人観光客が来ているようだ。





列柱道路とアラブ城砦
ゼノビア女王が捕らえられた後、ローマ軍によって略奪されて廃墟と化したパルミラ。その背後の岩山(150メートル)の上に建つのがアラブ城砦。これは17世紀に周囲の警備のために建設されたもの。





アラブ城砦からみた落日
美しい夕陽が沈もうとしている。ここでサンセットを眺めるのはパルミラ観光の定番のようで、シルクロード・フェスティバル参加者全員はもちろん、遺跡を訪れた他の観光客もみなここに登ってきていた。




のどかなパルミラ中心街
現在のパルミラはゼノビア女王時代の終わりを告げる廃墟に隣接してつくられたオアシス農業都市。人口はおよそ3万人で、遺跡観光ビジネスが大きな収入源。メインストリートには観光客用のホテルやレストランなどが軒を並べているが、ダマスカスの喧騒に比べればのどかな地方都市といった趣だ。