世田谷文学館企画展 「旅する絵描き いせひでこ」展
絵本作家・いせひでこインタビュー










「旅する絵描き いせひでこ展」
場所:世田谷文学館 (〒157-0062 東京都世田谷区南烏山1-10-10) 地図
TEL:03−5374−9111
会期:2011年2月11日(金・祝)〜3月31日(木) 午前10:00〜午後6時(入場は午後5時30分まで)
休館日:月曜日 ※3月21日は開館、翌22日は休館 
最寄り駅:京王線「芦花公園(ろかこうえん)」駅下車、南口から徒歩5分/小田急線「千歳船橋駅」から京王バス「千歳烏山駅」行き「に乗って「蘆花恒春園」下車徒歩5分 
入場料:一般600円(480円)/高校生450円(360円)/65歳以上・障がい者300円(240円) ※()は20名以上の団体割引
3月31日(木)は開館記念日として無料
HP:http://www.setabun.or.jp/


プロフィール:伊勢英子(いせ ひでこ)
1949年 北海道生まれ
1972年 東京芸術大学美術学部デザイン科卒業
1988年 「マキちゃんのえにっき」で野間児童文芸新人賞
1996年 「水仙月の四日」で産経児童出版文化賞美術賞
2007年 「ルリユールおじさん」で講談社出版文化賞絵本賞
絵本作家として活躍する他、エッセイストとしても著書多数。趣味はチェロ。

漫画から絵本へ

いつ頃から絵本作家を目指されていたのですか?

 もう二歳くらいから描いていたらしいのよ。どんな紙の切れはしでも描いていて、描いてさえいたら何も喋らなくていいような子どもだったらしいけれど。
 ちょうど私たち団塊の世代で、今と違ってものすごい数の子どもがどどどっとみんな一緒になって遊ぶような時代に育っているから。そうすると、どこかの家がマンガを買うとみんな回し読みして、何冊でもマンガが読める状態だったの。それがおもしろくて、もう子どもの時から七〇人くらいマンガ家の描き分けをやっていた。本当に、好きで好きでね。ディズニーから始まって、ちばてつやへいって松本零士へいって、サザエさんもやって。全部もう、子どものくせに、まぁ子どもだからかな、描き分けがすごく上手で、絵を見て描いて覚えて、自分でお話を作ってキャラクターを動かして遊ぶっていうのを年子の妹と二人でやって遊んでいたの。そばで見ていると、「これはもう病気だね」って言うくらい、マンガ家になるつもりでいたのね。マンガ家っていうのがどういう仕事かも知らないんだけれど、とにかくこういうことを描ける仕事の人になりたいなっていうのは、小学生ぐらいから思っていた。
 でもまぁ、家の教育方針で音楽やらされたり、もっと勉強しろとかって言われたり、あんまりマンガ家にはなれそうにもないな、みたいな雰囲気があったけれど。でも高校で進学を決めなきゃいけない時に、もうその頃はそんなにマンガを描いていなくて、美術部に入って絵を描いたりしていたんだけれど、やっぱり私には絵しかないな、って感じて。ちょうど受験の頃に、いわさきちひろだとか初山滋だとか、保育園時代から見ていた印象に残る画家の絵本が、本屋に行ったらいっぱい並んでいて、「あ、そうか。あの人たちって絵本作家だったんだ」みたいなね。後、イギリスのチャールズ・キーピングにとても触発されて、「あ、絵本描く人になればいいんだ、私」って。「絵本作家」 という言葉はその頃なかったと思う。絵本描きよね。じゃあ芸大に行こう、って思って。
 芸大へ行って、芸術を勉強しようとかそういうんじゃないの。一番早く絵本を描く人になるためには、印刷も勉強しなきゃいけないし、デザイン的なことも、レイアウトのことも勉強しなきゃいけない。じゃぁデザイン科入ろう、って思って絵本を描くために芸大に入ったの。
 自分が不器用で他の仕事は絶対できないってわかっていたの。英語はできないし、通知表の家庭科は2だし、チェロを習っていたけれどピアノは弾けないし。私って何やってもダメだなぁ、もう絵を描くしかないや、って思って(笑)。
今は趣味として続けているチェロが好きだけれど、当時は日常のなかで毎日自然に手が動くのが絵で、母からビシビシと「毎日お稽古しなさい」って言われる感じの音楽とはやっぱり違っていたの。絵だってね、「毎日デッサンしなさい」って先生が付いていたら嫌になっていたと思うんだけれど、幸いそういう人が周りにいなかったから。子どもの頃からただ好きで好きで描いていて、それが集中できるっていうか、夢に浸れる時間で、もうその喜びを身体で覚えちゃっていたから。音楽は自分の中で、そこまでいかなかったのね。
 でも音楽って幼いうちに触れていた方がいいと思う。大人になってからチェロを習う人は大勢いるけれど、それだと私の中ではまた違う位置になっていただろうから。


