トレーニング犬の死 ・・・・・・・・・・滝沢厚一



一九八八(昭和六十三)年の秋、わが家に生後三か月の子犬が届けられた。白色にうす茶がかつた毛もじゃあらで、たれ耳だが秋田犬とスピッツの、あいの子のようなライオンにも似た鬣をしていた。足がけっこう太かったので中型犬ぐらいにはなるかと。母犬からはなされた子犬は寂しさからか一晩だけ吠え叫んだが、二日目からは何食わぬ顔をして適応をみせ、息子たちから与えられたパンくずや牛乳をのみほした。子犬はタローと名付けられ、わが家での第二の人生(犬生)のスタートを切る。

犬を飼うことにしたのには二つ理由があった。一つは、職場の友から貰ってほしいと頼まれたこと。二つには、当時小学五年と二年の息子に子犬を見せたところ、世話をすると言い出したからである。しかし、それは空手形に終わる。長男はバドミントンに熱中、次男は少年野球に興味を覚えはじめ、犬にかまっていられなかったのだ。細君のヒデコがいうに「あなたが好きで勝手に貰ってきた……」。結果的に私がタローのめんどうをみることとなった。

半年も過ぎたころ、タローの首輪とクサリは成長と共に大きく太くなり、それに比例するがごとく力もついて、犬小屋に繋留している針金もよく切れ太いものと交換。田んぼ道や山畑で放してやると、一目散に走りだし私を置き去りにすることたびたび、つい二・三か月前は私の後をノコノコと追いかけてきたのに、タローは成犬になろうとしていた。だが、満一歳を迎えようとしていた八九年の春、はじめて病気らしきものに罹った。一週間、水以外は何も受け入れなくなったのである。原因はわからないが獣医師によれば、子どもから大人へ脱皮する過渡期の様なものだと。

 成犬タローがいちばん元気だった時期は、満一歳過ぎから五歳までだったろうか。このころは一日一食になり身体もふっくら、クサリを引く力も強く、第三セクター鉄道の阿武隈急行線横倉駅・出羽神社の石段もグイグイと上る。子どもが乗るソリなら楽々と引いたであろう。毎朝四十分ほどの散歩、もちろん私自身の運動にもなっていたが雨天や二日酔いでもなかったら、できるだけタローをつれだした。いや、毎朝時間になるとワンワンと吠えて催促された。散歩中、偶然にも五千円札を嗅ぎつけ、キツネ・タヌキと出遭わすものなら一所懸命、山畑を追いかけまわした。しょせん野生動物にはかないっこないのに飼い主への忠誠、狩りの手伝いのつもり? それにタローは人間には親愛の情を示し、決して噛みついたりしなかった。これは子供たちにも同様だったが、相手が子供のときは特に気をつけていた。タローの力がかなりあったからだ。私ですら散歩のとき、クサリをさらわれ転んでしまったことも。子供たちも、かわいい可愛いと触ってくる子と怖がる子。タローは子供たちと戯れるのが好きだった。横倉小学校グランドに少年野球の練習でいるのを知っていたのだろう、よくすがたを現しボールを追いかけ走った。

「滝沢さんとこの犬、また来ているよ……」って。

 タローの「老い」を実感するようになったのは九三(平成五)年過ぎだったかと思う。平成六年の戌年を迎えようとしていたころから、私はいつも散歩では仕事の段取りから、少年野球のこと、そして四季折々の風景に魅せられ俳句、川柳、諸事万般まで思考をめぐらした。いつの日かタローが死んだら、慣れ親しんだ散歩コース出羽神社の境内に埋葬してやろうと思うようになった。自身この十年、その分だけは確実に年とった。以前は競走で田んぼ道を走ったが、タローはそういう私を見透かすがごとく五、六メートル先をそれなりに走る。それがいつのころか逆転、私がタローのまえを行くようになっていたのである。散歩中、地元の人からよく聞かれた「だいぶ年とった犬のようだけど……」私は、「ことし十歳になるんです。こうやって一緒にトレーニングしている」。

それに平成六年三月末、長男の大学入学のため家族四人で東京に出かけ際、のこされたタローの不安そうな顔、そして二日後に帰ってきたとき、泣き声あげてすりよってきたすがたが今でも忘れられない……。否、私の身辺がいそがしくなっていたのも現実。仕事のほかにも少年野球のコーチ、市少連(角田市少年野球連絡協議会)の事務局・審判員などで土日はほとんどつぶれた。さらに、叔父の病で人工透析通院のため岩沼市まで送迎、救急車にまで同乗、交通事故にも遭遇。イライラとストレスだって溜まってくるが、本業の水道事業所はベテランゆえ何とかこなしていた。だが、タローの世話は忙しさにかまけて夜間、放すようになり朝の散歩はやめてしまった。いや、できなくなったのが実際。これがタローの寿命を縮めてしまった一因だったかも、一晩中タローは何をしていたのだろう。翌朝には疲れ果てたように横になっていたが、ちゃんと家に戻っている。タローはもうノラつかなくなっていたのだ。

 平成十年六月十三日、永久の別れは唐突にやってきた。あの日の天候はたしか、どんよりとした曇り空。ことしは早い入梅だったが、わが家の庭には雑草もだいぶ生えヒデコは草むしり、私は午後五時ごろからいつもの晩酌ビール。……夕食をはさみ、さておタローさんにも食べさせようとしたが、出てこない。はてな? と、ヒデコに「タロー放してやったのか」と聞けば、放してないという返事。そしてふたたび犬小屋へ、タローが皐月の花の下、コンクリートブロックを背にうずくまっている。私は一瞬、しまった! そこには、タローの息絶えた骸が横たわっていた。首に手をやると頭が、だらりと垂れ身体はまだ温かく、私の手には吐血がベットリ……。タローが死んだと悟る。すべてが終わったと、それから一時間余り居間に戻り酒酌みながらタローの追悼をした。そして脳裏に、出羽神社の裏山に埋めてやらなくては……。との想いに駆られてきたのである。

躊躇はなかった。首輪をはずし、ダンボール箱にタローを入れて縄で縛った。重たかった二十キロ以上はあったとおもう。夜も八時半ヒデコとふたり、車でスコップと懐中電灯を持ち横倉駅まで運んだ。誰か見ていたかも駐車場に人影が……。タローの入った棺を担ぎ石段をのぼり頂上の社へと。なんとも例えようのない空しさとさみしさ、あたり一帯の古墳群がいかにも、おそろしい墓地でござるの霊気を漂わせ、スコップで地面を掘りおこすが木の根っこにはばまれ三十分余り。疲労と、あせりこのまま捨ててしまおうかとも。やむをえずタローを置き去り、翌朝もう一度やり直しなんとか葬ったのである。

死因は、犬致死の病フィラリアだった。 

(2007年)