シャコバサボテン・・・・・・治々和洋子
 
 わが家の玄関に三十年以上も活き続けてきたシャコバサボテンがあります。在職中は手入れも出来ず、たまに水をあげるだけだったので花を付けない年が多く、細々と活きていてくれたという感じでした。
 退職後、時間ができて大きな鉢に植え替え、葉を千切っては挿すことを繰り返してきました。今では鉢いっぱいに広がり、花の時期には見事に赤い花を咲かせます。
 私が三十代のころ、勤めていた施設に入所してきた若松さんという大変穏やかなお爺さんが、プレゼントしてくれたものです。
 
 北九州の片田舎で半農半漁の貧しい家庭に生まれ、十代で家を出て農家の作男のような生活を皮切りに、定職も持たず各地を転々としてきた人でした。
 生活保護を受給し、施設に入所してきた時は病気に侵されており、
「全身にしびれがあり、特に手足が良くない」と静かに話してくれたことがあります。
 長期間の不安定な生活が、このような結果をもたらした最大の原因ではないかと思えました。それでもこの宿所提供施設に入所できたことをとても感謝していました。
 僅かな生活保護費の中からカイズカイブキの苗木を一〜二本ずつ買ってきては、殺風景な施設の周りに生垣を造っていました。
 ある時私が、
「お金は自分の生活のために使ってくださいよ」と注意すると若松さんは、
「自分のためだけに生きても何も嬉しくない。みんなが喜んでくれればそれでいい」
 と言ったのです。そんな若松さんに、私は返す言葉が見つかりませんでした。
 昭和四十八年二月、自室入り口付近で倒れ、往診してもらうと心臓が極度に弱っているとのことでした。入院を勧められたのですが、頑なに拒み続け、すきま風が通り抜ける寒い自室で療養することになったのです。
 それでも暖かくなると少しずつ外出できるようになり、
「無理しちゃ駄目ですよ」 
 と止めても授産作業に参加し、
「垣根も早く完成させなきゃあ」
 とスコップを持ち上げ、コツコツと苗木を植え続けていました。
 数年後、再び体調を壊し、やせ衰えて最終的には愛知病院へ入院し、肺腫瘍で昭和五十一年六月十日、六十九歳の生涯を閉じられました。
 在所期間は五年と少々でしたが、不自由な体に鞭打って、少しでも人のために役立つことで生活保護の恩恵に報いたいと思って頑張っていたのでしょう。
 今思えば、彼にとって永い流転の果てに辿り着いたこの宿所提供施設の一室が、初めての安らぎの場だったのかもしれません。
 一年くらい経ったころ、施設の敷地内に住んでみえた上大迫さんという方が、
「実家のある九州に里帰りする」
 と言って事務所にみえました。
 若松さんは時々、上大迫さんの家でお茶をよばれていたことがあり、その折にでも同郷であることを知り、故郷の思い出を語り合っていたのでしょう。
「若松さんは仏様みたいにいい人だったので、故郷の土にお骨を返してあげたい」
 と言われたのです。
 福祉事務所の主事さんが「身寄りの所在を」と、手を尽くして捜してくれた結果、鹿児島県に住む甥の存在が分かり、お骨の引き取りも了解してくれました。
 上大迫さんは、阿久根市内をあちこち尋ね歩き、苦労して若松さんのお骨を故郷に返してくれたのです。
 まだ若輩であった私は、上大迫さんの奇特な好意に甚く感じ入るというところまでは到達していなかったのですが、彼女の行為がどれほど崇高なものであったか、今になってとてもよく分かるのです。
 
 小さな鉢で貰った一株のシャコバサボテンが、私の家で子孫を増やし、大きな鉢で今も活き続けています。そして、温かい心で誠実に生きた若松さん、上大迫さんの記憶を蘇らせてくれるのです。
 今年も、もうすぐ見事な花を付けるでしょう。