自分の持ち色はブルー

伊勢さんの絵はブルーがとても印象的です。

 私、色音痴だったの。別に色盲っていうわけじゃないんだけれど、どういう理由かうまく使えないの。芸大入る時も一番の難関が水彩画のテストで、色を使わなきゃいけないんだけれど、絵の具をどう使っていいかわからなかった。それまで絵を描いていても線画だったり、色をあまり使わない絵を描いていたものだから。芸大に入ったら入ったで、デザイン科だから実習でどんどん色を使わなきゃいけないんだけれど、それも「えーっと、色ってどう混ぜるんだったっけ」っていうくらいできないの。ブルー以外は、自分の中で受けつけられる色ってないのね。
 在学中もそれからも、好きになったり、研究したりバリエーションを探そうと思うような色が、ブルーか紫かモノトーンの白黒しかないの。緑系などもう下手で下手で、本当に自分の緑って大っ嫌いなんだけれど。これは(アトリエの描きかけの絵を振り返って)、麦を描かなきゃいけないから使っていますけれど、もう自分の緑はどうしてこんなにリアイティがないんだろうって。
 でもそれだけ自然の緑の方が綺麗で好きで、表現できないなって思っているの。もう敵わないなって、自然の木や草の色にはね。だからあえて、人工的な緑色だとか使いたくない。むしろ空だとか木のシルエットを描くときに、好きな青系で表現する方が、よっぽど心情的に寄り添えて自然な形で描けているような気がする。花の写生だとか、草とか若葉の木とか、本当に難しい。私は人間って生まれた時から「持ち色」ってあると思う。


不器用だから真っ直ぐに進んできた
 さっき私は不器用なのよって言ったんだけれど、私って絵という作業を通してしか人と繋がれないし、何にもなれないなって。絵を通してなら何かの貢献もできれば、自分を表現することもできるし、人とも繋がれるんだけど、もしそれが事務的な仕事だったり計算しなきゃいけなかったり、違う仕事だったら私は人と繋がれないんじゃないかって思う。私、お勤めしたことないの。
 私には、本の中に埋もれている迷える文学少女のような妹がいましたが、彼女に言わせると私は器用だっていう。こっちから見たらこれしかないのに、どうしてそんなこと言われるのか全然わからなくて。
文学でも音楽でもダンスでも、どのジャンルもみんな追求し始めたら止まるところがないわよね。ただ、「ここでいい」っていうのがない世界で生きていこうっていう覚悟をしていたかは、若いから多分違うと思うのよ。ただ、やっぱり絵しか自分を生かす方法はないだろうな、っていうぐらいの漠然としたもので。
 デザイン科に入っているから、当然同級生は資生堂だとか博報堂とかで働くのを目指して、レタリング(※1)を書いたり印刷技術を学んだりするでしょ。そうすると、私はレタリング一つ書けないのね、カラス口(※2)やスケール(※3)を使うのが苦手で。全部フリーハンドが好きなの。だからどんどん落ちこぼれていって、それで絶対広告業界には行くまいと思って。そこも早々と決心しちゃうの、絵本のみって。それで卒業制作は絵本で、その世界に一冊しかない、原画のみの『雪の女王』が最初の絵本。
 子ども時代は多分、ものすごく教育的な母が支配していたので、母の影響の及ばないところに逃げたかったと思うのよ。それが絵だった。母は音楽を必死になって私に教えたり、勉強しなさい、いいところに行きなさいって言うタイプだったから、そこから逃げ出すには絵しかなかったっていうのもあるの。母は絵が描けないし、わからないから、母が絶対に追いつけない世界。ともかく、自分の生存率の高さを考えたら絵しかないっていうか、そうなっちゃった。シンプルなのよね、私。きっとすごく単純な性格なの。
(※1)レタリング
文字のデザインや書体の選択の技術。
(※2)ペン先の形状が烏のくちばしに似ている、製図用の特殊なペン
(※3)定規。



