梅村芳住

母の追想




 ブォーッと吼えるような警笛を鳴らし、逢坂山の長いトンネルを煤だらけの真っ黒な煙と共に飛び出してきた蒸気機関車は、眼下に広がる琵琶湖の眺望を乗客に見せる間もなく、湖都大津の駅のホーム滑り込んだ。

上りの汽車が、大阪を出発して、京都を経てさらに東へ向かい、急勾配のトンネルを喘ぎながら登りきって最初に着く駅が、東海道本線の大津である。そこから関が原まで約80kmの車窓は、田園風景が穏やかに広がる眺めとなる。

国鉄大津駅は、逢坂山トンネルの出口から僅か500mの位置にあった。

私の通う、女子師範学校は、大津駅のまん前にあったので汽笛が喧しいほどよく聞こえてくる。どういう訳か、トンネルに潜る汽車も、出てくる汽車も大きな汽笛を鳴らすのを常とした。だから生徒たちも、時計無しで1時間に数本通過する汽笛の声で、大体の時間が分かった。慣れれば、騒音もさして障害にはならないもので、むしろ夢多き乙女たちにとっては、旅情を掻き立てる心ときめく喧騒でもあった。

昭和2年2月の第一土曜日に、寸暇を利用して私は郷里に帰った。7日の月曜日に、大正天皇の大喪が行われることになっていて、その日以後9日の水曜日までは、授業が休みになる。その話を聞いて、急に母に会いたくなったからである。

大津を出る時は晴れていたのに、ふるさとの駅舎には雪が積もっていた。僅か40kmの距離なのに寒暖の差は大きい。大喪の日は晴れたけど、寒かった。村の寺々の鐘が、新宿御苑で営まれる式典の時刻にあわせて、いっせいに鳴り響いた。除夜の鐘を思わせる寂しい音色を響かせて百八つ鳴った。大正の終焉を告げていた。

卒業試験が終わり、いよいよ残された就学期間もあと少し、新任地への配置が決まるまではみんな開放的になる。3月末までには、各自に、赴任する先の学校の校長名で、呼び出し通知が来ることになっていて、生徒たちはみな胸をわくわくさせて待っていた。気分的に落ち着かない時期でもあった。

私はその日、担任の先生に音楽室まで呼び出された。

先生は突然、
「君と、もう会えなくなるのかと思うと、淋しいのだ。唐突で済まないが、君のご両親に、会わせてくれませんか?」と、求婚とも取れる言い方をされたのである。実直な人柄の先生は、立場上、筋を通して結婚の申し込みをしたいのだと言った。

けれど今の私には、結婚と言う選択肢は全くなかった。困ったことになったと思ったが、直ぐに断わることは出来なかった。

私は、これから先の時代、女性の自立の必要性を痛切に感じていたし、田舎の女学校から女子師範に進んだのも自我を通すためだった。昨年成立した普通選挙法も、女性の参政権などは一顧だにされなかった。女性の役割は、良人に仕え丈夫な子供を生んで、お国のために役立つ子を育てることだという両親の固着観念にも、私は大いに不満を抱いていた。

先生は、音大出で、若くて独身で、背も高く端正な顔立ちから、生徒間には人気があったし、憧れる生徒も多かった。私も先生が嫌いではなかったけど、まだ、そんなことを考えるだけの余裕は全くと言っていいほど無かった。私は、2男2女の末っ子に生まれ、負けず嫌いな気の強い性格は父親譲りだと母には何時も言われていた。でも、母のように、良人の言いなりの人生は嫌だった。自分の生き方は自分で決めようと思った。自分の意志を通した生き方がしたかった。許されるのなら、東京に出たかった。地元の女学校で学んだ近代史の中で、特に幕末から明治初期にかけて、文化・経済の両面にわたって急速に近代化されて、生き物のように伸びる東京に興味を持ったからである。しかし、両親は、その程度の理由で上京は認められないと反対された。長い時間をかけて話し合った結果、やっと許されたのが女子師範学校への進学だった。両親は、他の兄姉たちとは歳も離れていたし、末っ子の私が心配で、遠くへ手放すことなどできないと言った。

私の郷里は、鈴鹿山麓の大きな村であった。河口の琵琶湖まで、延々50kmを超える大きな川の流域で、湖東平野と呼ばれている広い田園地帯である。穀倉地帯であった。とはいっても、日露戦争後は不況続きで農業生産も停滞していた。その後景気はやや持ち直したものの、第一次世界大戦後の私が女学校に入る頃には再び戦後恐慌が起こった。次いで関東大震災が起こった。震災後の混乱と経済的打撃、政府はこの事態を収束するため、天皇の詔書を発布した。私は、このような世情の中で学業に励んできたのである。

