・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中浩司



 あまり長く生きていたくはない。私は統合失調症である。その分、人の助けが必要だが、誰一人として助けてくれはしない。ただ母が愛情を持って接してくれるが、それにも限界がある。父は冷たい。私には関心がないようだ。生まれてから父とは話をしたことはない。それがいつも必要以上に私を苦しめる。父の声がしただけで恐い。いつもなにかされるのではないかと私はおびえている。
 福祉も冷たい。福祉作業所の職員は「田中さんの力になるから」と言ったきりもう二十年以上は会っていない。病院も冷たい。私が勝手にそう見えるのだろうか。しかし、冷静に判断してみても皆冷たい。
 結局は一人だ。私、一人だ。
 絶え間なく不安になり、いつも苦しいなぁと感じる。生きているのがめんどくさいと感じる。これは統合失調症の症状だ。生きる意欲が低下しているのだ。でも、死ぬのは恐い。恐くて死ねない。
 私は朝の二時半に起きて新聞配達をしているが、生きる意欲が低下しているのに、よくそんなことができると、私は私を凄い! と思える。でも、たまたま今は強くなっているだけのことで、またいつ弱くなるかわからない。弱くなった自分を頭で描いて、弱くなったときの準備はしている。
 自殺とは生命の寿命である。よく、耳にするのだが、気が付いたら高いビルの屋上に立っている自分がいたとか、電車がきたら体が自然に踏切りの中へ入って行ってしまったとか、である。
 本人に寿命がきているのに自殺防止キャンペーンをするなど甚だ迷惑な話だ。
 私は、ハトが自殺するところを以前見たことがある。
 朝、喫茶店の二階でコーヒーを飲んでいるとき、一匹の痩せたハトがなにもためらうこともなく、交通ラッシュの中へ、すーっと入って行った。自然に。死ぬ瞬間は喫茶店の柱に隠れて見えなかったが、体毛がパラパラと舞っていった。そして数分たち、アスファルトが血まみれになった。私が鼻をつまんだ。が、日常生活は続いている。クルマは往来し、通行人は普段通りだ。まるでなにもなかったかのようだ。
 私は死にたいが、自殺するほどではないということ。まだ寿命がやってこないということだろう。
 一番困るのは女性である。
 私がよく利用するドラッグストアであるが、そのドラッグストアで缶コーヒーとかミネラルウォーターとか日用品をおもに買うのだが、そこのMさんという店員が、私にとても好意を寄せている。勘違いなんかではないんだ。本当に好意を寄せているんだ。
 私が彼女のいるレジへ行けば、彼女、コッチコチに硬くなる。なんか妙な動き方をする。私が話しかけると、彼女、真っ赤になる。おつりをくれる手もぶるぶる震えて、お金を落としそう。
 以前、彼女に年を聞かれたことがある。
「四十九です」
 と言うと、彼女、真っ赤になりながら「私は三十六歳です」と答えた。
「私はまだ結婚はしたことはなくて」
 すると彼女も「私もです」と言った。
 彼女、直立不動でコチコチだった。
 私は結婚したいのだろうか。そんなに強い男ではない。いつ新聞配達をやめるかわからない。障害者年金と、彼女の働いている給料だけでは生きていけるわけはない。それをわかっているのに、そのドラッグストアへ買物に行く私は、生きる意欲はあるのだろうか。いや、たまたま今は強くなっているだけだ。彼女に迷惑をかけないほうがいい。自分をコントロールしてあまり彼女に会いにいかないこと。でも、彼女が緊張するのが面白い。だが、別にどっちでもいいことだ。
 私は一人なんだ。手をかしてほしい。結婚は苦労。もっと楽になるために手をかしてほしい。しかし考えてみれば、心までも、いや、脳までも力になれる人などいない。身体障害者だったら力になりやすい。しかし精神障害者は脳の病気。見えないから手のかしようはない。私のように、不安や生きる意欲の低下など手のかしようはないはず。他から見ると、怠けているとかあまえているようにしか見えないだろう。

 食事を一人で食べるようになって、もう一週間が過ぎた。三度の食事を父と一緒に食べるのがあまりにも恐くて、家族三人では食べなくなった。母が私のいる二階のそばの廊下まで持ってきてくれる。父と母は二人で食べる。私は、二階の自分の部屋で食べる。落ち着く。御飯も旨い。しかし苦しい。苦しみがまた増えた。なぜ父はいつも母としか喋らないのか。どうして私と話をしないのか。私の方から父に喋る勇気はない。恐い。私も悪いと思う。しかし、障害者の私になぜ父は話をしないのか。もう四十九年話をしていない。
 父は昼間も酒を飲む。人間が変ってしまう。態度が大きくなる。酔っぱらいながら強烈に私を睨んだときもあった。いつも近くにいるのに、会話がない。話をしないということは、私にとり恐怖である。また、私は父に対して申し訳ないという気持ちと、強い怒りがある。
 私はダメ人間である。
(2010)




