●『海牛』と三重の文学事情     名村和実



 私が同人雑誌に、始めて小説を書いて発表したのは、一九九七(平成九)年三月のことです。三重県津市で発行されている『海牛』の十六号「骨を抱く」がそれです。すでに五十三歳になっていました。文学的に非常におくてです。
海牛のそれ以前のことは、実際に見聞きしたわけではないので、私に語る資格はないのですが、参加するに当たって言い知れぬ不安がありました。ある文学仲間の長老から「君が海牛で文章を書くなんて、そんなことは考えられない、何かの間違いだろう、主宰の言葉を聞き違えているのではないか」と言われたのです。
 当時海牛は、主宰の岸田淳子と、旭洋子の二名だけでした。十五号より古い冊子は、もちろん無いのですが、創刊号だけは何かの折に主宰からいただいたものがあります。それによると一九八八年三月、指導者(故)鳥山敬夫ともう一人の四人で発行しています。もともと少人数なのが海牛の体質らしいのです。八号から岸田、旭の二人だというから十五号まで二人誌だったわけです。
 ところがこの二人は、『文學界』や『海燕』(今は廃刊)等の同人雑誌評に取り上げられるのは常で、文學界のベスト5の常連にもなっていたのです。二人ともそれぞれ単行本を出版しており、津市や三重県の文化奨励賞も受けている超ベテランの二人だったのです。先の長老は、そんなところへ入ったら潰される、と私の身を案じてくれたのでしょう。私自身も、鈴鹿市や津市で行われている文芸合評会で顔を合わせる程度で、さほど親しい間柄ではありませんでした。しかも鈴鹿に住んでいる私がどうして遠い津市の冊子に参加するのか、疑問が起こるのではないでしょうか。
津市といえば隣の市ですが、車で五十分程度もかかる距離にあります。
 三重県には、一九六一年に、当時評論部門の芥川賞と言われた第三回近代文学賞を受けられた〈清水信〉が居て、自宅に全国同人雑誌センターを開設し、活発な文芸活動をしています。その地道な活動が認められて今年八十七歳で中日文化賞を受賞されました。老眼鏡も全く不要で一ヶ月に二百から三百冊の同人雑誌を読むという現役です。
 毎月第一土曜は津市(津文学研究会)、第二土曜は鈴鹿市(鈴鹿土曜会)、第三土曜は四日市市(XYZ)、第四土曜は名古屋市で開かれる作品合評会に精力的に出かけています。特に三重県で行われている三つの合評会は、二十から二十五人程度集まってくるのですが、元々会員名簿を持たないというのが特徴です。誰でも来たら会員、来なければそうでないことになります。さまざまな同人雑誌に入っているそれぞれの人は、自分の作品が掲載されている雑誌を二十五部程度持って来ます。一人で雑誌を発行している人は自分の個人誌を、発表する場を持っていないが自宅で作品を書いた人は、生原稿を二十五部程度コピーして来ます。作品を書いたことはないが、文芸に興味のある人は、手ぶらでやってきます。そのように作品をもって来た者は、受付に並べて置き、参加者が自由に手にしやすいようにします。会場へ来た者は順次自由に持って行きます。こうして全員に配られた雑誌は、来月の合評対象となります。したがって、当日の合評対象は前月配布された作品です。参加者は、指導的立場の人から、中堅、初歩の人まで、まちまちですが、自分の作品を前月に配布しておけば、必ず誰かが意見を言ってくれます。自分も誰かの作品を読んでいって、意見を言う機会が必ず与えられます。それを聞いていて清水先生が口を挟みます。初めて来た人や、初歩の人の作品には、優しくて丁寧な言葉を、ベテランの作品には当意即妙の冗談を交えて扱き下ろすのです。そうした中に、文章の書き方から文芸の心得まで、それとなく散りばめられています。午後一時から始めて四時半までかかりますが、退屈することはありません。
 清水先生は鈴鹿市在住です。鈴鹿の場合は、これで終わりと思ってはいけません。近くの喫茶店に席が用意してあって、出席者の半分程度が流れ込みます。また用があって来ることの出来なかった人が、この喫茶店に顔を現します。七時頃になると、さすが家庭の主婦達は帰り始めますが、残ったものは食事をして、その後延々十時まで雑談が続きます。私はもう眠たくなってしまうのですが、最後まで一番よく喋るのが八十七歳の清水先生です。こんな鈴鹿土曜会が五十年近くも続いているというのですから、呆れるというか畏れ入ります。
 なぜこんな話を持ち出したかといいますと、同人雑誌と言う一つのグループを超えているだけでなく、ジャンルも地域も超えて行われている合評会だということです。津の者が鈴鹿に来たり、鈴鹿の者が津に行ったり、四日市の者が鈴鹿に来たり、行ったり、名古屋からも岐阜からも来ています。合同で忘年会を行ったりもしています。一つの枠を超えた文芸合評会のあり様が、地理的感覚を薄め、鈴鹿の私が津の海牛で小説を書く切っ掛けを作り出した、ということが出来ます。話のあったとき、私は最後に、清水先生の自宅を訪問し相談しました。いともあっさりと「それはいいことや、大いにがんばってん、あの二人に潰されんようにな」私の身をさほど案ずる事もなく、冷たいのか暖かいのか分らないような、あっさりした言葉でした。私は、この機会を逃がしては自分が小説を書く機会はないだろうという思いもあったので、兎に角やってみることにしたのです。
 そうして当初に記したように十六号から書き手は三人となりました。ところがこの十六号、旭の「石の柩」私の「骨を抱く」の二作が同時に文學界同人雑誌評でベスト5に取り上げられたのです。やはりこういうところで取り上げられると、大きな励みになります。旭の「石の柩」は『季刊文科』四号に転載されました。さらにこの年は、それまでの評論活動が認められ私が三重県の文学新人賞(評論部門)、岸田淳子は前年に書いた「漂流」で第十回中部ペンクラブ文学賞を受賞しました。この一九九九七年という年は海牛にとって特別な年となりました。
 その後、二〇〇一年に私が、海牛二十号の「手絽女山行行」で第十四回中部ペンクラブ文学賞、岸田の海牛二十一号「ことば」が季刊文科十九号に転載されました。現在、海牛は二十六号を重ね、平均年一回という遅々とした歩みですが、挑戦することを忘れず、確実な一歩を進めて行きたいと思っています。



 自分の所属する海牛を中心に、三重の文学事情を交え記してみました。しかも私が小説を書き始めた時からという、限られた〈今〉の視点からですから、三重の文学事情の全てではありません。小説中心では、海牛よりずっと古い老舗が、四日市では『海』、鈴鹿で『火凉』、亀山で『方圓』、津で『文宴』、『あしたば』といった同人雑誌が現役で活動しています。比較的新しい冊子や個人誌、評論や短詩を中心としたものを含めると、ここに挙げることが出来ないほどです。
 最後にひと言、海牛は全同人が書いても三人です。冊子の厚さも知れています。私のような新米の作品でも、丹念に読んでくださる方が多いので、ありがたく嬉しいことです。少人数であっても、ありがちな井戸の中の蛙に陥ることもなく、大勢の中で揉まれているため、少数のメリットと多数のメリットと、両方いただいています。この三重での特徴を生かして、三人三様それぞれの小説世界を切り開いて行きたいと思います。(「文芸思潮」18号掲載)