 3月21日には私たちの卒業式がある。彼岸の中日である。田舎ではこの次期、寺々で彼岸会が行われる。私は、田舎の寺院の伝統行事、彼岸会を思い出していた。

卒業式を明後日に控えた土曜日の退け時に、私は、担任の先生に、この前の返事をしておかねばと思った。音楽教室を覗こうと、渡り廊下の簀子状の踏み板を歩いていると、爽やかな風に乗ってショパンのエチュードが向かっている音楽室の方角から聞こえてきた。旋律に惹かれるように、私の足は自然と音楽室に向いていた。曲はノクターンに変わった。この曲は、授業中に弾かれたので覚えていた。琴線に触れるような曲だったので記憶に残っていた。先生はロマンチストだと、誰かが言ったことがある。その先生のうしろ姿が、廊下の窓越しに見える。身体を揺すりながら無心に弾いている。私は聞き惚れていた。音楽室は特別教室の棟の一階にあった。それも入り口の部屋である。縦型の重いピアノを運び込むのはここまでが精一杯だったからと思われた。曲を聴きながら、目線を窓の外にずらした。本館とを区切る中庭には、大きな桜の木が3本植わっていた。卒業生が記念に植樹をして行ったものである。女子師範は男子のそれと比べると少し後から設立されたが、それでも数十年を経ている。最初の卒業生が、桜を植えたのを機に、毎年校門の周辺から順々に校庭に植足し、それでも場所が足りなくなって中庭に植えたのだと聴いている。だからここの桜木は若かった。今年はどの辺りに植えるのだろうかと思いながら、膨らんできた蕾を眺めていた。ここの寄宿舎で、仲良しになった友との別れを考えると、切なさが胸に迫ってくる。こみ上げてくる涙をそっとハンカチーフで抑えた。気が付くとピアノの音は止んでいた。はっとして振り返ると、部屋の引き戸を少し開けて先生が会釈をした。左手の戸の押し方で、入っておいでという仕草であることが分かった。

「ちょっと、誤解をされたのかな…」と思ったが、先生の後に続いて部屋に入った。

いつもの見慣れている音楽室。でも、こんなに薄暗いとは気付かなかった。楽聖と言われる音楽家の肖像画の額が、両脇の壁の天井近くに架けられていた。見慣れた光景だが、目の置きどころが無くて、ただその額を見上げていた。ベートーベン、バッハ、ショパン、モーツアルト、シューベルト等に並んで日本の滝廉太郎の額もある。

「一度、僕の下宿へ遊びに来ないか、他の生徒たちは良く遊びに来るんだよ。君はちっとも来てくれないがね」と、先生は、立ったままでピアノの鍵盤を軽く叩きながら、不満そうに言った。先生は、私がここに居ることでさえちょっと誤解しているみたいだった。

私は、あの時の話を取り消して貰うためにここへ来たのに、そのいとぐちが見い出せないでいた。恩師に対する思慕と尊敬は違うと言う意味の事を言いたかったが、相手の気持ちを損なうことなく言うのは難しかった。すると先生は、そんな私の気持ちを察したのか、「考えておいてくれた?…ご両親に会わせてくれるっていうこと」と、いとも簡単に言った。私は、どきどきした胸を、必死で押さえながら引き込まれるように答えていた。

「先生。私、今日はそれをお断りに来たのです」と、私は、先生を真正面に据えて言った。言いながら、上気しているのが分かった。顔が火照って涙さえ零れ落ちそうだった。先生は、私が、今日ここへ来た理由が分かったらしかった。

 「ごめん。君がまだ少女だってことを、私はすっかり忘れていたらしい」と、先生は、上手く話を摩り替えてくれた。嬉しかった。そして、ほっとした途端に不覚にも涙がぽろっとこぼれた。私も、話題を変えて、郷里の隣村に奉職の希望を出したことや、父母が私の帰りを待ち焦がれていることなどを話した。

 「君は、大喪の日も、田舎へ帰っていたね」と、先生は、よく覚えていて、そんなことまで言った。私は、学校がお休みだったのと、村で行われる遥拝式に父母が参加するので、帰っておいでと言われましたので…と、ありのままのことを告げた。

 早春の陽射しが、西側の窓から入っていた。昼の長さと夜の長さがほぼ同じになるこの時期を境にして、季節もぐっと進み、過ごし易くなる。いま青春の只中に居て、何時の日かこれらの日々が、きっと私の胸に、ほのぼのと懐かしく思い出されるだろうと思った。

その時、私は、どのような環境に身を置いているだろう。今日という日を、悔いていやしないだろうかと考えていた。

[ 母の日記・昭和元年(1926年)新家庭日記大正16年版より ]

(2007年)


