・年2回発行
・A5判、180ページ前後
・700円

代表・事務局
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● いつも創刊号のつもりで   代表 中村賢三


 同名の文芸誌が創刊されるという広告を、「群像」12月号で見たと知らせる人があった。その数日後の07年12月19日付け朝日新聞の文化欄に「弦」創刊という見出しの大きな記事が載った。高名な方が立ち上げ、「言葉を奏でる楽器の弦、文芸の閉塞状況を穿つ弓の弦のイメージを重ね名づけた」と命名の由来が述べられていた。自分の子どもが見知らぬ衣装を着て、突然向こう側に立ち現われたように思え、面食らった。
 わが文芸誌「弦」は創刊して43年、次号で83号を数えるが、自慢ではないが一度としてこのように新聞の紙面を飾ったことはない。
「弦を奏で文芸の閉塞状況を穿つ」というような高邁な言葉は私には言えそうもないと、その記事を見て思った。

 昭和三十年代のこと、新聞社やマスコミが開催する文学講座などは、未だなかったころ、永井勝という無類の文学壮士が『名古屋文学学校』を開設し、地元の作家や教育者を講師に頼んだ。思想家の本荘可宗、哲学者の真下信一、評論家の丸山静、江戸文学の尾崎久弥・三好信義、「北斗」の木全圓寿、「作家」の小谷剛・曽田文子、短歌は浅野梨郷、俳句は山田麗眺子、随筆は岡戸武平など多彩な人たちがほとんど手弁当で協力した。会場は愛知県庁近くの水産会館で、文学好きの若者が群れるように集まり、小説サークルができ、いくつもの同人誌も生まれた。そんななか「新樹」(戦後すぐ名古屋で発行の雑誌とは異なる)と「草」という同人誌が合併して「弦」を創刊した。東京オリンピックの翌年、一九六五年のことである。ベトナム戦争が拡大し、ベ平連などの反戦運動の声を他人事でなく感じたころである。
 一九四九年に戦後第一回芥川賞を『確證』で受賞した小谷剛が「作家」を主宰していた。作家同人の曽田文子が「弦」の指導者であったから、「弦」は「作家」の弟分のように見られていたが、我々は「作家」も「弦」も同人誌にかわりはないという誇りを持っていた。曽田は自身も芥川賞候補にのぼったこともある名古屋では気鋭の作家で、テレビドラマの作品なども手がけていた。明るく開放的で小さなことに拘らない性格は人の心を捉えるものがあった。
 同人誌は三号で潰れると、よく言ったものだが、「羅針」「熱風」「風」「未開地」「造子」そして「無名」という同人誌が次々と消えていった。それらの同人誌の中からどちらかといえば取り残された人、それでも書かねばおられない人たちが「弦」に合併する形で加わった。曽田の「一緒になってやりなさい」という明快な一言に仕切られた。         
 そのころから「弦」は閉鎖的にならず、外に窓を開いて志のある人を受け入れて一緒になってやってきた。これが「弦」の特徴でもあった。曽田は一九八三年に病魔に倒れたが、遺志はその後四半世紀も続いているのである。「作家」を継いだ「季刊作家」が先ごろ休刊するという。事情はあるにせよ、そうなる前になぜ手を打たなかったのかと悔やまれる。同人誌の危機は、原稿が集まらないとか、事務局がなくなるとか、資金難などが原因となる。我々「弦」でも、一再ならずあったが、そのたびに皆で知恵を出し合って続ける努力をしてきた。
 同人誌の中には自分らの書いた作品を合評するだけに集まるという会があると聞いて驚いたことがある。また、ある詩を中心とする会では、自作を朗読するのが主で、批評は一切なしと聞いてさらに驚いた。活発な合評は視点を広げるのに役だつし、何よりも自己陶酔に鉄槌を下す神のような存在でもあると思っているからだ。
 我々「弦」は毎月欠かさずに読書会を続けて四十三年に及んでいる。古今東西の小説から現代の話題の小説まで、作品を決めて読んできて話し合うというそれだけのことだが、各々の浄化作用とも活力源ともいうべき効用がある。同人が分け隔てなく意見を述べ合い、耳を傾ける。時代の風潮に流されない文学が見えてくる。たとえば老い、病、死に係わる現代の小説のテーマをどのように捉え、感じているのかを考えてみる。俗にまみれないで自分の文体で表現してみたい。自分史であれ、私小説であれ、とことん自分と向き合ってみたい。社会や環境のテーマであれば真がどこにあるのかを見極めたい。
 小説を書くことはたとえ虚構の世界であっても、真実を超える力もあると信じたいのだ。同人はいつも数十人で全員が書き手である。メンバーは少しずつ代わってはきたが、この精神は受け継いで伝えていきたい。
 文学は耕して耕して自分を創っていくものであり、自分がいくら愚鈍であろうとも、それでも書かないではおられない。まさに「初心忘るべからず」と、いつも創刊号を出す気概でいたいのである。(「文芸思潮」23号掲載)



例会後の忘年会 2007年12月