転機は「よだかの星」

伊勢さんは、どのようにしてご自分の絵のスタイルを確立されたのでしょう。


 私、最初は自分の絵の個性って何にもなくって。二〇代から挿絵家の世界に入って、一〇〇冊くらい他人の本の挿絵をやったの。作家さんと作品の出会いには恵まれていた。だからこそ、一生懸命にいろんな努力をして、出来るだけ作家さんが言わんとしている世界を描けるようになりたいなっていう気持ちでいっぱいだった。
 だけど、さっき言ったみたいに私の原点にチャールズ・キーピングとかアーネスト・H・シェパードがいて。つまり、私の中に理想的な絵っていうのがあったの。文句なしに、国籍も世代も何もかも超えて完璧な絵本画家っていうのが、私にとってこの二人と初山滋だったの。だから、二〜三人の少ない理想の絵があって、そこに太刀打ちできるような絵を自分は描いていないっていうことが、もうわかっていた。まして、他人の作品を描いているのだから。一つ一つは大事な仕事だったけれど、ずっとこうやっていたら私らしさが何にも出ないうちに、何となく挿絵家で終わるんだろうな、っていうのが三〇歳くらいから危機感として感じて。それまでは絵本のチャンスもあまりなかったの。
 やっぱり決定的なのは、宮沢賢治の『よだかの星』(講談社)を描いたからでしょうね。その頃から『むぎわらぼうし』(講談社)だとか、少しは絵本の仕事も入ってくるようになったんだけれど、『よだかの星』を描きながら私の中で強く「絵本画家として生きるんじゃなかったのか」っていう想いが湧き上がってきた。
 私が子どもの時に絵しかないって思い込んでいた生き方っていうのは、よだかが自分の存在理由を問い続ける姿と重なっていたのよね。『よだかの星』の絵本を描きながら、どうして私は小学五年生の時からこんなにこの作品好きだったのか、っていう答えが一気にわかったような気がした。
 さっきも言ったけれど、私は器用でも何でもなくって、絵しかなくって。よだかが鷹から、夜と鷹から借りた「夜鷹」という名前を返上しろって言われて、「神様からもらった名前を変えられません」と答えるところで、変えられない自分って何なんだろう…と、そこよね。五年生じゃそこまでわからなかったから、ただこの作品が好きだったっていうだけなの。だけど、三七歳で『よだかの星』の仕事をした時に、ものすごく自分のこととしてひきつけて描いたの。
 もちろん苦しみながら描くんだけど、反対に思い通りに描けた時とか色が出た時の喜びとか、本が出た時の嬉しさとか、すごく楽しくてしょうがないの。あ、絵本ってこういうものだったんだ、みたいなね。絵本作家になりたくて入った芸大を出て、まぁ子どもの本に絵を描く仕事をしているんだけど絵本は描いていないっていう、ちょっとずつずれ始めていた状況だった。『むぎわらぼうし』『ざしき童子のはなし』(講談社)『よだかの星』と、立て続けに絵本三作を出版したら、目覚めちゃったというか…(笑)。芸大入学に続く、大きな決心だったわね。


ゴッホと宮沢賢治

伊勢さんは宮沢賢治の作品の他、画家ゴッホにもひかれて『ふたりのゴッホ』(新潮社)をお書きになっています。この二人に惹(ひ)かれた理由は何でしょうか?


