栃内まゆみ
からだの耳
春爛漫のお花見の季節に、私は友人と満開の桜の下を歩いていました。友人の住む大きな団地群は豊かな緑に囲まれ、周辺には桜の大木のほかに新芽を吹いた雑木林があり、ひんやりとした風が吹くと木々がいっせいにさわさわと鳴り、桜の花がぱあっと散ります。鳥の声や人々のざわめき、郵便配達のバイクの音、そういうものを身に受けながら、年に一度のこの時期、この美しい瞬間を、あと何回自分は味わえるのかとふと思いました。この感覚は二十代、三十代の頃には全くないことでした。
桜の花の散る光景は、子供の頃から今までの間に何度も繰り返して見てきたはずですが、記憶の中に鮮明に残るものは意外と少ないです。数年前、思い立って行った吉野山の奥千本の桜は、言葉では言い尽くせないほど華やかで、ものがなしくもありました。
またあるとき、窓越しに桜が散るのを見ていたことがあります。朝の光に照らされて静寂の中、微風に花が散っていました。花びらが空間を斜めに横切って落ちてゆくのを見ていると、音のないしんしんとした世界の中に、深い響きと営みとを感じました。ぼうっとしていたのか、「カァー、カァー」とからすが鳴き、車が往来を通る音がしてはっとわれにかえりました。
実際に耳に聞こえてくる音のほかに、「無音の音」というものがあるような気がします。桜の花の散るときに感じた無音の音を、冬の銀河の下でも感じたことがあります。
それは十二月の八ヶ岳山麓で、焚き火にあたりながら星空を見ていたときです。オリオン座が大きく広がり、すばるが輝き、光の粒が真砂のように散りばめられた星の海。自分のからだが地面にちゃんと立っているのに、その重さが少なくなり空のほうに吸い込まれてゆきそうでした。そしてやはり無音の音が、音のない静寂の中に無限の音が込められて、銀河の中でしんしんと鳴っている、そう感じました。
それは、ほほの両側の耳で聞く音ではなくもっとからだの奥のほうで感じられるものでした。花や銀河の営みから響いてくる「何か」を感じると、その営みと自分とが直接的につながった感じがしてきます。そうすると、「あと何回のお花見?」というような、自分が有限である感覚から自由になり、不思議な一体感を味わいます。
私は、生演奏の音楽劇を非営利で公演する劇団に参加していて、童話や民話を元に仲間と作った作品を小学校や劇場で公演しています。私の役割は物語から音楽を作ること、その音楽を芝居とからませながら色々な楽器や歌で表現することです。
芝居音楽に関わっていて、とても興味深く思うことがあります。あるシーンから音楽を作る時、その情景に合ったそれらしい音楽をつくる、というと当たり前のようですが、「いかにもそれ風」の音楽が必ずしもよいものではなく、心に残らない表層的なものになってしまうことがあります。逆にそういうものが必要なときもありますが、ほとんどの場合「いかにもそれ風」では心の中にすっと落ちないことが多いです。そういうとき、物語全体から響いてくるものにずっと耳を傾けていると、音楽の生まれる直前の、何か原型のようなものがしんしんと感じられることがあります。強い原型が感じられるときは音楽ももう一息で生み出され、芝居ともかみ合ってくることが多いです。
その原型は心の中で普遍的なものにつながっています。そういうとき、冬の銀河から感じる「しんしん」や、静寂の中で花の散る「しんしん」を思い起こします。花から宇宙までの脈々とつながっている営み。人間もその中で必死に生きているのですが、人々が生み出す物語の大元もまた、その営みにつながっているように思われます。
耳以外で感じる響きについてですが、ある劇場で字幕付の公演をしたときのことです。その劇場には、耳の不自由な方たちにも映画や演劇を楽しんでもらえるように、台本を字幕に映す作業をするグループがありました。私達の音楽劇も、セリフがプロジェクターで投影され、楽曲や歌や効果音の箇所には「音楽が鳴っている」という意味で、文字の合間に音符の記号が入りました。耳が不自由な方は音楽はきこえないけれども、奏者の動きを見、音の振動をからだで感じられるそうです。その劇では太鼓や色々な種類の打楽器も使われていました。上演中、演奏しながら、私達とその方たちとの間には、見るための光と感じるための空気という媒体があるのだと実感しました。
耳からではなく、振動によって感じられる音楽とは、どのようなものなのか。エヴェリン・グレニーという耳の聞こえない打楽器奏者の女性は、音の振動によって音楽を感じながらマリンバや太鼓のすばらしい演奏をするそうです。彼女は演奏しながら音楽のうねりや高まり、密度、間やくり返しや収束感などを全身の皮膚を通して感じとりながら音を作り出してゆくのだと思います。からだ全身での表現です。私はそのすばらしさを、演奏を生で聞いた人たちの感動の言葉からしか分からないのですが、一度ぜひ聞いてみたいと思っています。たくさんの努力の積み重ねと情熱とによって裏打ちされた演奏だろうと思いますが、聴覚が不自由な分、からだ全身の感覚が研ぎ澄まされ、より深く練磨されていくのでしょうか。いつかその演奏の場にいて、響きをからだで感じてみたいです。
音楽を聞いて深く感動したときには、からだごと持っていかれるという感覚があり、そのときは耳で聞く、脳で聞くというよりは全身全霊で聞いています。ライブハウスのロックバンドの音のうねりに、身を乗り出して全身で拍をとっていたり、また音楽ホールでピアニッシモで歌われるひそやかな歌に、深く胸を打たれたりします。そういうとき、心身の回路が開かれ、外から入ってくるものによって自分の中の様々な感覚がよび覚まされ響きあい、聞くということが積極的な行為となっています。一方で字幕付劇場での体験やエヴェリン・グレニーの演奏のことを思うと、まだまだ未開拓の感覚の可能性が、自分の中に眠っているはずだという気がします。
耳が聞こえないことによるとらわれも、聞こえることによるとらわれも、両方とも超えてしまった向こう側にある何か。それが何であるか言葉では表しにくいものですが、からだで響きを聞き、自分も響きあうという体験に、多くめぐり合いたいと願っています。
(2007年)