漆畑晨斗





かつて冥王星が、「惑星」と呼ばれていたとき




筆者からの前口上-


私とほぼ同世代の方たちならば、きっと覚えているフレーズがある。誰もが熱狂し、その特殊効果に驚かされた、ジョージ=ルーカス監督の映画『スター=ウォーズ』である。

その映画の冒頭の字幕に流れたのが「昔々、銀河系の彼方で…(So long ago、 far、 far away for our galaxy…)」だ。

まだ、「昔々…」というには程遠いが、私たちの太陽系の1メンバー、かつて「惑星」と呼ばれていた星のお話である。



冥王星-意外にも知られていないその素顔-


実際問題として、冥王星のことを本当にわかっている、と断言できる人はこの地球上にほとんどいない。その表面がどうなっているのか、山や谷は?風が吹いているのか、はたまた季節が巡っているか、そればかりか、この星がどこにいるかも一瞥では分からない。

では、なぜこんなにも、断言口調で…いやいや失礼、さも分かっているかのように説明できるのか?それは、日の高い時間帯は床に就き、お日様が西に沈む頃に起きてくる天文学者という職業に就いている人たちが、光の性質を厳密に調べ、必要があらば光(白色光のことだ)以外の特殊な波長で画像が得られる設計の、非常に強力な望遠鏡を用意して、「目指す天体はここにある」との予報をもとに夜空の一角を探し出す努力の賜物なのだ。

今年は、人間が初めて、人工天体を地球の軌道を回ることを成功させてから50年目の、節目の年となった。人工衛星の打ち上げやコントロール技術は長足の進歩を遂げて、今や天体望遠鏡を宇宙に打ち上げ、観たいと思う天体を見つめることまで出来るようになった。

ただし、1920年頃にアメリカで活躍した天文学者の名を冠した望遠鏡は、宇宙が誕生して間もない頃の、私たちが生を授かった地球さえ存在していなかった昔々の銀河をとらえることは出来ても、冥王星の表面の詳細までは分からない。

一番良いと言われる冥王星の画像ですら、モザイク模様の濃淡くらいしか分からない。どうやら、茶色系統の色が付いてはいるようだけれど。出来の悪いモンタージュ写真、という感想を持たれたって不思議じゃない。



太陽系辺縁事情-見つかるまで-


太陽系第九番惑星、冥王星。どれくらい前から、海王星の軌道と交差して、時にはその内側まで入り込む軌道を回ってきたのか、それは太陽系の成り立ちとも大いに関係がある。

水星・金星・地球・火星・木星・土星は、古くから知られていて、あなたが持っているカレンダーにも、そのシンボル名が(地球以外は)書かれているはずだ。まさか、10進法だからとか、他の3つの天体も加わっているから、などと10曜日のカレンダーを使っている人はいないだろう。

天王星が見つかったのは、正確な星図と、天体望遠鏡を使った天体の位置を測定する方法が確立したためだった。海王星が見つかったのは、天王星の予報位置と観測とのずれから天王星のあるべき位置と・ずれの大きさより、その位置を狂わせる天体の規模の力学的な予測をつけられたから。

未知の惑星-当時は「惑星」と呼んでいた!-は、どうやら海王星よりもさらに外側にいたらしい…。そんな噂が噂ではなくなり、重力の法則という強力なツールを得て-ロールプレイイングゲームが好きな人なら、さしずめ「アイテム」というのだろうか…-海王星を予報の位置から引っ張り、あたかも散歩中の仔犬に引っ張られる飼い主のごとく、ルートからずれる力をもたらす天体の位置と規模が見積もられた。これが、第九番惑星である。



ローウェル-不思議なものに魅せられた男-


アメリカ・アリゾナ州フラッグスタッフに、かつて日本文化に憧れ、また日本に滞在したことのある人物が、人生の後半生を捧げ、地球の兄弟星とも呼ばれた火星を見つめ続けるべく建設を指揮した天文台がある。パーシバル=ローウェル天文台である。

19世紀、火星を観察していたスキャパレリという人物が、本の中で「その表面には溝(カナリ)がある」と紹介した。その本は海を渡ってイタリア語から英語に翻訳され、「運河(キャナル)」と意味も変わることになった。

日本から戻ってきて程なく、パーシバル=ローウェルはその本を手にして、火星の運河から火星の文明を研究しようと思い立つ。人生の前半を日本の研究に費やしたこのアメリカ人は、後半生を火星の研究に費やすことになった。不思議なもの・ミステリアスなものへの憧れと探究心は、人一倍強かったようだ。

残念ながら、ローウェルらが熱中した火星の文明の研究は実を結ばなかった。

しかし、弟子の代、クライド=トンボーが助手として働いていた頃、ローウェルの望んでいたのとは違った形で惑星探索は実を結んだのである。



星の捜索に情熱を傾けた人


トンボーがローウェル天文台の研究助手となった頃には、写真術が天文研究でも活用されるようになっていた。人間の目の感度は、瞳(瞳孔)の開く大きさで決まってしまう。個人差が多少あるにせよ、暗い場所で直径7mmくらいになる。

つまり、ファインダから出る光の束が瞳孔より大きく広がれば、7mmより広がった分は無駄になってしまう。瞳孔の最大径と同じになるように、対物レンズが集めた光が最大限活用されるように、ファインダは設計されている。

目で見る場合は、その瞬間の明るさが勝負だ。しかし写真を使えば、肉眼と違い、光を「蓄える」ことができる。そしてそれが背景となる星に対して動いていれば、日をおいて撮影した写真と比較することで、位置のずれから太陽系の仲間であることが分かる。

トンボーは、当時としては最新鋭の装置であったブリンク・コンパレータを使うことが出来た。パラパラマンガを見るような器械、と思ってくれればいい。写真に写っている範囲で、動いているものがあれば、見つけることの手助けになる優れものである。

こうして、1930年、第九番惑星が発見された。ちなみにアインシュタインの特殊相対性理論は、これよりもずっと早い1905年(一般相対性理論は1915年)に発表されている。

太陽系の外側に向かう新天体の発見は、他の方面にも影響を与えた。たとえ遠くにいる面識のないような人の手柄でも、その人物像が紹介され、研究手法が公開されると、会ったことがなくても親近感を抱いたり、境遇が似ていて・しかも年が近いと、「自分にも出来るはず」という気持ちを持ったりすることはよくあるものだ。きっと、そうした効果が天王星・海王星発見の報に接した研究者に働いたのだろう。