お姉ちゃん



「女に、これ以上の教育つけてもしょうがない。ここらで奉公に出そう」

と祖父が祖母に話している。私は積み木で遊んでいた。しかし、この話の結末がどうなるのか、いささか気になって隣りの部屋から聞き耳を立てていた。奉公が如何いうことなのか、おぼろげながら理解できる年頃の小学校3年生だった。

2人は居間で話していた。

 「なぁ、もうええやろが、大阪の叔母さんところで面倒見てもらおう。なっ、あそこなら安心やないか」

と言う祖父の問いかけに、祖母の返事は聞こえてこない。

 私たちの父は婿養子であった。父の実家は、父を含めて7人の兄弟姉妹がいてその中で父は上から3番目の次男であったと聞いている。一番下の妹は、大阪難波の料亭「初島」という老舗へ嫁いでいた。叔母は俊子といい、両親を亡くしている私たちの暮らしを、何時も気にかけてくれていた。私たちの母は既に亡く、父は、昭和19年の晩秋にフィリピンのレイテ沖で戦死していた。

 「ボンが一人前になるまでは、まだまだ元手が掛かるでなあ」

 祖母は、縫い物をしながらも、ただ黙って祖父の話を聞いているのだろう。その気配は十分に感じられるのだが、声や動きが伝わってこない。私の座っている位置からは、火鉢で手をあぶりながら勝手に持論を説いている祖父がよく見えていた。祖母は死角に居て全く見えないが、しゅーっしゅるる〜っと糸を扱く音から判断すると、いつものように不満顔で、針仕事をしながら、耐えて祖父の小言を聞いている姿が私の頭の中に浮かんでいた。

 「孫娘に中学校もよう出さんと奉公に出すやなんて、世間体が悪いやおまへんか」

と祖母が、ちょっとだけ逆らっている。

 「そうかて、面倒見んならん両親が、一番手のかかる時期の孫3人も残して死んでしまうやなんて想像してぇへんがな。精一杯に頑張って坊主を一人前に育てたらあいつらも納得してくれるやろ。それが儂の冥土への土産や」

 「金みたいなもん、何とかなりますわいな。金は天下のまわりもの…て言うやおまへんか。田畑を売ってもよろしいがな。わての余所行きの着物をぜーんぶ売ってもかまいませんぇ」

 「アホぬかせ、今のご時世にそんなもん買うてくれる人いるか」

 「なんぼ女の子や言うたかて、弥生も、せめて中学ぐらいはだしといたらんとあかんのと違いますやろか? 香織かて、女学校を中途で辞めさせられる言うて泣いてましたがな」

 「女の子みたい、どうせ他人さまにやるもんやないけ。大事なんはボンや」

 頑固な祖父に、もうこれ以上抵抗しても無駄なこととは知っていても、祖母としては矢張りひとこと言っておきたかったのだろう。祖父は、もう決めていることでも、祖母に相談を持ちかけて置かないと不安だったのだろう。私の辛い思い出の中の出来事である。
祖父母の会話は、子供の意思など全く考慮に入れていないものだった。

長姉の香織は、八幡町という4kmばかり離れた町立の女学校の3年生だったが、学制改革により新制高校へ上がるか、新制中学で学業を終えるかの選択を迫られ、結局自分の意志を通せず、退学に踏み切ろうとしていたのである。弥生も中学校の一年生で義務教育の最中なのに、祖父はこの際まとめて2人とも退学させて働きに出そうと決めているらしかった。

寒村の小さな集落で、背中を寄せ合って暮らす貧乏な家族に育っても、こんなことを理由に退学するなんて、2人の姉にとっては口惜しかったに違いない。祖父以外に決定権の無いことだから、他人の口出しできる領域ではないが、姉たちの受け持ちの先生が日参して祖父を説得していた事を覚えている。

「残念のひと言につきますなぁ」

頑固な祖父に、とうとう担任の先生も、愛想を尽かして諦めたのか、我が家への訪問はある日を境にしてポンと止まった。この思い出は、私にとって悔しさと淋しさと辛さが尾を引く出来事であった。

私の物差では、祖父は肉親であったが敵方の考えを持った人であり、先生は、他人であっても味方の考えを持った人であった。

 昭和24年の早春、日ごとに畳の目ほどの温かさが蘇っていた2月の末のことだった。毎晩、私を除いた4人の話し合いが続いていた。台所と呼んでいる6畳程度の小部屋。板間と畳の半々で仕切られていたこの居間は、冬は暖かかったので家族が集まるのには重宝なところ、便所へも風呂場へも板の間伝いに行ける便利な部屋だった。沈黙が続いても、思案の中身は矢張り私の将来と経済的な支えをどうして行くのか、たった5人の小さな家族が、将来の生活設計を立てるのに必要な最低の基本が話し合われていたのである。

