文学復興の砦をめざして 〜同人雑誌のネットワーク化を〜



文学街

・月刊発行
・A5判、80ページ前後
・価格500円

文学街
〒168・0065
東京都杉並区浜田山二・一五・四一
エ03・3302・6023



●「文学街」紹介

「文学街」は、美馬志朗さんの肝いりで昭和三二年(一九五七)六月五日創刊された。創刊号は、「白い肌の男」森啓夫、「雪どけの森」(第一回)神原泰成、「十円玉」井坂喜平(美馬志朗のペンネーム)、「女王蜂」若山純一、「再び文化財保護運動を提唱する」斎藤實(森啓夫の実名)、美馬さんの知人・河西一郎氏の口語歌、神谷瓦人氏の俳句で編纂した59頁の活版刷りで、編集後記はぼくが書いている。
 第一回の合評会は六月九日一時〜五時、新宿駅西口近くのぼくの下宿先、その後の合評会も毎月第二日曜日が定例化し、会が終るとみんなで西口の飲食街にくりこんで時を忘れてはしご酒。最後には美馬さんとぼくの二人で気勢をあげて別れるのが常のことだった。
 二号誌からぼくは「だす・ルーペ」の連載をはじめ、二年の余発表してきた。
 創刊当時は四人の同人だったが、半年ほどして二〇名の同人となり、年が明ける頃には毎月のように加入者が増え、想定外な大所帯の同人誌となった。
 森田雄蔵・川村晃・宮林太郎・松本一氓・鎌原正巳・一瀬直行・松本孝・小沼燦・鈴木重生・関谷雄孝・畑山博・大野正巳・中山新次郎・土屋明の各氏らの力作・名作によって「文学街」はゆるぎない同人雑誌と評価されるに至り、川村晃「美談の出発」が芥川賞受賞、その後も畑山博が芥川賞受賞して文壇にデビューした。
 そんな折、美馬志朗さんが癌で倒れ、薬石効なく急逝され、「文学街」は休刊を余儀なくされた。
 それから三〇年、ぼくはいくつかの同人誌に参加して勉強し、昭和四八年〜五〇年にかけてのオイルショックによる不況の中で、森田雄蔵・宮林太郎・森下節・森啓夫の4Mトロイカで全国同人雑誌作家協会を創設、昭和五〇年一〇月一二日東京厚生年金会館(新宿)で、丹羽文雄氏を会長とした第一回全国大会を開催し、以後は協会の使命に徹してきた。同人雑誌からの文学復興である。だが、二〇年近くを経て、4Mトロイカの3M(森下・森田・宮)が次々と他界され、独りになったぼくは協会理事長の重責にたえられなくなり、辞任・退会した。
 しかし、同人誌が文学復興の砦であるという思いは強く、その夢を実現したい一念で、「文学街」の復刊を美馬志朗さんと共にご苦労されてこられた美馬美代夫人の許諾を得て実現させ、今日に至り、既に一二年目を迎えた。ひとりではじめた復刊「文学街」は、全国からの支持者を得て現在は同人三六〇名(うち書き手一二〇名、読み手二四〇名)同人費は共に年三千円である。
 昨今の日常は雑誌づくりに追われ、老骨にむち打っての毎日である。年に一度の「作家&読者交流の集い」も年々盛会、八〇名近い方が全国から上京され、交流の輪を広め、深め合っている。全同人に支えられた「文学街」は、同人誌復興の夢を少しずつ夢をふくらませつつある。
 が、路は険しく、登り坂あり下り坂あり、気の緩む暇もない。幸い、同人雑誌結社は年々減少していても、書き手人口は増えている。若い書き手も多い。同人雑誌の老齢化など悩むほどのことではない。活字文化の衰退もいっときの流行り病、騒ぐほどのことでもない。
 悩んだり、騒いだりするのは一種の甘えではないか。新人賞や芥川賞作品を云々する近視眼的な発想から脱却し、大地に己の根を下ろした自分のベースをとことん貫く根性を大切にした作品を同人雑誌には刻みたいものである。
(文学街主宰・全国同人雑誌振興会会長/森啓夫)
(「文芸思潮」29号掲載)




1975第1回全国同人雑誌作家協会の総会。座っている左から森啓夫、作家の水上勉、会長の丹羽文雄



2009.3.28東京・神楽坂の日本出版クラブ会館での「文学街の集い」。全国から80人が集う賑やかな会となった。出席者は全国同人雑誌のネットワーク化などの提唱に共鳴していた