星の名付け親は、当時11歳の女の子


さて、新たに見つかった太陽系の仲間の星・第九番惑星は、どのように名付けられたのだろう?見つけられた星のカテゴリによって、適用される命名のためのルールは変わってくるけれど、第九番惑星に関しては、見つけた人に名付け親となる権利がある、と思ってよい。トンボーさんは、当時助手であったため、事情は少々異なり、ローウェル天文台長のスライファーさんが名付け親となる権利があったそうである。トンボーさんは、何と名付けたかったのだろう。今となっては確かめることは出来ないけれども、それまでの慣習から、惑星なのだから、天王星(Uranus)・海王星(Neptune)と来たことだし、やっぱり神様の名前が良い、と誰しもが思ったようだ。

そして、今にも伝わる、第九番惑星の名付け親となったラッキーガールは、当時イギリス住まいの小学生ベネシア=バーニーさんだった。彼女が朝食に向かう食卓で、お祖父さんとの会話の中で「Plutoが良いわ」と話し、お祖父さんはそれを大学の先生に、それがさらにアメリカにいる同僚の天文学者に伝わったそうだ。

「冥王星」の和訳を考案したのは、天文関係を中心に文筆活動を続けた随筆家・野尻抱影さん。カタカナ名で良いではないか、という意見もあって、特に東京天文台(国立天文台の前身組織)などでは長い間『プルート』と呼んでいたそうである。もし野尻さんがこの和訳を思いつかなかったりすれば、私たちもこの「惑星」を『プルート』、といささか馴染みにくい呼び方をしていたかも知れない。

冥王星の特徴は、太陽の周りを回る軌道が、海王星までの惑星と違って、楕円形をしていることと、その傾き方が大きいことがまず挙げられるだろう。なぜ、他の惑星とはこれほどに違っているのか?

平均的な日本人と言える条件を全て・完璧に備えている人物を探していくと、最後に残ったのは1人だけだった、という結果が出るがごとく、完全な円軌道を描いている惑星というのもそう見つからないものだ。しかし、極端にいびつな楕円軌道というのも珍しい。おまけに、海王星よりも内側に入り込んでくるという、変わった振る舞いをする。そして、惑星の素材や出来かたなどから、冥王星だけは太陽系の天体グループ分けのいずれにも入ることがなかった。1970年代頃から、研究者間でそうした認識が定着していたそうだ。

これは、私も本当に不思議に思っていた。そのグループ分けは、①地球型惑星-水星・金星・地球・火星といった、岩石質の惑星。②木星型惑星-木星・土星。水素とヘリウムを主成分とする、中心に岩石の核を持つ惑星。③天王星型惑星-天王星・海王星。氷を主成分に、やや少ない水素とヘリウムから出来ている。

このどれにも、冥王星は仲間入りしていない。私は、地球型に入るのかな?でも、それなら何で仲間に入っていないのかな、と疑問に感じていた。



旅立ちの日-もしかしたらそこに行けたかも知れないが…


1970年代、アメリカはグランドツアー-「壮大な旅」くらいの意味か-という計画を考えた。その行程は、地球-海王星間で71億kmあまり。もちろん、旅と言っても人間が出掛けるわけではないし、戻ってくるあてもないのだが。

NASAとの取り決めで、カリフォルニア工科大学の研究施設・ジェット推進研究所は太陽系の天体を調べる・人の乗らないタイプの宇宙船を作り上げ、地球から飛び立たせる仕事を受け持っている。ここでパートタイマーとして働いていた大学院生が、一つの惑星に専用の宇宙船を送るのではなく、地球に近い順に次々と訪れていける道筋を見つけた。このアイデアを活かし、予算を認めてもらったのが、「ボイジャー」探査機だった。同じ機体を2機作って打ち上げ、片方がトラブルに陥っても、もう片方が任務を果たす、というコンセプトだった。

幸い、大きなトラブルは特になく、2つのボイジャーは木星・土星を、一方はここで太陽系から遠ざかる道を選び、残った1機が天王星・海王星にまで足を伸ばしていった。しかし、冥王星は地球からの旅人の訪問を受けられず、ここでも仲間はずれだった。



海王星と冥王星の、絶妙な関係は


冥王星の、太陽の周りを1回ぐるりと回ってくるのに掛かる時間、つまり冥王星にとっての「1年」は、地球の248年だ。そして、冥王星が見つかってから2007年の時点で、77年の時間が流れている。人類が冥王星を見つけてからの軌道を移動した比率は、全体の30%あまり、ということになる。つまり、冥王星に関しては、その軌道が完全に確定していない、と言うこともできる。

海王星と冥王星との関係でおもしろいと思えることは、冥王星が2回自分の軌道を回る間に、海王星が3回公転するということだろう。一人の人間が、それを全て見届けることは出来ないため、コンピュータを使ってタイムスケールを変え、数分間で見られるように調整する必要があるけれど、このような振る舞いをする関係のある天体は、結構私たちの太陽系内で他にも見つかっているそうだ。これは、公転周期がお互いに整数比の関係にあるため、「共鳴」している、という人もいる。

ちょうどうまい具合に、海王星と冥王星は周期が共鳴しているために、衝突したり、あるいは冥王星が海王星に捕われたりすることもなく、力学的に(もちろん、太陽系のタイムスケールで)安定した状態にある。ただし、いつごろから冥王星がこのような状態になっていたかについてはまだ分かっていないようだ。それでも、冥王星は当初別の場所にいて、ある時何かの理由で海王星の軌道に接近し、長い時間をかけて現在あるような軌道を回るようになったのだろう、との推測はなされている。



その月が問題解決の鍵だった


冥王星の研究が転機を迎えたのは、間違いなくそこに月が回っていることに気が付いた1978年だろう。地球から見た冥王星系が、ちょうどその月が「惑星」本体の前後を横切るような位置関係になっていたために、冥王星本体の反射の具合を変えたため、発見に至った。そこで発見に使われたのは、空飛ぶ天文台・ジェラルド=カイパー空中天文台で、発見者はクリスティさんだった。

クリスティさんがその観測にどのような気持ちで向かっていたのかは、私は知る機会がないけれど、推測するに、いつもどおりの・何の変哲もない観測だったのに違いない。それだけに、興奮も大きかっただろう。間違いがないか、確認の手順を頭の中で思い起こしていたのかも知れない。

天文に限らず、何か見つけられる、という気持ちは大事だけれど、あまりそれが強すぎると見えないはずのものが見えた、という予断につながるし、機械的なデータ処理にこだわりすぎると、わずかな変化のサインから歴史を書き替えるような観測結果を見過ごし、研究者としての名誉やモチベーションにとっては大切な一里塚でもある「第一発見」の手柄を、他の観測者や研究者に掠め取られることになる。それが最も大事、というわけではないが、研究姿勢を考える上ではおろそかにしてはならない要素だ。