最悪・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中浩司


 会社を一週間も休んでしまった。そしてその一週間、自分の家のベッドに寝ていた。一日、二十四時間ベッドに寝ていた。いや、眠っていた。母は心配して、私の部屋に一緒に居た。御飯も食べなかった。水は、飲んだかなあ。幻覚を見た。金縛りにもなった。それが統合失調症の始まりだった。あの当時は精神分裂病と呼ばれていた。十九歳の時だった。私は、ダメになってしまった。
 統合失調症というのは、発病した時の症状が一番重い。最初の十年位だ。薬を飲み続けていれば症状は徐々に回復する。そして薬は一生飲む。今、私は落ち着いている。年齢は五〇歳。
 その症状の一番重かったごく初期のことを書いてみようと思う。しかし、あまり覚えていない。
 会社へはもう行けなくなった。母と相談して、会社は辞めた。辞めるまでの間、社員は家へ様子を見に来てくれた。まだ、その時は病院へ行っていなかったので自分が病気だとは知らなかった。ただ怠けているだけだと自分で思っていた。母からもそう思われていた。でも、辞めた。会社は辞めた。一年間勤めた。
 母は、真面目な私が急に変わってしまったので、これは変じゃないかと思ったらしく、私を神経内科へ連れて行った。医者は、「ノイローゼだよ」と軽く笑って、薬をくれた。「すぐに治るよ」と言った。そして会社を探しすぐに勤めるように言われた。

 会社を求人広告ですぐに探し就職した。そこの会社でもやはり同じ症状があらわれた。同僚が私のそばで会話をしていると、なぜか私の悪口を言われているような気がした。会社に居ると非常に神経をつかった。仕事も思うようにできなかった。残業などせず早く家へ帰りたかったため、仕事も違反をした。そして上司に見付かり、辞めさせられた。その会社はたったの三ヵ月勤めただけだった。
 その後も正社員として職を変えた。沢山変えた。沢山会社に勤めて、辞めた。短い所では半日で辞めた会社もあった。私はもう働くのはイヤになっていた。いや、高校を卒業した時から会社へは行きたくはなかった。さすがに母は、私のこのような行動はおかしいと思った。そして、大きな精神科の病院に両親に連れて行かれた。
 医者は、診察室から私を出した。母は、待合室のいちばん奥に座ってタバコを吸っていた父を呼んだ。母と父が診察室で医者と話した。
 病院の帰り、お寿司屋さんへ三人ではいり、寿司を食べた。母は、「浩司、もう働かなくていいよ」と言った。
 思えば学生から社会人になった瞬間から、私の世界は変わってしまったような気がした。全てが変わってしまったのだ。世の中が私に対して敵意を持っているように思えた。その頃から私は非常に無口になっていた。

 それから、ずーっと家に居た。症状は不安が強かった。そしていつも緊張していた。何に対してなのかわからないが、頭の中には絶えず不安と緊張があった。症状は以前より重くなった。不安、緊張が、かなりいや、非常に強くあった。私がこんなことなので、母も体調を壊してしまい、幼い頃あった喘息が再び再発した。父は、そんな弱い私達を怒るばかりであった。家は、父の稼ぐ給料だけで成り立っていた。ただのお金だけで家族は存在していた。
 ある時、母と言い合いになり、不安がピークに達して具合が悪くなり、床で寝転んで苦しみ泣いていると、いつも庭で放し飼いにしている犬が、とんで来て、私の頬をつたう涙をなめてくれた。私が床にずーっと寝転んでいると、犬も一緒になり寄り添い寝ていた。そして私のそばから動こうとしなかった。
 不思議なことだが、あの頃は、今現在のように、生きていてもつまらないとか、あまり生きていたくはないという気持ちは湧かなかった。ただただ生きていくのに精一杯で何とか生きなければと常に思っていた。自殺することなど全然考えなかった。そして、この狂った頭を早く正常にしなければと思っていた。
 その頃、入っていた詩の同人誌も辞めてしまった。同人とは関わりを持ちたくなかった。世間とも関わりは持ちたくなかった。一人で居たかった。
 女性にも関心はなくなってしまった。とても強くあった性欲は、今思えばどのように処理していたのか思い出せない。人とは関わりを持ちたくなかったので、ソープランドにも行かなかった。
 しかし、とにかく生きたい! と絶えず思った。生きるのだ。死んだら困ると思っていた。強く思っていた。そして目標はあった。有名になりたい。と、変なことを考えていた。その頃聞いていた。その頃聴いていたRCサクセションとかビートルズのような巨大な音楽家になって名前を知られるようになりたい。または、太宰治や芥川龍之介のような作家になって名前を知られるようになりたいと強く思っていた。しかし、そんな変な考え方が生きる力につながった。

 母は喘息で幾度も病院に入院した。今思えば、もしかしたら母は死んでいたかも知れない。母を苦しませ病気にしてしまったのも、みんな私の病気が原因だ。みんな私が悪いのだ。ある時、母が車イスに乗せられ、病院に運ばれる時、父は酒のせいもありイライラして非常に母を怒ったという。医者にも看護師にも、あとで母は謝った。私は何ていうことを父はしてくれたのだろうと、思ったが、これも今になってみれば、私が悪いのだ。みんな私が精神病になったのが悪いのだ。

 私が精神病になってしまって、両親にも本当にすまないと思っている。
 こんなことが発病したごく初期の出来事であった。あまり書けていない。しかし、あの頃のことは、私にとってあまり思い出す必要もないことだろう。
(2011)