 「ボンは、じっとしとりっ!」

と姉に叱られても、話題が興味のあることだけに、気になって仕方が無かったあの日のこと。結局、2人の姉たちは、3月末でそれぞれの学校を退学して、4月早々から大阪の叔母の許で働くという悲しい決意をした。そんな暗い会話の内容なのに、終始和やかに、笑い声さえ漏れていたことが唯一の救いだった。

 姉たち2人は、兎にも角にも、人口が5千人にも満たない小さな村の環境から、近畿圏では最大の大阪という都会に出て行けることに希望を繋いでいたのだろう。祖父が仕切る家から解放されることの喜びを肌で感じているようだった。2人の姉が羨ましかった。

 3月の末に、姉たちが祖父に連れられて大阪の叔母のところへ旅立って行った。

 自宅から最寄の駅は、国鉄東海道本線の篠原駅で、4kmばかり離れていた。そこまでたどり着くのがまた一苦労であった時代。利用できる交通機関もなく、自転車はまだまだ高級品で、大抵の場合は徒歩だった。小高い丘の頂にある駅は、登り道だから、子供の足では1時間くらいは掛かったと記憶している。

 別れの朝、彼岸を過ぎの早朝の5時半はまだ薄暗く、私と祖母は手を繋いで日野川に架かる仁保大橋の坂を登りつめたところまで見送って行った。

 琵琶湖に注ぐ大川は、その殆んどが天井川で、川底が集落の地面よりかなり高かった。

 「ボン、しっかり勉強しいや」と祖父に歩調を合わせながら、振り向き振り向き手を振る弥生。立ち止まって振り返り、その姿勢のままで後退するような格好で何時までも未練がましく手を振り続ける香織。

「はよ歩かんと、汽車の時間に間に合わんぞ!」

と、急かせる祖父の声。

3人の姿は直ぐに堤防の向こう岸に消えて無くなってしまった。

 「淋しくなるなぁ…ボン」

と祖母がすすり泣きながらポツリと言った。

 その日の夜に、祖父が帰って来て、

 「若い子が増えて大歓迎されたぞ」

と祖母に告げている。我が家にはもう子供は私一人。賑やかな笑い声も、取っ組み合いの姉弟喧嘩も消えて淋しくなった。3人が共同で使ってきた2階の4畳半の小部屋は、私一人のものになった。

 「狭い、狭い」

と取り合っていた部屋の位置は、急にガラ−ンとしてやけに広く、私だけが既製の座机で、2人の姉はみかん箱を改造した祖父の手製の机だった。

 うしろめたい思いが胸に込み上げてきて私は鼻をすすった。部屋の窓の真下に庭がある。そこから伸びている柘榴の木と、まだ未練がましく紅い花を付けている寒椿。やや低く刈り込まれたサツキの築山から、にょっきり顔を覗かせている擬宝珠の欠けた石灯籠。この損傷は、昭和19年の12月に起きた、東海近畿地方を襲った大地震で倒れた時についたものである。私は長い時間、ぼんやりと椿の紅色の花を眺めていた。

 「貧乏も底まで落ちると後は上り坂だけや。楽しんで働いてりゃ、何時かきっと今日よりは良い日が来る」

と、何時も楽天的な生き方を教えてくれた祖母の奈美が、その年の秋に急死した。私は何時も祖母と一緒に寝ていた。

ある朝突然大事が起こったのである。その日に限って早起きの祖母が何時までも起きてこなかったのである。私は祖母の死を全く気付かずに寝ていたわけだ。

 急遽2人の姉が電報で呼び戻された。

 葬式が終わると、上の姉は、祖父と弟の面倒を見るためにそのまま家に残った。

 翌年の3月になって、弥生が突然奈良から戻されてきた。

 「修学旅行で、生徒を引率してきやはった東京の中学校の先生が、叔母さんに注意しはったんや。『親の務めとして、義務教育だけはどんな事情があったとしても受けさせることが新憲法で決められている』ということらしいわ」

そんな基本的なことが、祖父母や叔母たちには理解できてなかったのである。

「学問なんて言うもんは、家ででも十分できる。人間はみんな、生きている限り毎日が勉強で、そして競争で、生きた学問を地域社会で学んでる」

と、言い続けてきた祖父が、大きな衝撃を受けた出来事だった。この一件があってから、祖父は自分の生き方に完全に自信を無くしてしまったようだった。暫らくしょ気返っていたし、以前のようには孫たちを叱らなくなった。昭和25年の春を境にして、我が家の指導権は16歳の香織に移った。

 祖父は、その日から3年半生き長らえたけれど、以前の記憶に残るような頑固で頼り甲斐のある覇気を失ってしまっていた。

 2人の姉も既に他界して半世紀が過ぎた。私の生まれた村は合併で近江八幡市になったけれど、毎年墓参りに帰る故郷は、そんな思い出がぎっしり詰まっている私だけの秘密の場所なのである。

(2008年)