母の親友・・・・・・・・・・渡辺裕香子




 ある朝、突然電話のベルが鳴った。受話器を取ると、
「ゆかこさん?」
 と、年配の女性の優しい声が聞こえた。親しげなのに、聞き覚えのない声だった。私を「ゆかこさん」と呼ぶ人は、学生時代の友人だけである。この方はどなただろう?

「――私、五十嵐です」

 その名前を聞いた途端、なつかしさがこみ上げてきた。

「五十嵐さん、お久しぶりです! お元気でしたか?」

 五十嵐さんは、十八年前に亡くなった母の、生涯の親友だった。

 趣味の句会で弘前(青森県)まで行くことになり、そのときに母の墓参りもしたいので、お寺の名前と行き方を教えてほしいということだった。

 五十嵐さんと母は、中年以降は共に俳句を趣味にし、お互いに誘い合って、母の住む弘前と、五十嵐さんの住む東京の俳句の同好会に入り、投稿したり一緒に吟行や句会を楽しんでいたのである。五十嵐さんは、母が亡くなったあとも、弘前の句会を続けていたのだった。

 私がものごころついたときから、山形生まれの五十嵐さんの名前はたびたび母の口に上った。母は五十嵐さんと頻繁に手紙をやりとりし、電話で語り合い、教員をしていた母が出張や旅行で東京に行くたびに五十嵐さんに会って交流を深め、最後には俳句仲間となった。

 しかし、私が五十嵐さんに会ったことがあるのはたった二回だった。大学進学のため上京し、新宿のデパートで母に紹介されたのが最初だった。五十嵐さんは、私が着ていた若草色のコートに合うスカーフをプレゼントしてくれたが、挨拶をしただけで特に会話することもなく、お別れした。

 二度目がその十八年後、母の葬儀のときだった。

 母は、父が亡くなってから八年間ひとり暮らしをしていたが、しばらく体調を崩して医者にかかっていたがなかなか治らず、大学病院に行ってみると、即、検査入院となり、一カ月後にあっけなく亡くなってしまった。母の体は末期ガンに侵されていたのである。

 私は結婚して神奈川に住んでいたが、十カ月の身重で臨終の母の元に呼ばれた。何が何だかわからないまま一歳半の長女を連れて駆けつけると、母はほとんど意識をなくしており、翌朝には亡くなってしまった。

 五十嵐さんは、旅の途中で母を見舞って帰京したばかりだったが、突然の訃報にご主人と一緒に葬儀に駆けつけてくれた。

 あまりに突然のことで茫然自失になっている私に、五十嵐さんが「ゆかこさん」と、声をかけてくれたのを覚えている。私は感情が麻痺したようになり、泣くことすらできないでいた。自分に優しく声をかけてくれたのが五十嵐さんだとはわかったが、無表情に会釈しただけのような気がする。あとのことは何も覚えていない。

 その後、私は出産、育児、家事、仕事と、日々の生活に追われ、母のことはおろか、五十嵐さんのことも脳裏から消え去り、さらに十八年の歳月が流れた。

 五十嵐さんと母は学生時代の親友というだけで、その学生時代のようすを、母が語ってくれたことはなかった。

 しかし、子どもたちが成長し、時間の余裕ができて、母の遺品を整理できるようになると、思いがけず、母の学生時代の日記が出てきた。

 日記には、東京で学生時代を過ごしていた母たちが、卒業間際に名古屋の飛行機工場に学徒動員され、終戦まで過ごした苛酷な数ヶ月のことが詳しく書かれていたのである。母の回りの人たちによると、母は若い頃文章を書くのが好きで、暇さえあれば、いつも何か書いていたそうである。この日記も、一日のできごとが数ページに亘って書かれていることもあって、そのことが伺える。食べ物も娯楽もなく、死と隣り合わせに生きていた日々の中で、書くことが母にとって大きな救いになっていたのだろう。

 日記の中には頻繁に五十嵐さんのことも出てきていた。結婚前の名前で書かれていたので、最初はすぐに気がつかなかったが、山形出身という下りがあって、五十嵐さんだということがわかった。苦しい環境の中でふたりが友情を暖め、将来教師になるために励まし合って生きていたことがよくわかった。

 母は青森県の町医者の家に生まれたが、生みの母を早く亡くし、継母は厳しく愛情の乏しい人だったようである。母の日記によると、父親が軍医として五十歳をすぎて出征してから、生活に困った継母は、女学校を終わったばかりの母を、農家の人と無理やり結婚させようとした。それが嫌で母は親戚を頼って家出し、自立を目指して、授業料のかからない東京の臨時教員養成所を受験して入学した。そこで、生涯の友、五十嵐さんに出遭ったのである。

