私の「点と線」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 和木亮子

 

 

 「ドライブ・イン」という言葉が頭の中で急速に色褪せたのは、それほど前のことではない。「道の駅」という言葉をはじめて聞いたときである。

 マイカーでの旅行が広まって、「ドライブ・イン」はすっかり国内に定着したものと思い込んでいた。そのせいもあって「道の駅」が耳に飛び込んできたときには、ひどく新鮮に聞こえ、感動に値すると思ってしまった。それに幸いといおうか、偶然といおうか「道の駅」特集は我が故郷、北海道であった。ここ数年、ドライブとは無縁になっていたから、旅心までくすぐられる。

 朝食の後片づけなどそっちのけにして、テレビ釘付け人間になった。手が動かなくなっただけでなく、座布団にしっかりと腰を押しつけ、湯飲みのお茶を入れ替えるのも面倒と、冷えたのをそのまま口にふくんだ。

 カタカナ語が巷に氾濫しているこのときに、あえて日本語に言い換えたのだから、何かわけがあるのだろう。いや、公文書の横文字を日本語に置き換えはじめている効果が出てきた、と言えるのかもしれない。

 そんなことを考えながら紹介される駅のあれこれを楽しんでいた。それでいて、もう一方では、松本清張の『点と線』を思い浮かべていた。小説の内容ではない。題名、をである。駅が点で、つないでいる道が線。駅や道以外にも色々ありますよねえ、と。

 今まで気づかないでいたのが不思議なくらい、「点と線」は次から次へと見つかる。鉄道はむろんのこと、流れている川を線と見、架かる橋を点と見ることができるし、空港や港からの線は実際には見えないけれど、乗り物が大空や海原を線条に走って、次の着陸点までを結ぶ。日本から外国へという「点と線」もあれば、地球から宇宙へというコースもある。あれも「点と線」、それも「点と線」これも「点と線」・・・。もはや、テレビの存在など、後片づけ同様そっちのけだ。

 頭の中をさまざまな線が行き交う。長いの短いの、太いの細いの。まっすぐなのもあれば、くねくねしているのもある。行き交う度に、線にみあった点があらわれる。その点が動くと、線は点の言いなり。いやいや、点が線の言いなりなのかもしれない。世の中、どこを見渡しても「点と線」ばかり。よくも混線しないものだ。

 「まあ、きれい」という声に、はっとした。テレビ画面に一面のラベンダー畑が映っていた。

 おお。

 私も感嘆の声を上げる。ラベンダーにではない。たった今、気づいた発見にだ。

 時間と季節には「点も線」もない!

 日はいつしか暮れ、しだいに明るくなる。それがくりかえされて季節が変わる。暖かくなり夏が来て、そうこうしているうちに涼風が吹き、寒い冬が訪れ雪が降る。そうして春は、また巡ってくる。

 と、だれかが、ちょっと待て、と囁いた。時間や季節にだって、「点と線」はあるよ。時計と暦が点だろう。

 まっ先に桜前線が浮かんだ。平成十七年、ソメイヨシノは五月一日に津軽海峡を渡り、札幌での開花は十日だった。

 桜前線だけではない。季節上の点はまだある。二十四節季をはじめ、八十八夜、二百十日、寒の入り・・・・・・。祝日や記念日や祈念日。お祭にいたっては季節と同義語ではないか。

 頭の中でめまぐるしく暦をめくっていたら、アメリカから里帰りした浮世絵展を観に行ったときのことを思い出した。第二次世界大戦で大敗した日本に駐留していたGHQが持ち帰ったものではなかったか。

 アメリカへ渡った経緯、その他を詮索する気などさらさらなかった。他の観覧者が肩越しにのぞいては追い抜いて行く。ぶつかってきて足を踏まれたりもする。けれど、そんなことは気にならない。ああ、わたしたちの祖先は、こんなすばらしい作品を作っていたのだ。ただただ胸が熱くなるばかりだ。それに、英文のタイトルや簡単な説明を読むのも楽しくてならなかった。

