シルクロードを西に向かえばそこは・・・シリアだった
(第2回ヨルダン国境で古代ローマにタイムスリップ)

                 記事:金丸知好













ヨルダンへと続くハイウェイ              


ヒジャーズ鉄道博物館を出、私とガイドのS君を乗せ、チョイ悪オヤジのイタリアンに似たドライバーが運転する韓国製のバンはシリア南部に向けてハイウェイを疾走していた。ハイウェイといっても日本のような高架の高速道路ではなく、荒涼たる大地を切り裂くように伸びる一本道である。そこには料金所もETCレーンもなく、すれ違う車の数も少ない。昨日までいた国で議論となっている1000円とか無料化といったせせこましい話は、このシルクロード国家には何の関係もない話である。車窓に展開するのも、まさに無味乾燥という言葉がふさわしい乾いた大地がひたすら広がっている。ところどころにオリーブの木々が茂っていることが、ここは地中海世界なんだ、と思い出させてくれる。しかしそれはこの土地ではごく少数の面積を占めているに過ぎない。


「見ろ、あちこちにジプシー(ロマ民族)のテントがあるだろ」


S君は窓の外を指差した。その先には荒野のど真ん中に、身を寄せ合うように張られた粗末なテント。こんな土地でどうやって水を確保するのだろうと思っていたら、水を供給するタンク車がジプシーのテント村のそばに必ず停まっていた。ところでアラブにはベドウィンという遊牧民が存在するが、ジプシーとは別の民族である。その違いについて尋ねたところ、S君の答えは明快だった。

「ベドウィンは定住しているけど、ジプシーは定住していない、さまよえる民だよ」

ハイウェイの標識にはJORDANとある。シリア南部の国境を越えるとそこはヨルダン・ハシミテ王国となる。四方を海に囲まれた日本のハイウェイでは決して見られない標識である。もう少しでヨルダン領、というところで私たちのバンはハイウェイを左折し、まもなくボスラという町に入った。ダマスカスから1時間半の道のりであった。


世界で最も完全な姿で残る古代ローマ劇場


ダマスカスから150キロメートルほど離れた都市ボスラ。この国境の町を世界的に有名たらしめているのは、巨大な古代ローマ劇場に他ならない。「世界で最も完全な姿で残る」と形容されるボスラのローマ劇場は、周囲のローマ遺跡とともに『古代都市ボスラ』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されている。


ボスラがローマ帝国に征服されたのはいまから1900年ちょっと前の西暦106年のことである。ノヴァ・トラヤナ・ボストラと改名されたボスラは、ローマのアラビア属州の州都となった。ヨルダンさらには紅海へ向かうトラヤヌス街道は、地中海とインドおよび中国を結ぶ古代ローマ時代の世界的大動脈だった。ボスラは世界の交易路が交わる文明の十字路となり、空前の繁栄を遂げることとなる。


ローマ劇場が建設されたのは、ボスラ黄金時代ともいえる2世紀後半。幅102メートル、6000人が着席できる37段の客席。それに加えて3000人分の立席があったと伝えられている。急傾斜の観覧席からはどこに座っても舞台がよく見え、実際に現代でも演奏会などで利用されている。最上段からローマ劇場の全貌を俯瞰した私は、しばしローマ帝国の栄光に思いを馳せた。私が初めてローマを訪れたのは1999年1月だった。そのときトレヴィの泉に背を向けながら「今後もご縁がありますように」と5円玉を投げ込んだかいもあってか、ローマを5度も訪れるという機会に恵まれた。その間、さまざまなローマ遺跡を巡ったが、ボスラの古代劇場のような保存状態を誇るものはほとんどなかったといってもいい。そして、古代ローマに思いをはせるとき、ローマ市内にある数々の遺跡に比べてもボスラのほうがさまざまな情景がまるで映画のように浮かんでくることに驚いた。その理由としてローマのように観光客が世界中から押し寄せ、喧騒に包まれていないという条件もあるようだ。乾燥した地中海性気候という要因のほか、シリアが世界的にマイナーな観光地だったのも完全な保存状態を維持するのに役立ったとも言えよう。