この発見のおかげで、冥王星の質量や大きさ、ひいては密度を、大まかな推測に頼っていたものが力学的な根拠から高い精度で計算から求められるようになった。海王星の軌道を乱すだけの質量を持つ、という出発点から上限が求められていた冥王星の質量と大きさは、この時点でかなりすぼまり、地球の月よりも小さい直径2300km程度、質量は地球の0.21%、密度も大量の水やメタンの氷に、岩石が若干混じった程度の角砂糖大で2.03gである。

この軽さから、冥王星発見当時の見積もりは、海王星の軌道の観測誤差から来る過大評価だったと考える人は多い。また、研究論文には、冥王星の発見当時の大きさが、観測精度の向上による見積もりの下方修正されていく値を縦軸に、時間(西暦年)を横軸に対応させて、グラフに変動曲線を描いたものがあったそうだ。その論文執筆者は、冥王星の質量変動曲線がゼロとなる時間を読み取り、「冥王星は1980年代に消滅し、90年代に再び現われる」とする予測を立てたのである。

もちろん、この論文の予測したように、冥王星は一度消滅し、再び出現した、という観測事実はない。この論文は、冥王星などを主に扱う研究者の間では、一種のジョークとして受けとめられている。



ついに登場した、天体観測最強のツール-そして「その日」は近づく-


冥王星が太陽系観測、または研究に従事する人たちの間でどのように捉えられていたかを知るのは、とても興味深いことだった。私はまだ、そうした研究者の末席に数えてもらえるような位置にいるわけではないが…。

私たちの実生活でも、カメラは銀塩フィルムという光の化学的記録手段から、今では携帯電話にさえ収まるほど小型化したデジタル記録素子に置き換えられるようになっている。天文の世界でも、仕様や性能に違いはあるけれど、フィルム撮影は廃れてしまい、デジタル記録が主流になっている。理由はデジタルのほうが感度が高く、測定精度が高いためだ。しかも、すぐに撮影結果を確かめられて、悪ければ消去して撮り直しもできる。

新しい技術の浸透が、新しい発見を促す要因になることは、天文学の世界では常にあった。感度が高い、ということは、今まで記録できなかった天体が写し出されるようになった、ということだ。精度が高い、ということは、確認が簡単になる、少なくともその可能性が高められる結果となる。そのために、冥王星に性質の良く似た天体が、これまた冥王星とよく似た軌道位置に続々と見つかるようになったのである。



太陽系外縁天体-そこは最果てではなく、最前線-


冥王星が「惑星」と呼ばれなくなる予兆は、既に1970年代から出ていたのは驚きだろうと思う。そして、観測装置の受光部分が電子式素子(CCD-電荷結合素子…ビデオカメラなどでもお馴染みである)に更新されたことにより、冥王星に軌道や大きさが良く似た天体が続々と見つかるようになり、「このまま冥王星を『惑星』と呼んでよいのか」という議論も出始めるようになった。

国際天文学連合のメンバーであり、冥王星の扱いやそのグループとなる天体の名称を決める主要な特別メンバーにも選ばれた、国立天文台の渡部潤一・准教授に、2006年夏にチェコの主都・プラハにて持たれた議論について、公式な場で経緯や背景などについてお話を伺ったことがある。

テクニカルには、太陽系の外縁部分を回る天体は「小惑星」として命名・登録されていた。小惑星とは、もとは火星と木星の間に不自然な隙間があり、天体があるのでは?と好奇心を抱いた人が望遠鏡を向け、結果として見つかった『セレス』が第1番となっており、ここにも似たような天体が続々と見つかって、「惑星」と呼ぶにはどれもサイズが小さかったため、そうしたカテゴリが作られたものである。

いわゆる小惑星帯にある天体は、大きさが見かけの明るさと対応しているために、混乱がもたらされることにはならなかった。しかし、冥王星の外側に見つかるような天体の多くは、軌道が扁平な楕円軌道になっていたり、光が充分に届かない・表面の反射率が小さいなどの理由で、もっと近くにいる天体のようには簡単に見つからない。

そして、小惑星なのに、「惑星」である冥王星よりも大きな天体が見つかって、ついに国際天文学連合も冥王星の扱いをどうするか、正式な議論の場を持たざるを得なくなった。



冥王星の地位が確定する-それは、私たちが新しい視野を手に入れたということ


新しい天体が見つかっても、それが新聞の第一面を飾るようなことは今ではほとんどないようだ。少なくとも、私はそうした記事を見た記憶がない。ただし、大火球やしし座流星雨など、目立って華々しく夜空を飾る天体現象が起きたり、あるいは惑星探査機が困難な任務で成功したりなどすれば、事情は違ってくるものだ。

このような、天体の分類名称を決めるための議論について、世界中のニュースメディアが注目し、大々的に取り上げるのは非常に珍しいことだろう。アメリカでは、さっそく冥王星が惑星の地位から「降格」された、その連想から会社で降格の憂き目にあうことを動詞化し、「pluted」が使われるようになった。
私の勤務先も天文台であり、国際天文学連合・総会の採択から、ほぼ翌日から問い合わせを受けている。見学者の話しを、耳をそばだてて聞いていると、「冥王星がなくなった」という人も少なからずいた。

舌足らず・または勉強不足の報道からそうした誤解が流布したわけだから、むしろ「困惑星」「迷惑星」と言うべきか?

要点は、冥王星やその近くに続々と見つかることになった天体について、分からないことが多かったのと、人類が「惑星」の定義を長く持たずにいたことに尽きるのだろう。背景には、観測技術が高まり、より遠く・より暗い天体が見つかるようになった事情もある。

そしてそこには、今まで私たちの太陽系・最果ての星、というイメージで語られてきた冥王星が、実はたくさんある太陽系外縁天体の代表的な星となった、という新たな意味づけをされ、太陽系の中で研究対象となるような地位を与えられた、ということでもある。

かつて冥王星が「第九番惑星」と呼ばれていた頃、冥王星も・その近くに見つかった数多くの天体が回っている場所も、これほど多様であることを知っていたのはごく限られた人たちだけだった。

今は、多くの人たちが知っている。冥王星には、いよいよ探査機が向かうことも決まって、国際天文学連合の総会が開催される半年以上前に、「ニュー=ホライゾンズ」がアメリカにより打ち上げられた。

冥王星が「惑星」と呼ばれることはもうないけれど、この星についての新しい知見がもたらされる日はそう遠くない。

今や、新たな舞台はすっかり整った。2015年の接近探査を楽しみにしたい。


(※新名称はdwarf planet。日本学術会議により、和訳は「準(准)惑星」が2007年3月下旬に正式採用された)

(2007)









新しい太陽研究の時代 ~『ひので』が新しい観測の時代を拓く~


-国立天文台・三鷹キャンパスにて-

20065月、公開天文台ネットワーク・略称PAONET、全国にある公開天文台・科学館・博物館の担当者が国立天文台・三鷹のすばる解析棟の大講堂に一同に会し、運営方針を決め、またデータベースへの天文画像など、教育・広報用資料などをアセットとして登録するための手順を研修する会合が開かれた。

