お茶を飲まんね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・戸高節美


 祖母を訪ねると、必ず、
「お茶を飲まんね。」
と、宮崎なまりの方言で、お茶に誘ってくれました。祖母に言われるがままに祖母の部屋に上がると、手慣れた手つきで手早く急須にお茶の葉を入れお湯を注ぎ出してくれました。
 お茶は煎茶ではなく釜入り茶といって、五右衛門風呂を一回り小さくした様な鉄製の釜の中に摘んだばかりのお茶の葉を入れ、水分がなくなるまで素手でお茶の葉をもみ込みいるのです。下からは薪をどんどん燃やすのでかなり熱いと思うのですが、祖母達は皆平気な顔でやっていました。現在ではこの工程を家庭でする様子は見られなくなりましたが、私が子供のときは、お茶摘みに始まり自宅庭の釜でお茶の葉をいるまでがお茶摘みだった様に記憶しています。
 この釜入り茶は見ためではわかりませんが、お湯を注ぐと釜でいっているので緑色ではなく黄色に近い色になります。決してお抹茶のように上品ではありませんが、素朴な色と素朴な香りが味わえます。
 そしてお茶を入れてくれる祖母の姿と、釜入り茶の絶妙なバランスが、とても温かいティタイムにしてくれるのです。
 祖母と二人、お茶をすすり飲みながらいろいろな話をしました。亡くなった祖父がいかに格好よかったかという話、祖母と仲の良い妹「なっちゃん」の話などなど、いつまでも話はつきず、楽しい時間でした。
 当時高校生だった私は友人の勧めもあり、本を読むのが日課でした。「嵐が丘」や「風と共に去りぬ」、「ジェーンエア」など異国の恋愛物語の中にどっぷりとつかり、似ても似つかぬヒロインに自分を重ね、憧れをいだいていました。
「なぜ人間は戦争をするのか」なんて難しいタイトルの本を読んでいたのも、今考えると大人の女性に近づきたくて背伸びしていたのかもしれません。その本の文中には、
「人間が戦争をするのは、戦争によって利益を得る人がいるからだ。」
ともっともらしいことが書いてありました。頭の中では十分理解できたつもりだったのですが、それだけだろうかと疑問が湧いてきて、祖母に答えを求めたわけではなかったのですが、
「なぜ人間は戦争をするのだろうね。」
と、問いかけてみました。祖母は、
「皆んな信じるものが違うからね。」
と、答えてくれました。
 戦争を体験していない十代の私、本や映像の中だけしか戦争を知らない私と、自ら戦争を体験し、病弱な夫と五人の小さな子供を抱え、毎日生きるか死ぬかという過酷な日々を過越した祖母、夜が明けるまで戦争について語り合ったとしても話はずっと平行線のままだったでしょう。きっと孫の私を気遣い、一番わかりやすい言葉で戦争を教えてくれたのではないかと思うのです。
 そんな祖母も八十歳を迎えた頃から少しずつ認知症が入り、八年程前から特別老人ホームで生活しています。九十歳を超えたこの数ヶ月はかなり体力が衰え、体のあちこちに故障が出てきて、のども細くなり大好きなお茶さえも飲み込めなくなりました。
 子供のときの私は、熱すぎるお茶に不平を言い、冷めて苦くなったお茶に不平を言い、お茶がおいしいと思いませんでした。
 この頃やっと、お茶の熱さも苦さも全てがおいしいとわかり出したのに、祖母と二人一緒にお茶を飲むことはもうできないのです。
 もし叶うのなら、今度は私が、
「ばあちゃん、お茶を飲まんね。」
と、祖母をお茶に誘ってあげたい、そして一口でもいいから祖母の口にお茶を含ませ、のどを潤わせてあげたい、と願っていた矢先祖母は静かに息を引き取りました。
 享年九十五歳でした。死に顔はとても柔らかい優しい顔でした。まるで寝ている様で、
「ばあちゃん、起きらんね。」
と、声を掛けたら、今にも起き出してきそうでした。
 通夜にも、思っていた以上にたくさんの方がお別れを言いにきて下さり、私や妹、いとこがお茶を出すのですが、まるで喫茶店並の忙しさでした。
 もしかしたら、祖母が皆さんに、
「お茶を飲まんね。」
と、一人一人に声を掛けていたのかもしれません。
 まだ亡くなり間もないので、時々ふと思い出し涙が出ることもあります。でも思うのです。忘れないことも供養かなと。
 今頃はきっと、先に旅立った祖父や兄、姉そして友人達に久しぶりに再会し、お茶を飲みながら、会話がはずんでいることでしょう。耳を澄ますと、祖母の笑い声が聞こえてきそうです。
(2010)