後藤 順




ぐずる殺意



子どもとは親を愛するものなのか
殴られ蹴られ痛みをためこんで
義理、義理と
生まれた有り難みを飲み込んでいる
なぜに泣いて生まれるのか

小部屋はタバコの煙でどよむ
ムツキに蒸れ泣く赤ん坊は私
粉ミルクを湯煎する女は母
無銭で苛立つ男は父
当たり前と言えば当たり前がある

愚痴のは容易い
お前が悪いというのに
正義の味方はいつも現れず
女はくすぶり泣く知恵を使い
男は厚い筋肉を持て余す

一枚の汗くさい蒲団に
どんより眠る三つの人間がいるのを
私がじっと遠くから見た記憶に
息苦しく挟み込まれている
親だから包むと

確か、右手の痣は男が抓った跡
背中の黒い縫い跡は
女が自殺しようと私に刺した
包丁がじゅわじゅわと血を手招きした
その結果で私は作られた

男なら父と呼び
女なら母と呼ぶ
どこにも屁理屈を宿せないのに
笑って生まれてこなかった
世間並みの言い訳が浮かばない

いつか父も母も殺した
おどろおどろしい殺意の中で
垂れた男根が放尿する
黒い乳首が行水する
老いた人間を私は抱きすくめる

私が抱く赤ん坊はぐずる
幾度もムツキを換え
殴り蹴りした怨念を洗っても
殺意はいつもぐずる
途方もない人間の原罪は消せない






へたり込む狼


牙をむき出して吠えかかる
そんな狼が歯槽膿漏だと知ってから
腹が垂れ下がり
太り過ぎて糖尿ぎみだと告白されても
あんたは
狼ではなく野犬だと
DNA鑑定を受けてみろなんて

雪の中で血だらけのウサギ
橇を走らす人を追う姿
桃色の歯茎を見せつけては
怖い、怖い過剰な涎が直垂落ちる
目つきをサラ金業者に似せて
誰も禿げた頭や手足のことなど
格好だけで世間は恐がる

もう疲れたよ
裏木戸からトントンと
肉屋で買ったマトンの枝肉を土産に
平均寿命を過ぎた狼が
僕を訪ねた来たのは一期一会だ
散歩途中のお前にやった
賞味期限の切れたビーフジャキー

俺なんか、俺なんか
もう子孫も残せない最後の一匹
毛も抜け落ちた姿なんぞ
悪いけどウサギの毛皮を貸してくれよ
肩を落とした狼は狼ではない
野良犬のひもじさを涎に
僕に甘えるのは惨めだ

一緒に羽根布団で眠る
抜けた牙は歯磨きもせず臭い
腹水を溜めた吐息から
生肉を食べたいと漏れてくる
僕の背中に爪を立てる
目脂が蒲団にこびりつく
明日には風呂に入れてやろうか

真夜中に起きての遠吠え
近所からの苦情の電話
警察官がもうじきやって来るのか
狼はさようならも言わず
暗闇の臭いの中を走ってしまう
蒲団に残った脱糞したシーツを
洗濯機が苦笑いで迎える

どこかの路地裏で
へたり込んだ狼を見たら
それは僕の弱音です
歯医者に通って養毛剤をつけて
狼の皮をかぶった僕は
明日にでも猟師に撃ち殺される
それが人生なんですから





すねる三味線


祖母が都々逸をうねる
仏壇に向かう朝餉の日常に
自分を囲った男が眠っているなど
孫の僕に告げはしない

芸者置屋は化粧臭い
生理臭を幾枚もの紙で覆った
赤い襦袢に色を隠した
十六娘の固い乳房を抱いた
祖父の傲慢な異臭に
ほの朱い女は震え喘ぎ眠る

祖父の遺骨が魚の小骨ほど
貰う受けた情婦の苛立ちが
母に募ったのは十六だったのを
祖母は障子紙を貼りながら男を待った

思い出せない昔話だよ
少女ほどの祖母の屍を抱き上げた
黴が詰まった記憶が蠢く
三味線がぶれる音から
小娘が母を孕んだ伝え話に
何せ男は道具のように女を遊んでさ
藻掻いてもがいて
指に滲んだ血塗りのバチなんぞ
糸巻きの生き方に
窶れた長屋で女は女を産んだ

満州国が滅んだ日々
襤褸ぎれの遁走に従う祖母のお尻に
排便の父が従う
いく振りもの首が路端に
長い髪を切り坊主頭の祖母がいる
長春から釜山まで
男たちの乱舞した血糊の中を

一の糸から二の糸へ
三の糸まで共鳴する荒れた時に
弾き続ける三味線が弔う
命の儚さ生きる辛さ

痩せた心に祖父は枯れた
肺臓も肝臓も窶れてゆく
祖母のすねた冷えた視線が
空しく哀れに口惜しく
三味線を弾く後ろ姿の震え
落ちぶれるなど容易いと笑う
老人保健施設の末期に

どこか押入の黴くさい奥の奥で
すねた音色が晩秋に響くのを
母は耳を塞いでは夜に墓参り
いつか地の国で逢えるはずなのに
三味線は這い出るときを待っている