PAONETは、1995年に結成された緩やかな、天文情報共有のためのネットワークである。

館の展示資料など、必要な情報や画像も、国内で得ることは難しく、国外から得ることが必須だった。その海外画像を得ること自体、困難を極めた時代があった。

そんな状況から、全国に存在する公開天文台などが国立天文台を中心に情報共有のためのネットワークを形成した、と伝えられている。

インターネットを取り巻く状況はこの10年間に様変わりし、今では地域により、大容量の光ケーブルなどが設置され、動画すらも入手できる昨今、当時とは隔世の感がある。

議事の後には、三鷹キャンパス内で第一線級の研究を推進しているプロジェクト長などがPAONET開催会場に招かれ、講演が行なわれる。2006年例会は、JAXAと国立天文台が共同で開発・打ち上げを目指す太陽観測衛星Solar-B、後に『ひので』と命名されることになった、世界第一級の太陽観測軌道天文台についての講演が行なわれた。

思えば、私にとってこれが『ひので』への、最初のコミットメントとなったのである。

 

-日本における太陽研究の歴史とは-

万物を育む太陽は、古くからしばしば神として、世界中で崇められる対象となっている。日本においても例外ではない。そこに初めて科学的な目が向けられたのは、イタリアの科学者ガリレオ=ガリレイによる天体望遠鏡の製作と観測が始まった400年前にまで遡る。

完全無欠と思われた、太陽の表面に、黒い染みのようなものが見つかったのである。

日本においても、天文方と呼ばれる幕府の官僚機構職員により、太陽黒点の克明な記録が残されている。幕府天文方は、後に東京天文台となり、日本の天文研究の最前線として自然科学の発達に大きく貢献した。東京天文台は、国立天文台の前身組織でもある。

近代的な観測は、太陽観測専用の望遠鏡、ヘリオグラフによる電波観測、軌道上天文台といった手法が中心となっている。古典的な投影板への投影と、黒点数の観測ならば、学校の地学・理科教育などでも実施できるポピュラーなものだ。教育現場でのきめ細かい指導や生徒達の情熱的・献身的な取り組みが、質の高い観測結果をもたらしているのである。プロの観測者でも驚くほどの高品質の観測結果を提供している学校もある。

また、太陽活動は、時として経済学に及ぼす影響を解説する題材としても取り上げられることがある。季節商品の売れ行きに、黒点の増減(それはつまり、太陽活動の指標でもある)周期として良く知られている11年サイクルが見事に符号している、という話は、あなたもいつかどこかで聞いたことがあるはずだ。15千万kmもの彼方の、しかし最も近くに輝く恒星は、宇宙に浮かぶか弱い天体・地球に斯様な影響を及ぼしているのである。

 

-最後のMVロケット打ち上げ…それは新しい太陽研究の始まりを告げる日-

2006923日、鹿児島県肝属郡肝付町にある、JAXA宇宙科学研究本部の宇宙空間観測所にて、M-Vロケット最後の打ち上げが行なわれようとしていた。フェアリング…空気の濃い大気中を高速で飛翔するとき、衛星を振動と空気との摩擦から守るためのカバー…内部には、世界最高性能の観測機器を搭載した、太陽観測衛星Solar-Bが収められている。

天文台職員として、初めて鹿児島への出張を認められた私は、内之浦宇宙空間観測所から3km離れた見学席にて、この打ち上げの様子を見届けることが出来た。世界最大の固体推進ロケットは、見学席を埋める観衆の見守る中、明け方となる636分、オレンジ色の閃光を輝かせながら飛び立ち、わずか1分ほどで視界から消えていった。

場内アナウンスは、打ち上げ後1000秒経過、オーストラリア局で衛星が生きていることを示すテレメトリが受信されたことを告げていた。そして、Solar-Bは、『ひので』と命名されたことが報告されたのである。

 

-宇宙科学研究本部・小杉健郎先生の思い出-

Solar-B『ひので』太陽観測衛星は、国立天文台より宇宙科学研究所(当時)に移籍された、小杉健郎先生がプロジェクトマネージャとして推進した、世界最高性能を持つ軌道上天文台である。旧宇宙科学研究所と国立天文台が協力して打ち上げ、太陽研究を飛躍的・革命的に発展させたのは、Solar-A『ようこう』である。『ひので』も、同じような協力関係のもと、開発が進められてきた。

ところで、実を申し上げると、私は小杉先生についぞお会いする機会がなかった。『ひので』による初の観測データがマスコミに提供され、日本の科学衛星の成果をまとめた番組に出演、解説の収録が終ったほぼ直後に逝去された、と伺った。番組中で見た小杉先生は、嬉しさと気恥ずかしさの綯い交ぜとなった、とても良い表情をされていた。天文少年がそのまま成長したら、このような大人になるのだな、との印象を持ったものである。

20074月には、『ひので』の初期観測に参加した世界中の太陽研究者による、国立天文台・三鷹キャンバスでのワークショップが開催され、観測成果が披露された。このワークショップの開催目的には、小杉先生の追悼の意味も込められている。

私自身は、太陽研究については門外漢なのだが、開催の報に接して、参加申込みを行なった。意外にも、関係者ではない私にも聴講が許されたのである。

 

-太陽研究の展望と、宇宙科学の未来-

2008年春において、太陽周期が新たな局面に入ったと見られる兆候が観測されている。

太陽の最も大きな謎は、その表面が4000-6000℃であるのに対し、皆既日食などで見えてくる太陽コロナが100万℃以上にも達することである。温度は高いところから低いところに伝わるものであり、逆はありえない。つまり、コロナがこれほどの高温になるためには、加熱のための何らかの機構があるはずだと推測されてきた。『ひので』は、初めてその昇温メカニズムに迫る軌道天文台だったのである。

200712月発売の科学雑誌Science誌上にて、『ひので』の初期成果をまとめた論文7本が掲載、特集号が組まれるという、日本の太陽観測において金字塔となる出来事があった。その特集号の代表的論文に、コロナの昇温メカニズムを取り上げた記事が入っている。

だが、何よりも素晴らしかったのは、人類が初めて目にする太陽活動の精細を極めた動画を見ることが出来た点だと私は思う。

「ひので科学プロジェクト」にて、その太陽表面の画像を見せていただいた。

Sun Micro Systems社提供のマシンにより再現された太陽活動の様相は、ハイビジョンカメラによる映像が、中身よりも写り映えに目が行くことがしばしばであるように、『ひので』による画像も「おお、すごい!」と感心してしまうほどである。