ただ、古代劇場を去る直前、ボスラはちょっとした喧騒に陥った。傾斜が急な石の観客席からシリア人の女の子が転げ落ちたらしい。劇場の前には救急車が急行し、この子を抱きかかえる男性の白い服はところどころ赤く染まっていた。救急車のサイレンが鳴り響く中、今度は私たちシルクロード・フェスティバルに参加する海外ゲストの護衛をするパトロールカーが続々と集まってきた。いつの間にかフェスティバル参加の50カ国200人のゲストは古代劇場に一堂に集められていて、ここからはパトカーの警護のもとコンボイを組んでシリア南部遺跡を巡ることになるのだ。各国ごとに車は分けられ、それぞれに通訳がついている。ちなみに私が乗っている韓国製バンには日本の大新聞社のカイロ支局の記者2名、旅行代理店の女性社員1名、そしてフリーランス代表(?)として私の計4名が日本チームとして乗り込み、その通訳をつとめるのがS君(日本語は話せず英語で通訳する)である。


シリアが生んだローマ皇帝


100シリアポンド紙幣(日本円にして約200円)の表面中央には、ボスラの古代ローマ劇場が印刷されている。そしてその右となりに古代ローマ人と思しき男性の肖像がある。この人物はピリップス・アラブス。ボスラからさほど遠くないシャハバで204年に生まれ、244年にシリア出身として唯一のローマ皇帝にのし上がった男だ。当時、ローマ帝国は軍人皇帝時代(235〜284年)というハチャメチャな時代の渦中にあった。軍人が自分の軍事力をバックに皇帝になるも、すぐに反乱が起きて殺されるという大混乱が半世紀も続き、ローマ帝国の弱体化が進んだ。ピリップス・アラブスも軍事クーデターでローマ皇帝になり、248年にはローマ建国1000年祭(紀元前753年に建国とされる)を大々的に催したことで歴史に名を残した。しかしそのわずか1年後、部下の反乱にあい、ピリップス・アラブスは非業の死を遂げるのであった。


ボスラの北にあるスウェイダーという町には、この地方で産出する黒玄武岩(ボスラの古代劇場もこれでつくられている)を模した外見の博物館がある。アサド前大統領の肖像画と胸像に迎えられ、内部を見学するとそこはピリップス・アラブに関連した古代ローマの遺産がこれでもかと展示されていた。余談になるが、100シリアポンド紙幣の裏面には午前中に見学したヒジャーズ鉄道の列車と、当時のダマスカス駅がデザインされている。つまりこの日は「100シリアポンド(の絵柄を訪ねる)の旅」であったとも言える。


スウェイダー博物館への移動中、アサド現大統領とベネズエラのチャベス大統領が握手をする大きな看板を見かけた。片やテロ支援国家(と一方的に決め付けられた)シリアの指導者、そしてもう一人は「アメリカの裏庭」だと思い込んでいた南米で反アメリカを公言するリーダー。アメリカにとってはなんとも面白くない看板であろう。


ピリップス・アラブスはわずか5年ではあったが世界の中心ローマの皇帝だった。そして現代のローマ帝国はどこかと尋ねられれば、「それはアメリカ合衆国だ」と答えても疑う者はいないだろう。しかしピリップス・アラブスが帝位についたローマ帝国が、栄光に満ちあふれた強大なローマ帝国ではもはやなかったように、21世紀のアメリカも「現代版・軍人皇帝時代」に足を踏み入れてしまっているのではないだろうか。とりわけブッシュ前大統領の8年間は、その傾向が濃厚だった。


その時代にピリオドを打つべく登場し、アメリカ国内のみならず全世界からも熱い期待を持って迎えられたのが、バラク・オバマ大統領であった。ブッシュ親子を軍人皇帝としたなら、オバマは帝政となる以前の共和政ローマの民主的な指導者にたとえ得るかもしれない。私がピリップス・アラブの栄光と挫折に思いを巡らせつつシリア南部の遺跡を巡っていたこの日、偶然にもオバマ大統領はノーベル平和賞を受賞した。しかし、アフガンそしてシリアの隣国イラクでの泥沼はいっこうに解決せず、アメリカに端を発した世界同時不況も出口が見えない。世界の期待は色あせ、失望へと変わりつつある。


