横浜港を望む現代の「芸亭」   <神奈川近代文学館>

   待本里菜

 木立の中の薄暗い階段を上りきると、左手に海が広がる。
 陽に光るベイブリッジがひときわ都会的な横浜港。そのまま歩を進めれば、水音涼しい噴水の先に赤レンガの大仏次郎記念館が姿を現す。記念館を右に見て霧笛橋を渡った先が、目指してきた神奈川近代文学館だ。
 みなとみらい線「元町・中華街」駅を出て、幕末の開港時から明治初期にフランス軍が駐屯したフランス山を経て、「港の見える丘公園」をぶらぶら散歩してここまで来ると、カップルや観光客、犬を連れて散歩する人も減り、急にひっそりとなる。霧笛橋から先は、静謐が支配する場所らしい。
 神奈川近代文学館は1984年に開館。神奈川県ゆかりの作家や文学作品に関連する肉筆資料、書籍、雑誌の収集、保存、展示を行う博物館と、近代文学専門の図書館、講演会などを開催するイベントホールの3つの機能を併せ持つ国内屈指の総合文学館だ。運営する財団法人神奈川文学振興会は、1982年の発足時から精力的に資料収集に励んできた。井上靖文庫、大岡昇平文庫、尾崎一雄文庫、中島敦文庫、中村光夫文庫、埴谷雄高文庫、武者小路実篤文庫など文学者の旧蔵資料を一括して保存している40余の文庫と、夏目漱石資料、村井弦斎資料など多くの独立したコレクションを含む収蔵資料は、100余万点。稀少な資料を数多く有する近代文学の資料館として高い評価を得ている。収蔵情報はインターネット上に公開されており、誰でも簡単に検索できるのも魅力だ。(ホームページアドレスは、http://www.kanabun.or.jp)収蔵資料のデータベース化には力を入れており、中島敦の直筆資料4700点を画像データベースとして収録した「中島敦文庫直筆資料 画像データベース」DVD-ROM版(6万3000円)も発行。「弟子」「李陵」などの名作を含む直筆原稿の端正な筆跡を表示、出力できる貴重な一枚が、オリジナルグッズを販売する館内ショップで手に入る。また、講演会、朗読会なども開催し、入会するとさまざまな特典がある「友の会」を組織して、文学の愛好者の輪を広げる活動を展開しているのも特徴だ。
 外観は、安政6年から明治32年まで外国人居留地だった横浜・山手地区らしさが漂う石造りの洋館風だが、両端に円形の展示室を配し、さっと紐といた巻物を建物全体で表現したデザインというから面白い。和と洋、古と新が融合するハイカラな港町流か。建物の入口に、原稿用紙の升目がデザインされているのも、ちょっとした遊び心。
 もう少しウンチクをたれれば、本館の脇に枝を広げている桜は「芸亭(うんてい)の桜」と呼ばれているそうな。名付け親は山田宋睦。「芸亭」とは、奈良時代末期、外典を収蔵し、公開した我が国最古の図書館の名前だという。「芸」は書物の虫除けに使われた香草で、転じて書籍のことも指すとか。
 現代の芸亭たる同館では、春と秋に特別展、年に3〜4回の企画展、3部構成で入れ替えする常設展「文学の森へ 神奈川と作家たち(「第1部 夏目漱石から萩原朔太郎まで」「第2部 芥川龍之介から中島敦まで」「第3部 太宰治、三島由紀夫から現代まで」 入れ替え制の3部構成)」を開催している。この夏は、8月1日までは「生誕80年 『開高健の世界』展」と「文学の森へ 第1部」、8月7日からは横浜出身の児童文学者・長崎源之助の作品世界を原画とともに味わえる「長崎源之助展」と「文学の森へ 第2部」。詩人に歌人、小説家に評論家。それぞれが個性的な枝葉を茂らせた文学の森を彷徨えば、夏の暑さも、浮世の憂さもしばし忘れられそうだ。
 また、第一展示室に通年展示している「神奈川の風光と文学」は、横浜、川崎、県央・県西、三浦、湘南、鎌倉の地域ごとにゆかりの作品を紹介するコーナー。文学を楽しむと同時に各地の特色も理解でき、神奈川ガイドとしても見ごたえがある。作家の息吹が感じられる肉筆原稿や愛用品、作品の舞台となった場所の風景写真など、見る者を引き込む工夫が凝らされた展示を見ていると、知らない作家ならこれから読んでみたくなるし、好きな作家ならますます惚れてしまう。
 春に訪ねたときに開催中だったのは、特別展「城山三郎展 −昭和の旅人−」。城山が愛する容子夫人に宛てた手紙が印象的だった。
 「細かいこと、つまらぬことに気をつかわず、すべてを善意に大まかに解釈して生きて行こうね」
 作家の素顔の温もりを、ふわっと感じられた一行。何年もたって、展示会の内容どころか、どこで見たのか、読んだのか、誰の発語だったのかさえ忘れてしまったとしても、この言葉は忘れない。人生の救いになってくれそうな、そんな言葉だった。すべてを丁寧に見なくても、必要な言葉が自分に呼びかけてくる。それが文学展の魅力だと、ひとりごちた。
 展示室を出たら、館内の「芸亭茶房」でひと休み。近年はカフェを併設する美術館が増えたが、文学館ではまだそう多くない。横浜港を望むガラス張りの席で、ゆったりと和めるのも同館の魅力のひとつだ。
 少し甘いものが欲しくなってケーキを注文した。
「ごめんなさい。今日はまだ焼いてなくて。昨日イベントがあって忙しかったものですから」
「こちらで焼いているんですか」
「ええ、私がここのキッチンで毎日。昔ながらの素朴なケーキです」
上品で朗らかなマダムが微笑む。
「同じ建物に大切な資料がたくさんありますから、蒸気の出る料理は出せないんですけど、せめてケーキくらいはと」
 おすすめだという和風サンドイッチと紅茶を頼み、水平線とベイブリッジを眺める。午後の明るい日の下で、波のない海は青いセロハンのようだ。商港として栄えてきた海は、漁る海とはどこか違う無機的な表情にみえる。そういえば、三島由紀夫の「午後の曳航」には、高島埠頭、元町、外国人墓地など、この界隈が描かれているんだっけ。さっき展示室で得た知識が頭に浮かぶ。さっそく帰りにふらついて行こうか。まだ作品は読んでいないけれど、散策の後に本屋に寄ってもいい。
 マダムの手作りケーキはまたの楽しみにして、私は席を立った。


霧笛橋から見える展示館。橋を渡れば、文学の世界が待っている。





ショップで一番人気の夏目漱石愛用の原稿用紙と一筆箋。第一展示室に漱石の書斎の雰囲気を再現した「漱石山房コーナー」があることにちなんだオリジナルアイテム。



数多くの文学に登場する横浜港。時代時代によってその風景は変化してきた。


DATA
神奈川近代文学館
〒231−0862
横浜市中区山手町110 рO45−622−6666
●開館時間
展示室:9時30分から17時まで
閲覧室:9時30分から18時30分まで(土・日・祝日は17時まで)
●休館日 
月曜日(祝日は開館)、年末年始
展示室:定休日のほかに展示替え期間は休み
閲覧室:定休日のほかに毎月末の平日と2月1日〜10日は休み
●アクセス
東急東横線直通・みなとみらい線 元町・中華街下車 6番出口から徒歩約8分
JR根岸線 石川町駅下車 元町口 徒歩約20分