静穏期にありながら、太陽は決して静穏な天体ではないことが良く分かる、そんな観測データだったが、設計寿命との兼ね合いもあり、次の観測衛星構想も検討が始まっている。プロジェクトコードはSolar-Cだ。

国際的には、最も古い太陽観測衛星のSOHOはじめ、TRACESTEREOといった、人工衛星があるし、地上にある従来からの観測設備もあり、こうした各種の観測施設が協力して太陽を観測し続けている。そして『ひので』そのものも、国際協力プロジェクトなのだ。

私たちの社会は、高度情報化によるオンライン社会だが、わずかな狂いでシステムがダウンする、そんなことを感じさせる出来事に出会すことがある。太陽が時に発する強力な磁気嵐の影響で、変電所の変電用トランスが焼き切れたり、あるいは銀行のオンラインがシステム障害によって停止したこともある。いずれも、2007年に報じられた出来事だ。

また、いずれは火星に有人宇宙船が飛ぶ時代が来る。太陽活動は、このような宇宙での人間活動にも大きな影響をもたらすことになる。

今後、こうした太陽活動を観測し、その影響範囲を予測する計画は、太陽の謎を解く以上に重要視されていくことだろう。

そして、太陽といえば、月がその前を通過して真昼の星空を堪能できる皆既日食である。2009年には、日本国内でもトカラ列島などで見られる。そちらも楽しみにしたい。
(2008)




赤い惑星を探る ~書き替えられ続ける火星の描像~

-地球の隣人・火星-

私たちが、生命のあふれる天体として最もよく知るのが地球だとすれば、火星は過去に何らかの生命が栄えたかも知れない、そんな天体の1つ、といえる世界である。

地球外の生命の可能性として、過去の時代(数億から数十億年前という条件において)に何らかの生命があったかも知れない天体、という意味で、火星は絶好の研究対象だ。

それでも、誰もがずっと年間を通して火星を観測していられるわけではない。地球が1年で太陽の周りを回るのに対して、火星は1年と約2ヶ月かかる。会合周期、つまり地球が火星を追い越して再び火星に近づくまでに、2年2ヶ月ほどはかかるのである。地球上で火星を観測する限り、観測条件が良い時期は、そう長く続かない。そこが、火星を専門に研究する研究者達の悩みといえる。

-火星由来の隕石が発見されたとき-

火星の研究は、それまで主に天文学的な観測と、米国NASAのバイキング1・2号の惑星探査機による惑星科学的探査が中心だった。2009年前半においても、まだ火星から直接的に惑星物質を回収した例はなく(月の岩石類と、ヴィルト2彗星の塵物質だけが回収に成功している)、火星からの物質回収は惑星科学者達にとって悲願の一つとなっている。

1996年当時、内外に大きな衝撃を与える発表が行なわれた。南極・アランヒルズに火星由来の隕石が発見され、そこに小さな虫のような化石があることが分かり、研究者は慎重な確認を繰り返し、間違いないことを確信して全世界に公表したのである。

南極は、隕石の宝庫である。雪と氷に閉ざされた大地が、宇宙空間から飛来する隕石を「冷凍保存」し、何十万年にも渡る雪と氷の圧縮に伴う移動を経て、南極の山地にぶつかり、表面に露出する。日本も極地研究所の研究員がこのようにして表層に露出した隕石の採集を行なっている。日本は、このような隕石を大量保有する国の1つでもある。

さて、ALH84001というサンプル符号が付けられた隕石は、1984年に南極アランヒルズにおいてNASAに所属する研究者に発見された。この符号は、発見場所の頭文字・発見年の西暦下2桁・発見順位を意味している。つまり、1984年にアランヒルズで最初に見つけられた隕石は、10余年もの慎重な同定作業が行なわれていたのである。

発表によれば、ALH84001隕石は、36億年前に火星の溶岩から形成され、1600~1300万年ほど前に隕石衝突の衝撃で宇宙空間に飛散した。1000万年の間、宇宙空間を漂った後、約1万3千年前に南極に落下したとされている。

-それでも、決定的な証拠が得られたわけではなかった-

これほど正確に、隕石の起源が火星由来であることが分かったのは、1976年に軟着陸に成功した、バイキング着陸船の分析があったためだ。隕石の中にとどまっていた気体成分は、バイキングが分析した火星の大気組成に酷似していた。また、宇宙空間を漂っていた期間が分かったのは、サンプルの残留放射線を測定した結果である。

残念ながら、総研大の講演会に、主研究員だったディビッド=マッケイ博士はお見えにならなかった。心臓手術を受けるため、と説明されていた。代わって、ALH84001の発見と解明の過程を詳細に解説されたのが国立極地研究所の小島秀康先生だった。

後に、JAXAの惑星科学関連シンポジウムにおいて、小島秀康先生のお弟子さんにあたる研究者とお話する機会があり、世間は狭いものだと実感させられた。

隕石に顕微鏡で生命の痕跡らしいものとして見つかった化石状の物質は、20ナノ~100ナノメートル程度の大きさで、古代の極小菌らしい、と説明されている。公表当時、その画像は内外に科学的センセーションを巻き起こしたものだ。

ただし、化石状物質から、生命活動を証明するDNAを抽出することは原理的に不可能なのである。公表から10年以上経過し、このサンプルに見つかった虫のようなものが火星の生命活動の痕跡だったとする見方には、かなり懐疑的な研究者も増えているようである。もっとも、これを全て無生物的な化学過程で合成するよりは、生物学的な合成過程を考えたほうが合理的、と考える研究者もいる。

2008年5月25日、火星の北極域に『不死鳥』の名を持つ探査機が舞い降りた-

NASAの惑星探査は、特に火星を目指す計画が目立って増えている。日本も、火星大気が過去のある時点で散逸し、現在見られるような希薄な状態になった過程を探るため、火星周回軌道を回る『のぞみ』を打ち上げている(ただし火星軌道には乗らなかった)。

多くの火星探査機は到達前、または軟着陸時において消息を断つ例が多く、旧ソ連時代の探査機はほぼ全滅、米国も半数近い探査機を失った。理由は強い宇宙放射線に晒されたことによる制御系電子回路の異常、あるいは表面の大きな岩石に衝突した等、諸説あるが、中には「火星人が妨害した」などのまことしやかなジョークもある。

2009年において、火星上で稼動している探査機は、米国NASAの2001マーズオデッセイ、同じくマーズ・リコネッサンス・オービター(MRO)、欧州宇宙機構(ESA)マーズ・エクスプレスの3機の周回衛星、火星赤道付近をNASAマーズ・エクスプロレイション・ローバ2機(スピリットとオポチュニティ)、以上5機が火星軌道と地表から探査をしている。