 こっちが聞きたいくらい(笑)。二人が私にとりついたんじゃないかと思った時があったから。私がゴッホに惹かれたのは、絵じゃなくて書簡集なの。ゴッホが弟のテオに宛てた七〇〇通近い手紙の書簡集がみすず書房から出ていて、それが『ふたりのゴッホ』の土台になっているのだけれど。
 意外と、ぶつくさ文句ばっかり言ってお金の請求ばっかりしているわりには、この人(ゴッホ)やりたいことやってるんです(笑)。そこは、花巻のお坊ちゃまだった宮沢賢治とそんなに違わない。環境や境遇で、本当のどん底の人じゃないのよ、二人は。本当は恵まれているんだけど、そういう自分を恥じるというか、そういう所に満足していないで、自分は自分、ってずっと自分探ししている永遠の子どもみたいなところがあったと思う。並みの感性だったら、地下七〇〇メートルの炭鉱で働くとか、重たい石灰肥料を宣伝販売するとか、何もあんなことしないでも生きられた人たち。でも並みじゃなかったから苦しくて苦しくて、お金があろうと地位があろうと家があろうと、そこにいられなかったのよ。
 それって何なんだろうな、って自分の中で引きつけて考えると、ゴッホの書簡集と賢治の童話や詩の中に答えがあったの。
 それについて、夢中になって二人の共通点とかメモしていた時代があったの。絵じゃなくて、もう文章にして書かずにはいられなかった。いちいちゴッホと宮沢賢治って呼ぶのが面倒だから、「二人のゴッホがね」って新潮社のある編集者に喋っていたら、その人が何回か会った後に「いせさん、二人のゴッホでお書きなさい」って。それから五年かけてオランダ、ベルギー、南仏や花巻に行っては調べて、さらに五年をかけて書いたのね。書かないと先へ進めないっていうのは、絵でも文でも同じ。喉にひっかかった骨みたいに、これを書かないと私は先に進めない、何にも見えなくなっちゃう、って。側からみたら、頭おかしくなっちゃったんじゃないかって(笑)。
 宮沢賢治は、全部の作品が好きなわけじゃないのよ。『貝の火』(※4)なんか、もし依頼されたら怖くて絶対に描けない。そんな風に宮沢賢治はいろんなバリエーションがあるんだけど、怖いもの見たさと、綺麗なもの見たさっていうのがある。やっぱり深いな、って。読み始めるとついついのめり込んじゃう。
(※4)貝の火
宮澤賢治が亡くなった翌年(一九三四年)に出版された短編童話。ひばりの子を助けたお礼に兎の子ホモイが宝珠「貝の火」を手に入れるが、宝珠のもたらす権力に慢心したため「貝の火」は砕けてホモイは失明してしまう。



絵本とタブローの二本柱
 タブロー(※5)を描くっていうことに目覚めたのも、『よだかの星』を描いた頃なのね。原画展をやる時に、必ずタブローを一緒にするようになったの。絵本ってやっぱり箱があって、子どもたちに通じるようにもっていく方法とかいろいろ制約があるでしょ。編集者や印刷所の都合とかもあって。絵本ではどうしても描ききれなかったものがタブローに新たなる表現として出てきて、両方なくてはならない人になっちゃったの。
『ルリユールおじさん』もタブローから生まれたの。以前は絵本の依頼をされて絵本を描き終えてもまだ、そこから溢れ出てくるものをタブローにして昇華していったような気がするけど、もう順番がなくなっちゃったの。今はタブローで描いたこういう世界を絵本にしたいな、って思ったものを絵本にしていくことの方が今は多いわね。
『一〇〇〇の風、一〇〇〇のチェロ』も、そう。一九九八年の復興支援コンサートに出た時に考えたことや感動したことを、タブローにせずにはいられなかったのね。最初は三〇〇号のタブローで一〇〇人くらいのチェリストが演奏している絵を描いて。絵本にするなんて何にも考えていなかったのだけれど、そのタブローを見た編集者に「この絵はすごいよ。この絵がラストシーンになるようなのを描かない?」って言われて、この絵本作りが始まったのね。
 今はもう、絵本とタブローのどっちが先かわからないわね。それでむしろ『大きな木のような人』『まつり』とか『あの路』とかやっていて苦労したのは、順番通りに全然描けなくなってしまったこと。タブローと同じで描きたいところから描き始めるものだから、ストーリーがどんどん変わっちゃうのね。始めにいくらエスキースでストーリーを作っていても、ある絵を描くと、「あれ、こっちの方に行きたくなっちゃった」みたいになって。ストーリーをある程度作って、絵を描いてからストーリーに修正を加えて。ものすごく時間かかるわよ。でも、それが私にとっては一番やりやすい方法というか正直な方法。
(※5)タブロー
キャンバスに描く絵画作品



