白い犬・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹澤貴



 団体旅行に参加してスイス航空のボーイング727型機で、ローマからヨーロッパアルプスを越えてチュ―リッヒに飛んだ。良く晴れていたので、万年雪をいただき峨峨として聳える山脈が凄い迫力をもって迫ってきた。野中啓介は、飛行中客席の側にある小さな窓枠に額を押しつけたまま、息を飲むような感動にかられ、静かに音もなく変化していく眼下の山脈を眺めつづけていた。
 山の写真を撮るのが趣味で、国内の名のある山なら、そのほとんどに登ってきたといって良い。だが、外国に出るのは初めてのことであり、いつかスイスに行ってアルプスの写真を撮りたい。そんな念願をあたためてきていたのであった。それで六十五歳という歳甲斐もなく、ついに来た。ついに見た。ついに撮影した。昂ぶる心を抑えながらシャッターを押しつづけていたのであった。
 山脈を覆っている雪は、五月の太陽に輝いて、白雪というよりは深い海の色のように碧みかかっていた。そんなところどころに、剥きだしの荒々しい岩肌が、黒々と聳え立っていた。その岩肌も実は、厚い氷に覆われているのに違いないと想像できた。峰を眺めているうちに、ふと野中啓介は、もしいまこの飛行機が事故をおこして墜落でもしたら、永久に発見されることはないのに違いない。幸い発見されたとしても救出は困難をきわめ、時間だけがかかるだろうから、墜落の際、偶然運良く生きていたとしても、生きたままで救出されることは皆無にひとしいのかも知れない。いや、それよりは、恐らく、墜落すれば山脈に激突して機体は粉々に破壊し、乗客の全員も死亡し、散乱した遺体と飛び散った機材の捜査が行なわれることになるのだろうが、その時は、峻しい山脈の中でのこと、総ての遺体や機材を探しだすことなど不可能なことに違いない、などと考えていた。そして、もしそうならば発見できずに残された遺体は、永遠に雪の中に保存されることになるのではないか。心のどこかで縁起でもない、と思いながらもそんなことを考え続けていた。
 やがて、山脈の彼方に、黄色と緑の平原が現われはじめると、飛行機は間もなく高度を下げはじめた。下がるにつれて緑と黄色の模様は、整然と区画された、森と牧野と豊かに実った麦畑であることが分かってきた。山小屋風の民家の集落が点在し、それが中世の面影を残す煉瓦作りの街に続き、鋭く尖った塔のある教会の姿が見え、湖が見えたと思ったら、飛行機は大きく左に旋回しながら機首をさげて、チューリッヒのクロ―テン空港についた。
 観光立国といわれているだけに、空港はさぞや混雑が激しかろうと、覚悟を決めて入国。
 審査を受けるために降りて行くと、審査官はただ人間が通るのを眺めているだけで、旅行者はその前を、パスポートをかざして見せながらどんどん通り過ぎていた。折からスイスは、冬でもなく夏でもない、中途半端な季節のためか、空港のロビーもいたって人影が少なく閑散としていた。
 空港の前から、バスでインタ―ラーケンに向かった。窓外に眺められる並木も山野も、そこにある総ての木々の一本一本までが、入念に手入れされていて、庭先の木に藤の花に似た金色の花が、鈴なりに咲いて長い房になっていた。
 街のメーイン・ストリートであるヘーエ通りの中頃から少し入った、四つ角に面しているホテルに着いた。家族だけで経営しているという瀟洒なホテルであった。
 ゴッホの描く自画像に似た主人に、二階の部屋に案内された。古風な調度品やベツドとバスルームを見て、毎日、マダムと二人の娘たちによって、丹念に磨かれていることが推測された。
 夕食にフオンデユを食べた。十四、五歳くらいに見える妹の娘さんは、マダムと厨房にいて、十七、八歳くらいに見える赤い頬をした姉の方の娘さんが、胸元を赤や紫や黄色で細かく刺繍した民族衣装をつけて、テーブルの上に鍋の用意をし、火加減を見て、食べ方まで教えてくれた。フオンデユも、ワインもチーズも、パンも新鮮で美味かったが、野中啓介にとって何よりも有り難くて、美味かったのはホテルに到着した直後に、洗面所で飲んだ生水であったと感激していた。生水の飲めないイタリアと違って、スイスでは生水も飲めると聞いていたので飲んでみたら、山の雪解けの水を、そのまま家の中まで引いたと思われるような、肌を刺すように清冽な水道の水が、体の細胞の隅々まで生き生きと蘇生させてくれているような気がしていた。   