そんな中、非常に野心的・かつ大きな成果を上げたのが、2008年5月、火星北極域に32年ぶりの動力軟着陸を成功させたフェニックス・ポーラ・ランダーであった。

驚きは、フェニックスが軟着陸する時のMROが撮影した画像からもたらされている。あたかも背後のクレータの中に降りていくかのように写し出された画像は、画像解析を担当していた技術者に、「これには本当に参った」と言わしめる、迫力のあるものだった。

火星の人工衛星によりもたらされていた画像の解析により、火星の極ならば、固体の水を見つけるのはかなり容易である、と考えられていた。また、火星のどの辺りに探査機を降ろせば安全なのかも、MROの画像から解析され、見当がついていた。

フェニックス号機上には、打ち上げられた2007年の時点において、最新の軽量・小型の科学的分析装置が積み込まれていた。分析装置へのサンプル投入には当初手間取ったものの、水があること、また火星が過去に温暖であり、水が液体として充分長い時間、表面に存在していた事を示す、水を媒介して合成される化学物質も検出している。

その検出された物質は、学校の先生が教室で使うチョークの主成分・炭酸カルシウムや、アタカマ高地(現在国立天文台などが欧米と協力してALMA天文台を建設している)に見られるような、過塩素酸塩類という珍しい物質などである。固体ロケット燃料に含まれているような劇薬だが、その正確な属性は分かっていない。

なお、フェニックスは、2008年12月に火星の北極が極夜となり、電力不足から機能停止、冬眠モードに入った。

-書き替えられ続ける火星の描像-

フェニックスの停止後も、NASAの探査機4機と、ESAの探査機1機は観測を続けている。一般的な火星に対する認識は、この惑星が「死の惑星」である、ということだろうか。

どうやらその見方は正しくないらしい、という観測成果が、その後もたらされている。

例えば、地上の望遠鏡を使った根気のいる観測により、明らかになったことがある。火星の夏期において見られる、大量のメタン放出現象だ。

このメタン放出メカニズムは、生物化学的な過程と、地質的な過程との両方の可能性が示唆されている。「火星には生物がいる!」という早合点は禁物だが、放出されるメタンの量は膨大であり、過去に火山活動が起こったか、または大量の水による水成活動の痕跡が見られる場所と概ね一致している、とされている。あるいは、地球の永久凍土帯でも見られるような、氷が解けることで地下に閉じ込められたメタンガスが放出される現象を観測しているのかも知れない。

2013年に打ち上げを目指すサイエンス・ラボラトリ探査が、その答えを見出すことを期待されている。日本も、ミーロスという大型の火星探査の構想を持っている(2017年頃)。

そして2010年には、火星がようやく夜空に見えるようになる。私も、望遠鏡でじっくりとこの赤い惑星を観察したいと思う。
(2009)



小惑星探査機『はやぶさ』が持ち帰ってきたもの



 2010年6月13日、7年間・60億キロメートルの太陽系空間の旅から、日本の小惑星探査機『はやぶさ』が地球に帰還した。まさに満身創痍で、これほどの困難を乗り越えて帰ってくるとは、関係者ですら驚きを隠せない出来事だった。
 本体の大きさはやや大きめの冷蔵庫並み、太陽電池パネルを開いても最大で4×6メートル、重量は510キログラムと軽乗用車よりも軽いほどだ。宇宙開発史をひもとけば、これと同程度の探査機は過去にいくつもあった。むしろ、これよりずっと大型で、現在も運用が続いている探査機もあるくらいなのである。
 しかし、この小惑星探査機『はやぶさ』には、まさに打上げ当時2003年において、日本最高水準、世界的にもトップを行く技術が結集していたと言える。
 この探査機のプロジェクトマネージャ・川口淳一郎氏(JAXA)は、最も先進的な技術からなる宇宙機である、と説明していた。『はやぶさ』には、宇宙研内部の打上げ時期が競合する科学衛星として赤外線天文衛星の『あかり』があったが、挑戦的な項目が八つも重なることに感嘆、「『あかり』よりも先に打上げてもらって構わない」と順序を譲られたそうである。当時日本の衛星打上げは、その時期が漁の最盛期を避けることを九州・四国の漁協より強く求められていたこと、そもそも科学衛星がロケットのコストの問題もあって年に一度程度しかなく、開発サイドが早く打上げたいと望むのが普通である。つまり、それほど宇宙研内でも他のプロジェクトから大きく評価されていた、ということになる。

 もっとも、実際の打上げスケジュールは、『はやぶさ』の前の衛星打上げがロケットの不具合により失敗したこと、衛星開発やその他のスケジュールの遅れも重なり、目標天体も三度変更となってようやく1998SF36という、地球と火星の軌道に交差するいわゆる近地球型小惑星に決まった(打上げ日は、2003年5月9日)。
 小惑星と言えば火星と木星の間を回るメインベルト天体がよく知られている。これらの天体を探査する計画もむろんある。NASAのDawnがまさにそうで、2011年にはVestaに接近して探査中、2015年にCeresという大きな小惑星を訪れることになっている。こうした天体に接近するには大きな加速のエネルギー(デルタVという)が必要で、科学衛星打上げロケットのM‐V(ミューファイブ)にはそこまでの能力がなかった。1998SF36にも、実は能力が充分ではなく、地球出発後のある時点から加速を始める手段が必要だった。そこに白羽の矢を立てられたのが、長時間の連続運転が可能となるイオンエンジンだった。

 従来の化学エンジンは、瞬間的に大きな力を出せる、地上から打上げるには不可欠な推進方式である。しかし、小惑星探査に化学推進を選ぶと、莫大な燃料が必要になる。イオンエンジンとはキセノン(Xe)の様なガスを電子レンジのようなマイクロ波で加熱して電離させ、それを電気の力で勢いよく押し出す方式だ。その反作用で宇宙機が進む。Xeイオンを放出し続けると宇宙機が負に帯電してイオンが戻ってきてしまうので、電子を放出して電気的に中和、そうして連続運転ができる。力は弱いが、宇宙空間には空気抵抗がないため、運転し続ければその分だけ加速でき、最終的にはかなりの高速を達成できる。
 それに加えて、地球の重力を利用して方向調整と加速を行なうスイングバイを行ない、『はやぶさ』は目標天体に向かったのである。