 卒業間近の一九四五年三月から、全員、名古屋の飛行機工場に動員され、寮住まいをすることになった。軍需工場が集中していた名古屋は、前年の十二月から終戦まで、大小で五十以上の空爆があったそうだ。暑くなると毎晩蚤に悩まされ、また空襲警報も頻繁に鳴って、そのたびに防空壕に飛び込まなければならず、睡眠不足の毎日が続いた。

 山形県出身の五十嵐さんと、青森県出身の母は、背格好も同じで、同じ東北のせいか、よく似ていて級友たちに見間違えられたことがあったようだ。しかし、終戦近くなると、連日の豆雑炊で母は下痢が続き、すっかりやせてしまった。

「これで見分けがつくわ」、と、冗談交じりに級友に言われたという記述もあった。

 臨時教員養成所には、自立を目指した若い女性達が日本各地から集まっていた。しかし、名古屋の空爆の恐怖とひもじい生活に耐えきれず、大勢の仲間が次々に学校を辞めて郷里に戻って行った。引率の教師も、若い女性が無駄に命を落とすことに胸を痛め、暗に帰郷を勧めるのだった。

 しかし、家出してきた家におめおめ帰っても、意に添わない結婚が待っているだけの母は、遺髪を用意しながらも、
「絶対生き延びて先生になりましょう」
 と、五十嵐さんと励まし合った。

 母たちは全員無事に終戦を迎え、半年遅れで九月に卒業に漕ぎつけ、母は岩手県で、五十嵐さんは郷里、山形県で教員になった。

 その後、母は青森県に戻って弘前で教職に就き、結婚と子育てをしながら、亡くなるまで教員を続けた。五十嵐さんは結婚して教員を辞めて東京に移り、専業主婦の生活に入ったが、青森と東京での友情は四十年近く続いたのである。

 母が生前、名古屋での体験を話してくれたことは一度もなかった。「戦争中、名古屋で飛行機を造っていたのよ」とポツリと言ったことを覚えているだけである。それがどういうことなのか、子どもの私にはわからなかった。母は二十歳のころのつらい思い出を語りたくなかったのかもしれない。語っても、平和な時代に生まれた私には理解できないと思ったのかもしれない。しかし、、私が人生経験を経て、理解できる年齢になったときまで生きてくれていたら、母はきっと語ってくれたのではないだろうか。

 若かった頃の母は明るく可愛らしく、些細なことに楽しみを見つけることのできる人だった。母は厳しい時代に希望を失わずに生きていた人だった。日記を読んでそのことがわかり、私は母のことを、改めて誇らしく思った。

 母の日記を読み終えて、五十嵐さんのことを思い出し、五十嵐さんの消息を知りたいと思うようになった。五十嵐さんに会って、母のことを聞いてみたいと思うようにもなった。

 そしてふと思い立ち、母の姉である伯母に聞いてみた。伯母も俳句を趣味にしていたので、五十嵐さんとは細々と交流があったらしいが、伯母と私の間で、それまで五十嵐さんのことが話題になることはなかったのである。

 伯母によると、五十嵐さんは数年前にご主人を亡くし、子どももいないので、東京の家を処分し仙台に行ってしまったということだった。私は失望した。五十嵐さんに会いたいと思っても、東京ならすぐに会いに行けるが、仙台だとそう簡単にもいかない。仙台は東京と青森の中間だったが、私には見知らぬ場所だった。五十嵐さんは遠くに行ってしまった、そんな気がした。

 しかし、何という偶然だろうか。それから間もなく、あの朝、五十嵐さんから電話がかかってきたのである。

 五十嵐さんは、今は仙台で、独身の妹さんとマンション暮らしをしているそうである。「郷里の山形に近くて、お墓参りが頻繁にできるので」と、五十嵐さんは言った。

 八十歳になった五十嵐さんの声は、そうは思えないほど若々しかった。能力がありながら、夫の望むまま、家庭に収まって生きてきた人。生涯の友を亡くし、さらにご主人を亡くしたのに、運命に逆らわず、生きることの喜びも辛さも胸に秘め、美しく年を重ねていることが、電話の感じでわかった。

「今度、仙台に会いに行きます。母の若い頃のお話を聞かせてくださいませんか」

「私ももう年なので、早く来てくださいね」

 私たちは再会を約束して電話を切った。