 七草の繊細な版画に出会ったとき、ゆるゆる進めていた足が止まった。アメリカ人は、七草をどのように表現するのだろう。興味津々で英語で書かれたタイトルを読む。

 すると、たったのスプリング・グラス、オータム・グラスだけと素っ気ない。一つひとつの草に、きちんの名前がつけてあるのに、だ。アメリカ人は春秋の七草には関心を示さなかったということか。七草を雑草としか思わなかったということか。つまり・・・・・・わたしたち日本人がひときわ季節に敏感、ということになるのではないだろうか。

 とつぜん、巨大なビルをこわすほどの鉄槌で頭を打たれたような衝撃を覚えた。アメリカという国に対して抱いていた私の認識が大きくゆらいだのである。

 終戦を八歳で迎えた私は、戦後の食糧難をアメリカから送られてきた小麦粉や缶詰めなどの食料で、どうにか飢えをしのぐことができた。くじ運が悪く、私は当たらなかったが、ララ物資の靴とか洋服をもらえて嬉しそうに抱え込んでいたクラスメートのことも目に浮かんでくる。たぶん、医療品や薬も贈られていたはずだ。なぜなら、その混乱期に私は虫垂を破裂させ、生死の境をさまよったがペニシリンのおかげで生還できたのだ。

 アメリカという国は者が豊かなだけでなく、それ相応に気持ちも鷹揚であるという認識から、私は抜けられないでいた。日本が原爆でダメージを受けたことも、個人のアメリカ兵が日本の女性に乱暴をはたらいたことも忘れてはいない。けれど、自分がこのとしまで生き延びることができたということが、奇跡として私の脳裏に焼き付いている。敗戦国の者である私たちを放ってはおかなかった。なんとか生き延びることができるように、と手をさしのばしてくれた。それが、アメリカなのだ、と。

 そんな思いを、七草のタイトルが打ちくいたのである。

 アメリカ人は日本人の繊細な芸術魂に感動して浮世絵を持ち帰ったのではない。戦争に負けた国からの戦利品として、略奪品として、むしり取っていったのだ。よいものかどうかはどうでもよい。この、戦争に負けた国の者が大事にしているものならば持ち帰らなければ損だ、という、ただ、それだけの理由で。

 そういえば、正倉院の御物が公開されたときの美術番組で、解説者が言っていたこととも符合する。GHQでも階位の高い軍人に倉に案内させられた人が、とっさの機転で倉を開けなかった。それで、こうして残っているのだ。もし開けていたら、御物はすべて持ち去られていたであろう、と。私は展示会場まで足を運んだことはない。テレビだから、そのような打ち明け話を聞くことができたとも言える。

 右手で貧しい者を救いながら、左手で日本の芸術品を持ち去った。アメリカもまた、勝てば官軍だったのである。七草の版画は、私の胸の内を鋭くとがらせたフォークでひっかきまわした。いい加減ずたずたになったとき、拘るまい、拘るまいという声が聞こえてきた。

 声は、なおも囁く。

 こうして、日本の美術品として残っていることを、ありがたい、と思いなさい。アメリカが保持していてくれたおかげで、あなたは気がついたのですよ。日本人は季節に敏感な国民である、ということを・・・・・・。そのことを幸せに感じなければね。

 

 季節の移り変わりを愛でながら、時間を気にして暮しているうちにとしをとり、やがては此岸から彼岸へと旅立って行く。

 人の営みという線の上に厳然と居座っている時間という線。この線を目に見えるようにしてくれているのが同じ線上を行く季節であった。この季節についても、日本という、この国に住む私たちは敏感に反応していたのだ。この反応できるという国民性。私も、その中の一人だったのである。

 そう気づいたとたん、私の頭の中に、「道の駅」が起点となって引かれた無数の線が、ありありと見えてきた。まるで、アメーバ―がのばしている触手のようだ。この線は何? どうやら、私の時間の「点と線」らしい。

 もしもし、時間さん、あなたはどこへ行くの?

 どこまで行くの?

 いつまで歩きつづけるの?

 いくら訊ねても答えてはくれない。さあ、と首を傾げてもくれない。振り返りもせず、歩みも止めず、ただただ、次の点をさがして先へと進み、線をのばす。

 点を見つけても、通過はするが立ち止まらなかった。また新たな線を引くために進んでいく。ちっとも急がない。あわてもしない。常と変わらぬ速さで粛々と進んで行くだけだった。