目的地の名はイトカワに


『はやぶさ』の目的地である1998SF36は、発見者である米国リンカーン研究所の厚意により、イトカワと命名され、国際天文学連合に承認された。命名の理由は、日本のロケット開発の父である、糸川英夫博士にちなんだもの。JAXAの正史やその弟子の的川泰宣教授の著作でもしばしば紹介されている。正式な理由としては掲げられていないが、糸川博士が名戦闘機「隼」の設計者であったことも、博士を知る人がエピソードとして説明することもある。『はやぶさ』が向かう天体だから「イトカワ」に決まった、と言えるだろう。
 打上げ後、いったん地球に追い越された『はやぶさ』は、イオンエンジンをほぼ継続的に運転し、2004年5月19日に地球スイングバイを行なった。イオンエンジンによる地球の重力アシストは『はやぶさ』が世界初である。
 地球重力アシスト(またはスイングバイ、重力スリングショット等とも)は、地球の重力を利用して科学衛星の向きや速度を変更する技術のことだ。目的地に向けて必要な方向変換と速度の加減を行なうためのもので、地球より外側の軌道を回る天体の場合には加速を行なわなくてはならない。『はやぶさ』の場合には、EDVEGA(電気推進デルタV地球重力アシスト)という略称で呼ばれている。地球出発時の推力にイオンエンジンによる加速分が「貯金」のようにためこまれ、重力アシストには「貯金」の利息分がついて目的地に向かうことができる、という理屈である。


イトカワ到着、太陽系の初期の姿をとどめる天体へ


 2005年7月下旬には航法撮像用のスタートラッカでイトカワの初の撮像に成功、9月12日には小惑星に対する相対速度を0.25ミリメートル/秒にまで減速し、イトカワ到達を達成した。
 その日以来、数々の科学観測を実施、この成果は2006年の科学誌サイエンスに特集号が発行されるという、日本の惑星探査史に特筆すべき快挙へと結びついた。
 ただし、全てが順調だったわけではない。『はやぶさ』は、宇宙の任意の点に対して静止する三軸制御を採用しており、三軸それぞれにリアクションホイール(RW)を使って制御をしている。それらのうち2個までが機能停止、イトカワへのタッチダウンに支障が生ずる恐れがあった。
 プロマネの川口淳一郎先生の役割で特に大きかったのが、こうした「不具合」に対して、別け隔てなく良い対策は採用する、というところにあった。残ったZ軸と、スラスタを併用した姿勢制御が即座に採用され、イトカワのタッチダウンに備えられる。
 三度のリハーサル降下を経て、第1回タッチダウンが11月20日に実行された。打上げ前に公募で集められた世界中の88万人以上に及ぶ署名が刻まれたターゲットマーカも無事イトカワの表面に送り届けることができ、着地も成功したかに見えた。
『はやぶさ』がどのような挙動をしていたのか、よく分からなかったのは、衛星の姿勢の関係で大容量の通信ができず、イトカワへの距離のみが低速通信で分かるモードだったためである。素早くイトカワから離脱、大容量通信が復活して、当初の想定とは異なる小惑星への着陸を達成していたことが後に判明した。
 二度目のタッチダウンは、最初のタッチダウンとは見違えるほどの習熟を管制官たちが示し、「この若者たちの何と美しい姿なのだろう」、と宇宙の広報マンを長年務めてきた的川泰宣先生が述懐している。


トラブルに見舞われて―そして地球帰還へ


 二度目のタッチダウンが成功して数時間後、『はやぶさ』は一時姿勢安定を喪失した。スラスタ用の燃料が漏出し、ガスジェットの作用をして宇宙機が正しい姿勢を維持できなくなったためである。イオンエンジン用Xeガスを中和器から噴出する運用で、姿勢を立て直した。しかし、予定されていた小惑星試料回収用の弾丸が発射されていないことが明らかになり、試料回収が成功したかどうかも危ぶまれた。
 さらに追い打ちをかけるように、二度目の姿勢喪失が発生、探査機との通信が完全に途絶する。このようになった衛星との通信が再開したことはかつてなかった。
 これにより、『はやぶさ』の地球帰還は2007年から2010年に延期、JAXAは『はやぶさ』救出運用に入ったことを発表した。
『はやぶさ』は、最初に不確定な回転をしても最後には一定の軸に対して安定するような設計がなされている。その時に太陽光が太陽電池を照らし、またアンテナが地球に向けば通信復旧の可能性が生まれる。その確率は、2006年末までに6割以上ある。こうして、行方不明になった探査機の捜索が行なわれることになった。その期待に、『はやぶさ』は応えてくれた。2006年1月23日のことである。
 地球帰還目前の2009年11月4日、全てのイオンエンジンが停止する、という事態が起きた。これで万事休すかと思ったら、イオン源と中和器を別個体同士で繋ぐクロス運転という秘策があった。開発担当者の見事な対策が役に立ったのである。

 私は、オーストラリア・ウーメラで『はやぶさ』の地球帰還を直接見届けることはなかったが、この時の動画を見る度に胸が熱くなる。「彼」は確かにやってのけた。「彼」が持ち帰ってきたものは、太陽系初期の記録をとどめた物質だけでなく、希望と未来への道筋もつけてくれたのである。
 2011年には、『はやぶさ』回収イトカワ試料の分析で二度目のサイエンス特集号が発行された。2014年には、後継機『はやぶさ2(仮称)』が打上げ予定である。

(2012)





ロシアに隕石が衝突した日
  ―2013年2月15日03時20分(世界時)



-小惑星2012DA14が、地球近傍を掠める

私たちが生きている惑星・地球には、時々宇宙からの来訪者が訪れている。といっても、地球外知的生命体(ET)のことではない。地球の軌道を越えて太陽に近い空間にまで入り込んでくる、太陽系の仲間の天体の話である。

火星と地球の間には、数多くの天体—小惑星が回っている。そして、太陽系形成の歴史で、木星の強い重力に軌道を乱され、地球軌道を横切るような天体もある。これらが、近地球型小惑星(NEA)だ。日本の小惑星探査機『はやぶさ』がサンプルリターンを行なったイトカワも、そうした近地球型小惑星の1つだ。
太陽系空間は非常に広く、惑星はそれに比べて非常に小さいので、軌道が交差するような天体が接近してきても、衝突するようなことはめったにない。天体の規模と衝突の頻度はある程度の傾向があり、大きな天体ほど地球にぶつかることも少なくなる。

これまでに知られている中で、最も地球に接近することが予報されたのは、2012DA14の符号を持つ小惑星だ。差し渡し40m、地球の静止軌道が約3万6千kmであるのに対して、最接近時は2万7千kmを通過すると予報されていた。つまり、静止軌道衛星よりも地球に近い位置をこのDA14と呼ばれる小惑星は掠めていくのである。地球に衝突する可能性はない、とNASAは発表していた。接近の時刻は2013年2月16日未明(日本時間)である。


-その前日、ロシアの地方都市の空を引き裂いた天体があった

小惑星2012DA14が地球に最も近い位置を通過する前日、ロシアのウラルにある地方都市チェリャビンスクで、異常事態が起こった。
私が最初にそのニュースに接したのは、15時半頃だったと思う。インターネットのポータルにもまだニュース項目として現われない、主としてTwitterなどで話題になっている出来事だった。