スウェイダー近郊にあるカナワットの遺跡を見た。ローマ帝国は新たに版図に加えたアラビア属州の統治のために、ローマに忠誠を誓う10の都市同盟「デカポリス(デカは10、ポリスは都市)」を建設した。デカポリスには先述のボスラも含まれているが、ここカナワットもそのひとつであり、当時繁栄した頃の遺跡が残っている。黒玄武岩で建てられた宮殿や神殿は荘厳さを感じさせるが、同時に廃墟と化したカナワットの風景からは、和風に言えば「つわものどもがゆめのあと」または「諸行無常の響きあり」とも思わざるを得ない。あの強盛を誇ったローマ帝国ですら滅びた。第2次大戦後、アメリカと東西冷戦で対峙した超大国ソ連も消滅した。そしていまや唯一のスーパー・パワーとしてのアメリカは・・・。オバマへの期待と熱狂が完全に冷め切ってしまったとき、現代のローマ帝国は古代ローマのように衰亡への坂道を転がり落ちてゆくのだろうか。カナワットの遺跡を歩きながら、ぼんやりと思った。



シリアの小ローマに咲くモザイク


シリア南部遺跡めぐりの締めくくりはシャハバという小さな町だった。ピリップス・アラブスが生まれた土地であり、彼は皇帝になるとここにピリッポポリスと自分の名を冠した都市建設を開始した。彼の在位中に建設された神殿、劇場、浴場などが現存し、シャハバの町そのものがピリップス・アラブスのローマ遺跡である。


しかしなんといってもシャハバの最大の見どころはモザイク博物館である。ここに展示されている4枚のモザイクは、シャハバの農夫が畑作業のために土地を掘り返していた際にたまたま発見された。ここはローマ時代の有力者の邸宅跡だったようで、発見されたモザイク群をそのまま建物で覆ってしまい、博物館にしたという。4枚のモザイクのうち「海の女神」「女神アリアドネとディオニュソスの結婚」「オルフェウスと動物たち」の3枚はおよそ5メートル四方、「アフロディーテとアレス」が6メートル四方とかなり大きい。しかも損傷は少なく、色彩も実に鮮やかである。おそらくモザイクの本場・ギリシャにも劣らぬ素晴らしい作品の数々である。


モザイク博物館と道路をはさんでローマ浴場跡がある。これまで訪れたボスラやカナワットの遺跡と同じく黒玄武岩で作られている。そして夕陽を浴びる遺跡は、どれも例外なく崩れていて原形をとどめていない。ピリッポポリスはピリップス・アラブの死とともに建設が中断され、そのまま忘れ去られていった。こうして皇帝ピリップス・アラブスの「ふるさと小ローマ化」計画は頓挫した。しかし彼の計画は美しいモザイクを故郷に残し、小さな町シャハバを現代世界に知らしめるという思わぬ効果をもたらしたのである。


こうして南部シリアでの古代ローマタイムスリップは幕を閉じた。



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ピスタチオ
ダマスカスからヨルダンへ伸びるハイウェイ。日本の高速道路のサービスエリアに相当する小さな商店街があった。店頭にはシリアの名産品の一つであるピスタチオ・ナッツが山と盛られていた。種類も豊富。






ボスラの古代ローマ劇場
傾斜が急なことがお分かりいただけただろうか?なお、劇場の周囲はシタデルと呼ばれる城塞に囲まれている。シタデルが建設されたのはアイユーブ王朝(1169〜1250年)というイスラム国家時代で、十字軍の侵攻に備えたものだった。




スウェイダー博物館
ピリップス・アラブス時代のコレクションをはじめ古代ローマのコレクションの充実度は眼を見張るものがある。入口の上方にはアサド前大統領の肖像画が。




100シリアポンド札
筆者が使い切れずに持ち帰ってきた100シリアポンド紙幣に印刷されていたボスラの古代ローマ劇場と皇帝ピリップス・アラブス。ローマ皇帝として歴史上の評判は決してよくないが、シリアではお札に登場するほど偉人扱いされている。




カナワットの遺跡
デカポリスのひとつとして栄えたカナワット。よく整備された遺跡だが、周囲は住宅に囲まれている。




シャハバのモザイク
シリア南部を旅したなら、このモザイクは見なけりゃソン!それくらいに素晴らしい。




緑のシャッター
この日は金曜日。イスラムでは休日。ということでシャハバの商店はほとんど緑のシャッターを閉じていた。本来ならシャッター通りでさびしく感じられるものだが、シャッターの緑色が鮮やかで町に彩りを添えていた。




シャハバの子供たち
シャハバのローマ浴場跡の近くで遊んでいた男の子たち。古代ローマ遺跡が遊び場なんて、とてもゼイタクだと思う。