 ホテルの窓から、暮れ馴じむユングフラウの雪が、夕日に染まって、淡いピンク色から朱色に輝き、刻々と黒色に変わり、やがて暗黒の中に包まれるように消えていく姿を、野中啓介は、感動をもって眺め続けていた。それは雄大で、荒々しく、神々しくさえある眺めであった。
 翌朝、インターラーケン・オスト駅から登山電車に乗った。電車は、内部をアンテイーク風に改装した客車二両だけの編成であった。運転手は金髪のほっそりした女性で、検札などの車掌の業務も兼ねていた。電車は残雪の高原をゆっくり進んだ。高原のカーブを曲がるたびに、高度が高くなっていった。鉄道線路の脇の、雪が溶けたばかりの原野には、白色と紫色の丈の短いヒヤシンスの花が一面に咲いていた。ヒヤシンスの花は雪が溶けるのにつれて、山の斜面を駈け登っていくようであった。電車の窓から眺める山容は刻一刻と厳しさと、荘厳さを増してきた。遥かに遠く、高い峰の中腹から、雪解け水を集めて、豊かに堂々と落下し続ける滝が眺められた。滝の手前に、緑の丘陵が開けていて、数十戸の民家が肩を寄せあうように建っていた。この地方で最も奥地の集落ではないか、と思われたが、民家の中には、三階建、四階建の、見るからに堂々とした山荘風の建物も混じっていた。
 クライネ・シャイデックの駅で、暫く待ち合わせの時間があった。ここからアプト式の機関車が牽く電車に乗り換えて、ユングフラウヨッホを目指すことになる。乗り換える電車には、既にスキーを担いだ客や登山姿の客が、カラフルな服装で、大勢乗り込んでいた。
 駅前の広場のベンチでは、燦々と降り注ぐ五月の陽光をのんびりと浴びながら、大勢の観光客がアイガー、メンヒ、ユングフラウの眺望を楽しんでいた。広場に子牛程の大きさのセント・バーナード犬が座っていて、女性達に頭を撫でられたり、一緒に並んで写真を撮られたりしていた。        
 アイガーの中腹に、延々と掘り進んだトンネルの中を、電車はきしむようは音をたてながら、だが力強く進んでいった。途中、電車はトンネルの中で二回止まり、山腹に開けた二カ所のガラス張りの覗き窓から、外界を眺望させるサービスを提供していた。
 客はその都度、停車時間を利用して、外界に向かって延びたトンネルの中を走って覗き窓のある展望台まで行き、アイガー北壁やアイスメールの景色を眺めて、再び走って電車に戻ってきた。山腹の中のユングフラウヨッホ駅から、エレベーターで地上の展望台に出た。外は雲ひとつない晴天であった。広場にはさすがに世界各国から大勢の観光客がつめかけていた。それらの人々は、一様にサングラスをかけて色とりどりのヤッケやジャンバーを着こんで風景を眺め、写真を撮るために、ペンギンが集団で移動するかのような格好で、ヨチヨチと氷面の広場を摺足で移動していた。太陽が燦々と輝いていても、ここでは地表の氷は夏がくるまでは融けることがないような話をしているグループもいた。 
 目の前に、白雪の怒濤が覆いかぶさるような迫力で、四一五八メートルのユングフラウヨッホが立ち上がり、眼下に、ヨーロッパ最長と云われるアレッチ氷河が、白雪の急斜面の裾を延々とひいて遥か彼方に消えていた。その氷河の裾で、春スキーを楽しむ人々の姿が豆粒のように見えた。展望台のある広場では、安全地帯を表示するために境界にポールを立て、黄色のロープを大人の腰程の高さに張り巡らせていた。危なっかしいようでも、人は頑丈な柵よりはかえってこのほうが、警戒してはみ出さないのかも知れなかった。
 野中啓介は、氷河の写真を真上から撮ろうとして、ロープから体を乗り出そうとした。
「テエークケアー」
 誰かが、鋭く叫んだ。だがその時遅く、靴が滑りバランスを失った野中啓介の体は、融けては凍り、融けては凍ることを長い年月繰り返して、固く凍った氷河の上に真逆様に落ちていた。次の瞬間、野中啓介の体は、黒い弾丸のようなスピードで氷河を滑っていた。滑り落ちながら、野中啓介は、ローマからスイスにくる、アルプス越えの飛行機の中で、万年雪の中で眠り続ける、自分の姿をチラと想像し、
「馬鹿な。縁起でもない」
と、強く心の中で打ち消していたことを思い出していた。それから、大きな白い犬が助けにきてくれるに違いない。薄れていく意識の中で、そのことを神様に祈っていた。
(2010)