その情報をいろいろと探っていくと、ロシア版Twitterで都市の建物の上空に、真っ青な空を引き裂いたかのような一条の雲が写る画像があった。これだけで、私は戦慄を感じたのである。「これは尋常ではないな」と。飛行機雲でないことだけは確かだ。

また、You Tubeの動画もあった。ドライブレコーダの記録画像で、やはり移動中の車の中から青空や流れる風景が映し出されているうちに、画面左手から輝く雲が現われ、画面全体がまばゆい光で周囲の光景がほとんど飽和し、しばらくして一条の光跡が空に残っている—そんな場面をとらえた画像がいくつも動画サイトにアップされていた。

ロシアは国土が広大であり、警察官の汚職がはびこっていることから、ドライブレコーダの車載が義務づけられているそうだ。そのために、科学的にも貴重な動画が得られたという、多少皮肉めいた結果となった。とはいえ、「事件」発生から数時間程度でこれほど大量の証拠画像が得られたというのも驚きである。

ウラルというと、私は中学校で習った旧ソ連の社会主義経済モデル地区として出てきたこの地名を思い出す。もちろん、現在のロシアはその当時習った社会とは大きく変わっているし、「鉄のカーテン」による情報統制もなくなっている。

これは、隕石の地球大気圏突入で起きた出来事だ。隕石の経路にかなり近い位置を旅客機が飛行していたが、幸い衝突はしなかった。また、隕石の直撃を受けた人もいなかったとのことで、これも幸いだったといえる。しかし大気突入によって発生した衝撃波の影響は決して小さくなく、建物の窓ガラスが割れるほど強烈だった。怪我人は1500名以上におよび、天体の落下による人的被害や物的損害は知られている中では最大級のものだったといえる。また、ウラル地方には原子炉などの核施設もあり、仮に隕石がこうした施設に衝突していたら打つ手はなかったかも知れない。


-ロシアに到達した隕石は、DA14とは無関係

2月16日未明に接近する小惑星の予報があったため、ロシアに飛来した隕石との関連性を疑った向きも多かったようだ。それは無理もない。偶然にしてはあまりにもできすぎた「事件」である。

しかし、実はこうした天体の性質をよく知る研究者は、前述のドライブレコーダ動画を見ただけでも、関連性の有無を即座に判別できるそうである。後日明らかにされた両者の軌道からも、まったく別の天体であることが示された。たまたま、日付が近かったためにそう思えてしまったのであって、まったくの偶然なのである。

この飛来隕石は、差し渡しが17mで質量は1万トン相当というのがNASAの見積もりである。現在の技術では、これほどの天体だと100万kmにまで接近しないと検出できないそうだ。地球と月の距離は38万kmなので、その3倍程度の距離に近づかないと観測できないことになる。むろん、それは空が暗ければということであり、地球の昼間側の方向から飛来したこの天体を事前に見つけることは、ほぼ不可能に近い。

-これまでに地球に衝突した天体

地球には大気があり、風や雨による浸食作用が起こる。プレートテクトニクスの活動による地表の更新活動(火山噴火や地震は、それに付随するもの)もあり、あまり古い天体衝突の痕跡を見つけだすのは難しい。よく知られているのは、米国アリゾナ州のバリンジャー隕石孔だ。数10万年前の隕石衝突痕である。ロシアでは、1908年にツングースカ上空に飛来した天体の爆発で森林が広い面積で薙ぎ倒される事件があった。この飛来した天体は、彗星であると信じられていた(注)。1954年には、米国アラバマ州の自宅にいた女性が、屋根を突き破ってきた隕石がお腹にぶつかったために怪我をする事例も起きている。幸い、怪我は軽く、かなり最近までその女性は元気に過ごされていたそうである。

日本でも、神社にご神体として飾られているものの多くが、伝承されている目撃談から隕石と推測されている。1992年12月には、島根県松江市の民家に隕石が落下、民家の一部を壊した、おそらく国内では初めてのケースとなった。この隕石は地名をとって美保関隕石と呼ばれており、実物をメテオプラザと呼ばれる科学博物館で見ることができる。

これらは、地球に衝突し、場合によってはその痕跡を残したり、落下した付近に衝撃を及ぼしたケースである。より小さな数mmサイズの微粒子(彗星などが放出した物質)は、地球大気圏に突入すると大気との摩擦で高温になり、光を発して衝突する流星になる。サイズが更に小さくなると大気との摩擦も起こらず、塵として落下してくる。このようにして地球が取りこむ惑星空間物質は、1日あたり数万トンにも達するだろう。

逆に、サイズが大きくなれば地球衝突の頻度もぐっと減って数万年に1回程度となるのだが、約6500万年前に地球に衝突した隕石は、それまで繁栄していた恐竜が絶滅し、ほ乳類(人類の祖先にあたる)が代わって繁栄する、大規模な地球環境の変化をもたらしたと考えられている。その隕石孔は南米ユカタン半島チクシュルーブ付近の陸と海にまたがって存在し、またその衝撃で放出された破片が英国に近い北海の海底に落下したようだ。

(注)実に105年ぶりに、隕石衝突であることが地上から回収された鉱物の解析により原因が解明された。


-科学は、どのような答えを見いだしたか

映画『ディープインパクト』や『アルマゲドン』に描かれたような、地球に衝突する天体を壊滅する物語は、現実問題としてほとんど絵空事に近い。巨大なエネルギーを必要とするからだ。核ミサイルでさえも、小惑星を消滅させるにはエネルギー不足である。
もっとも現実的な小天体衝突回避の手法は、天体の表面の反射率を大きくし、

太陽光圧で軌道を変化させる方法である。これは米国の学会でも支持された方法だ。光にも圧力があるため、小惑星の自転速度を変化させたり、場合によっては軌道そのものも変化させられることが分かっている。もちろん、太陽光圧は非常に小さいため、その効果は微かなものでしかないが、太陽光は無尽蔵であり、長い時間絶えず照射できる利点がある。天体の軌道を変えられれば、地球への衝突コースから外させることも可能だ。

一方、回収された隕石は分析により、誕生時期が太陽系誕生とほぼ同時期の46億年前で、3-5千万年前に他の天体と衝突したとロシアの研究機関が発表している。この隕石の一部が鳥取にある岡山大学の研究施設にも提供され、分析にかけられることも決まった。この研究施設は、小惑星探査機『はやぶさ』が採取したイトカワの微小粒子を分析した実績があり、ロシア側もそれを評価しての試料提供となった。
隕石は、太陽系の起源と進化の解明に役立つ、一種の暗号解読コードのようなものでもあるのだ。

(2013)

第9回文芸思潮エッセイ賞科学記録特別賞受賞作品