自分は右脳人間

 愛犬との日々を綴ったグレイ・シリーズ(中央公論新社)や最近では『七つめの絵の具』(平凡社)など、エッセイ集も多く出版なさっていらっしゃいますが、ご自身のなかでは絵を描くことと文章を描くことはそれぞれどのような位置付けでしょうか。

 
 絵を描くことと文書を書くことは、同じ皿の上に乗っているみたいな感じで、垣根がないの。文章の書き方も絵の描き方と一緒で、書きたいところから書く。頭の中にパッと浮かんだことを書くから冒頭から書き始めるわけじゃないし、文のコンセプトとか起承転結とか全然考えない。
 だから私の頭って多分、全部右脳だと思うのね。いつも主人(ノンフィクション作家の柳田邦男さん)に「また右脳だけで動いてる」って言われるんだけど、私は彼が新聞社の執筆依頼とか受けてものすごい短時間で原稿を書き上げる時があるから、どうやったらそんなことできるの、って横でじっと見ちゃいます。私には、そんな芸当はできない。私は時間をかけてかけて練って練って最終原稿の一〇倍くらい書いて、そぎ落として、切り貼りして。
 絵本を描くためにエスキース(※6)をいっぱい作っても、しょっちゅう変わっちゃうの。自分でももうちょっと何とかならないかな私の頭、って思ったりするんだけど。転がり始めると、修正がきかなくなるっていうか、行き着くところまで行かないと次が見えてこない。だからものすごく時間と体力がかかる作り方よね。見切り発車する時もしょっちゅうありますよ。『ルリユールおじさん』もラストなんか何も考えないで描き始めちゃったし、『まつり』の最後の場面も入稿の前の日に四枚描いて「あ、やっぱりこれだわ」って感じ。
 でもそれだけ悩んだ分、知らないうちにいろんな見えない言葉が入っていっているのね。捨ててきているつもりなんだけれど、絵のどこかに入っていくのね。そうするとすごく重層的になって、一つのテーマを言っているようでも、結果的に読み手がいろんな読み方ができる本になっているのね。
 例えば『ルリユールおじさん』のテーマは「一冊の本を大切にする」っていうことかもしれないけど、読み手によっては全然違うところを見ていますね。ルリユールおじさんが螺旋階段を降りて行っている絵が一番好きっていう人にとっては、孤独なお爺さんが女の子との出会いによって心を開かれていくっていう風にとれるだろうし。理想的な一つのテーマを語るのが絵本でもなければ、絵本がそういうものだと思い込むのも変な話だと思いますから。テーマなんて、描いているうちに自然に浮き上がってくるものであって、最初に「命を大切に」とか「本を大事に」なんて決めて作り上げるものでもないと思うから。
『ルリユールおじさん』『大きな木のような人』『まつり』も、最初から三部作にするつもりはなかったけれど、一つ一つ一生懸命作ったらなんか全部繋がっていました。
(※6)エスキース
作品の構想を固める時、多くのスケッチやクロッキーをもとにして、全体の構図、配列、配色などの研究を目的につくる試し書き。



何もできなくても、見ることが私の責任


 一九九八年に阪神淡路大震災復興支援チャリティー「一〇〇〇人のチェロ・コンサート」にチェリストとして参加され、「一〇〇〇の風 一〇〇〇のチェロ」をお描きになりました。震災直後に神戸を訪れて、「何も描けない」と無力感に苛まれていたそうですが。 
 
