★連載2 「途上国の二―トに教わるもの」★
          
執筆:藤井陽見




イッチャプールの村


 バングラデシュの田舎に住んでいたころの話だ。僕が住んでいたエレンガという市場の近くに、イッチャプールという名前の村があった。そこに仲良くしていた青年が住んでいた。ナジムという名前の、ひょろりとやせた、童顔の青年だ。髭こそ濃いが、幼く見える、やさ男。


ナジム。彼はパソコンを持ち、バングラデシュの田舎でインターネットに接続している。

「青年」、その響きの健康さときたら、日本もそれ以外の国も、もちろん途上国だって共通で、心身ともに健康、明日のために、家族のために、お国のために、粉骨砕身がんばるのです、といったものをイメージするべきなのだが、僕といつもつるんでいたバングラデシュ人の青年は、あたまに「無職」とついてこれはわかりやすい立場。日本でいうところの「NEET」というやつであった。厳密にいえば日本のニートとは違うのかもしれない、ナジムは「未だ夢見る青年」という印象だった。途上国の住人らしい苦労は知らず(もっともそれは日本人が持つ偏見かもしれない)、日がな一日ぶらぶらとし、詩を書いたりカメラを借りてきて自主映画を撮ったり、インターネットでマレーシアの女の子とチャットをしたりしている。
彼は二十二歳。バングラデシュという最貧国の、農村部に住む金持ちのニート息子、とはじめこそ接し方に困ったのだが……。

 そのうち、僕はそんなナジムと仲が良くなっていた。なんというか、僕も日本にいるときにははっきりいって彼と同じような立場であったし、考えかたの生ぬるさ、悪い意味での夢見がちなところもそっくりだと、思っていた。そういうところで通じ合っていたかもしれない。向こうもきっとそう思っていたのだろう。

 そんな彼と、ふたりで旅行に行ったことがある。

チッタゴンという名前の町。バングラデシュ第二の都市である。日本企業はもちろん多くの外国企業も出入りする海沿いの都会。僕とナジムの住むタンガイル県カリハティ郡からは、バスを乗り継いで8時間ほどはかかる。

 ここに旅をした。ナジムは何しろ時間があるのでぶらぶらと国内をうろつきまわることをよくやっている。今回はゲスト(自分のことだ!)が同行するので、いつもよりもワンランク豪華なバスに乗っていった。やはりランクが高いだけあって椅子がなんとかリクライニングでき、夜の幹線道路をぶっとばす車内でなんとか寝る体制になることができる。つまりそれは全面の窓から見える衝突するんじゃないか、という恐怖から逃れられるということで、これはなかなか快適なのだ。ただし僕の席のところにある窓が完全に閉まらなかったため、寒さに耐え切れず徹夜するはめになったのだ。


チッタゴンの観光案内動画

チッタゴン管区は街あり海あり山ありと、バングラデシュのなかではもっとも観光向けの地域といえるかもしれない。

 チッタゴンの街では、普段食べられない海魚(※1)のトルカリ(※2)を食べたり、少数民族の住む村でボートに乗って川下りをして料金でモメたり、夜のまちで海賊DVD屋からベンガル語で書かれた官能小説を買わされたり、楽しい時間を過ごした。

 チッタゴンに来て二日目か三日目かの夜。夕食のルップチャンダ(まながつお)のトルカリを食べたあと、いつものようにアダ・チャ(しょうが紅茶)を飲んでいた。目の前に物乞いの子どもがいる。ナジムが口を開いた。「生徒たちは元気だろうか」

 金持ちの息子でニートのナジムは、趣味で、自分の近所にいる貧しい子どもたちにちょっとした勉強と、歌や詩などを教えていた。そのなかに、ひとりとびきり貧しい子がいて、いわゆるチャイルドワーカー、児童労働を強制させられていた子だった。「マルフのことを思い出したよ」ナジムは言った。

 その子の名前はマルフといった。「ああ、あいつか」すぐに思い出せた。一緒にナジムから勉強を習っている子どもたちのなかで、ひとりだけが飛び出て、目立っていた。おかしな特徴というか、例えば白目が白すぎる、というような、単なる貧しさ以上のなにかをまとっていた。

「マルフは、このチッタゴンの街の近くから来たんだよ」

チッタゴンの街から、ダッカ・チッタゴンハイウェイをバスで一時間ほど北上する。バティアリという場所がある。別名「船の墓場」という。「大きな船」フェリー、大型船舶。古くなって使われなくなれば、この場所で解体される。世界中の船の多くがこの場所へ解体されるためにやってくる。船がここへ来るときは、二隻でやってくる。ひとつが、解体される船をけん引して来て、ひとつをこの解体場に乗り上げさせ、また帰っていく。ここでは一年中休みなく、解体が「手」作業で行われている。


「船の墓場」バティアリの様子。英語のニュース映像ですが様子は伝わるはず。この場所はバングラデシュでは珍しくカメラを「嫌がる」場所です。

 劣悪な環境のなかで働くのは多くが15歳未満の子どもたちで、この30年で1,000人以上(公表されているだけで)の死者をだしている。マルフは、自分の親にここに売られ、そして逃げて、遠い遠い親戚をたよって、僕やナジムのいるタンガイルの村までやってきた。

 今まで働いたことのない男(ナジム)に聞いてみた。「この国はマルフみたいに小さいころから強制的に働かされている子どもが多いよね?」「強制的、というのはよくわからないけど、働いている子どもはたくさんいるよ」「どう思う?」「歌や、踊りや、詩を書いたり、そんなことをするべき時間を、命の危険までおかして船の胴体の鉄板をはがしたりしなきゃいけないなんて、それは違う、もったいない」

 チッタゴンの街が見渡せる丘の上で、僕があげたタバコをぷかぷかとやりながら、最後にナジムはこう言った。

「もし俺が仕事をやりはじめたら、あいつらに誰が勉強を教えるんだい? 歌や踊りは、誰かが教えてくれるかな、違うよ」
そう言う。僕は、お前に仕事をしたほうがいいなんて一言も言ってないじゃないか。

「それがお前の働かない理由だったのかい?」
「そうじゃないけどね」
 すべてが本当なのだろう。彼らに勉強や、歌や踊りを教え続けてやりたいというのも、そして、働く必要がないなら、そんなことしたくない、という気持ちも。


丘から降りるナジムと筆者

 まったく働いた経験が無く、働く気もないお気楽で純粋な青年が、物心ついたころから何も考えずに「働かされて」生きてきた子どもに、勉強を教えてやる。これを不思議だと思うのが、当たり前なのだろうか。街を見下ろす丘を降りる道のそばにはちょっとしたスラム。そこから流れてくるトルカリのスパイスの香り。「今夜はヤミのお酒を飲ませてあげようか」と笑うナジムの、細い背中。彼とふたりのチッタゴン旅行に来てよかったと、なぜかそのとき思った。


スラムからは生々しい生活の匂い


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