「原爆」を文学の場にすえて 〜半世紀をつらぬく気骨の誌〜


安藝文學

・発行年1〜2冊
・A5判180ページ前後
・価格800円

安藝文学事務局
〒732・0002
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エ082・229・2869



●「安藝文学」紹介

 地元の中国新聞が「新人登壇」の名で短編募集を始めたのが昭和三十年、爾来、名は変えながらいまも継続しているが、「安藝文学」創刊のメンバー集めはその入選者が対象だった。数人応じてきた。まったくの見ず知らずのあいだでありながら、企てに応じる有志がこうもいたのであった。
 半世紀を閲した。現在、77号を印刷中で、予定どおりの誌齢を重ねているわけではない。集まった原稿はすべて掲載するという方針はとらず、よい、とお互いが認め合えるもの、新たに加わってきたものの作品を優先的に掲載、といった定めは、いまも継続する。いっときは百名を越える同人登録をみたけれども、いまは半減、そのほとんどは古参メンバーである。
 毎月発行の「会報」が相互の紐帯たり得たのであった。エッセイ、月例の同人会で扱った作品すべての寸評・紹介、同人消息をその内容とする「会報」は、530号をこえる。
往時には、この「会報」で「私小説」をめぐる論争を続けたこともあった。
 また、「原爆」に関わる諸活動もあげておくべきだろう。たとえば、岩波新書のルポルタージュ『この世界の片隅で』に参加したことをきっかけに胎内被爆による「小頭症」を原爆症に認定させる行政機関への行動の主役を担ったのも古参同人であったし、ほるぷ出版の『日本の原爆文学』全15巻の編集・刊行に与ったりした。
「原爆」を文学の場にすえ、ヒロシマの責務として担うにいたる最初の動機づけは、「文學界」の「同人雑誌評(山本健吉)」(昭和27年9月号)であった。「広島文学」3号(昭和27年5月刊)に対する徹底的な酷評がインパクトを与えた。ゲンバクのゲの字もない広島の雑誌とは! という激語が二ページにわたっていたからである。(前年3月に自死した原民喜の詩碑をその年の暮れには建立していながら、誌面には「夏の花」にふれた一行もなかった)
 それからのち、広島では、「原爆文学論争」を重ねるようになった。「同人雑誌評」が現代文学の最もパセチックな主題を見いだす契機を醸したのである。

 同人たちは北海道・東北から各地に散在しており、月々の同人会に参集するのは、多くて二十数名、それらは構成メンバーの主立つなかまであって、二十代が皆無というのは全国的な傾向にならっているかのようだ。
 梶川洋一郎の「雲の向こうのメメント モリ」は、広島の元憲兵を主人公にした、反時代的な素材に敢えてチャレンジした労作である。好尚に背を向けたありようを認めたい。(編集発行人/岩崎清一郎)
(「文芸思潮」29号掲載)