 コンサートに参加して、私が救われたってことです。コンサートを繋いでいたものは、損失体験を通して、それを分け合うなり繋がるなりして、絆が生まれたっていう、そういうことだと思うの。私は父を一九九五年に亡くして、一九九六年に愛犬のグレイをガンで亡くしているの。被災者とその家族が抱えた傷に比べて私の傷は小さいかも知れないけれど、痛みを持っている人同士が集まった時に、その痛みの大小は問題じゃなくて、痛みがわかればカバーし合える、そういうコンサートだったと思うのね。私は神戸のために何かしようと思って行ったんじゃないのよ。私も救われたい思いで行って、絵描きとしては震災後三年間何もできなかったんだけど、大それた何でもない一〇〇〇人の一人になって行ったら私も救われたんだ、みたいな。絵本にしようとかそんなことは全然考えてもいなかったんだけれど、ただこの繋がりを一枚の作品にしようと思って。一〇〇人のチェリストが演奏している長い五メートルくらいの一枚のタブローに描いて個展に出したら、偕成社の編集者の方から「絵本にしましょう」って言われたのが一九九九年。それから一年くらいかけて、二〇〇〇年に出したの。 
 阪神淡路大震災が起こった時は、父もグレイも大変な時期で、私が命と向き合っている時期だったの。子どもたちも中学一年生くらいで、みんな命に敏感になっている時に、ドーンってあの震災の映像がきたのね。でも毎日同じ映像ばかりで本当のことを伝わっていないっていうか、トイレもあるんだかないんだか、日常はどこにいっちゃったんだろうって。だってグレイを毎日見てるんだから、「犬とか猫とか飼っている人たちは、どうしているんだろう」とか子どもたちが聞いてくるのよ。それに答えてくれるニュースがないのよね。「それじゃお母さん確かめてくるわ」って。
 (目的が)小さくて、恥ずかしいけれど。それと何となく漠然と、こういうことも戦争と同じ、復興して綺麗になってしまえば忘れられていくんだろうな、という感じもあった。何をしようと思って行ったんじゃないのよ。ただ見なきゃ、見るのが私の責任だ、みたいな。
 目茶苦茶になった神戸を地図も無い状態で探して探して、動物愛護協会に行ったら誰も犬も猫もいなんだけど、みんなどこに行ったんだろうって思っていたら、高校生くらいの男の子が「ボランティアで僕にもできることありませんか!」って、バーっと飛び込んできて。「ああ、やっぱりこうやって止むに止まれずに動く人がいる」って思って、そのシーンを目に焼き付けてきました。今度は道路に鳥が一〇〇羽くらい、ばさばさとハトだのスズメだの集まっていて、何なんだろうって思ったら、お米屋さんが潰れてお米が道路一面に撒(ま)かれていた。生きるために鳥が集まっていたの。とにかく風景の一つ一つがすごくて、一つも絵に描けなかった。壊れている風景もすごいけれど、それでも生きようとする姿があることの方がすごくて描けないの。でも私は部外者だから、帰る家もあるわけだから、申し訳なくて避難所の学校の中にも入れない。窓から覗くだけで。仮設住宅の当選発表の掲示板を食い入るように見ている人たちの姿とか。だから、本当に切り取った生活のコマを見ただけで、絵本を描くとか語るとかはできないけれど、自分に刻み込むのが唯一の責任だと。それと、公園で若いお母さんが無言で赤ちゃんを抱えてブランコに乗って揺れていた。そういうのって、絶対にニュースに映さないシーンなのよ。


文学館で作品を展示することの意味
 文学館の企画展ということで、初めは一冊の本を大切にする『ルリユールおじさん』を中心にやりたいっていう企画で(世田谷文学館が)来られたんだけど、そこに話し合いを重ねて、近作を中心にっていうことで段々とテーマを広げていったの。ここ一○年は、静かに命の賛歌、みたいなのがいつも根底に流れているんだけれど、それを声高に叫ぶんじゃなくて。木のいのちだったり、復興支援の出会いや気づきの話だったり、いろんな形の物語として。私が展覧会を美術館やギャラリーでやるのは当たり前なんだけれど、文学館が私の創作方法を丁寧に解説したり、絵とは密接な言葉群を展示したり、いろんな意味で橋渡しをやってくれる場所として、子どもから大人までに来てもらえるっていうことで、すごく嬉しく感じています。 



今後の活動予定
・沖縄 佐喜眞美術館 
「旅する絵描き いせひでこ展(仮)」
会期:2011年4月13日〜5月9日
住所:沖縄県宜野湾市上原358 (TEL :098-893-5737)
開館時間:9:30 〜17:00  休館日:火曜日、年末年始

・安曇野 絵本美術館 森のおうち 
「まつり」原画他、新作を展示予定 
会期:2011年7月15日〜9月13日
住所:長野県安曇野市穂高有明2215-9(TEL:0263-83-5670)
開館時間:9:30?17:00PM(最終入館16:30) 休館日:不定休
※開館時間・休館日ともに変則的なので、美術館に事前にお問い合わせ下さい。

協力:世田谷文学館
取材:冨久田純


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パリでの伊勢英子さん近影 (C)石井麻木