高野正夫


我がスローライフ


 定年後、すっかりサイクリングにはまってしまった。当初ママチャリで走っていたが、次第にもの足りなくなり、クロスバイクに替えた。多摩川に沿って、しばしば東京湾までも走る。我が家からは往復で、はぼ百キロである。朝六時に出て、奥多摩の山々に太陽が没する頃帰る。約十時間を要する。
 自転車は、自動車はど速くなく、歩くはど遅くもない。ガソリンも不要、定年後の気ままな一人旅にはピックリである。多摩川沿いのサイクリングの素晴らしさは、何と言っても周囲・前方に広がる美しい景観を見ながら風を切って走る、その爽快さにある。快晴なら、北斎が描いたような富士山や、秩父、奥多摩の山並みが、帰路の遥か西方に見える。晩秋から初冬には、西の空は茜色に染まり、河原に広がる白いススキの穂や清流が、微妙に色を変えて行く。
 僕は、岸辺の雑草の中に腰を下ろす。座っている周辺の雑草とは、もうすっかり馴染みになった。写真入りの植物や野鳥の図鑑、動植物の生態や歴史を記した事典なども一緒に持参する。先ず雑草の名前を調べ、植物学的特徴や、花にまつわるエビソードを調べ、そして彼らと交流する。そうして知った彼らはもう、それまでのように、遠くに在った未知の雑草や野鳥ではなくなる。身近な存在・愛しい存在に変身する。
 例えば、秋の堤防を飾る彼岸花。彼岸の頃咲くので、この名がある。花が咲く時期には葉がなく、葉が出る頃には花がない。しかも、何の前ぶれもなく一斉に咲く。墓地の周辺でよく見かけるので「死人花」とか「幽霊花」とか呼ばれ、何となく気味が悪い花であるし、しかし、昔、飢饉の非常時には、その球根が、多くの人の命を救った。だから人家の近くにだけ咲いているのは、人々が危急時の備えとして植えた、正にその歴史の証だと分かる。そうした歴史を知ってから、ヒガンバナへの愛着が一層強くなった。飽食の時代燃えるような朱に染まる花は、出番を失って寂しげにも見える。
 今日は、府中の森芸術劇場に行く。「多摩二十一交響楽団」の定期演奏会である。東京の多摩地区には、アマチュアの優れたオーケストラや、吹奏楽団がたくさんある。たいていは無料で聴ける。僕は、インターネットで近隣の街のコンサートホールのスケジュールを調べる。殆ど毎週どこかの市や町で、コンサーートがある。必ず、サイクリングを兼ねて多摩川沿いを走る。行く時は、川の瀬音や水鳥の声がまるで序曲のように、コンサートへの心の準備をしてくれる。自然の中には、いつも音楽がある。コンサートの余韻は、その音楽と溶け合う。だから、帰路には、コンサートの感動が多摩川でまた増幅する。
 サイクリングでは、面白い人との出会いもある 休憩していると、ベンチで、いろんな人と知り合いになる。先日、多摩湖の湖畔で遇った安倍さんから、面白い鍋を貰った。彼の家は、湖を見下ろす高台の雑木林の中に在った。それでは、うちに寄って下さい、と誘われてお邪魔した。彼に「スローポット」の話を聞き僕も欲しいと言ったら、使ってないものがあるからと、一つくれたのである。スローポットは、仕事で単身中国に滞在中ずっと愛用していたという。陶器鍋の底に弱い熱源が嵌め込んであって、料理には、八時間か九時間かかるという。夜、鍋に野菜、塩、胡椒など放り込んでおけば、翌朝、実に美味しいスープなどが出来上がる。長時間、ぐつぐつ煮込めば、全て貝は粥のように柔らく溶けその美味たるや、筆舌には尽くせない、と安倍さんは褒めそやす。速成を宗とする圧力鍋などの対極にある。正に「スロー一文化」の象徴である。一分でも一秒でも速いのを良しとする現代文明には、背を向けた鍋。ゆっくりと、スローに生きてる今の僕には、正にピッタリではないか。
 サイクリングの隠れた楽しみは、「買い食い」である。子供の頃、学校帰りの道草で、母親にもらった小遣いで、駄菓子や飴をこっそり買って食べたものである。あの頃の秘密めいた、ささやかな悪事の記憶が蘇る。
 血糖値が、正常値の天井に届いた僕は、女房にいつも監視されているから、普段は大好きな酒饅頭などは、まず、絶対に食べる機会がない。サイクリングでは、肉厚のタイ焼きだろうが、豆大福だろうが思うままだ。
 今日は久しぶりの快晴。立川に住んでいる孫の晴香、六歳の誕生日である。お祝いは、庭で真っ赤に熟れたサクランボに、庭の片隅で採れた苺。どちらも、今が丁度旬である。ビニール袋には、一掴みのサクランボを余計に入れた。多摩川のカルガモを思い出したのである。

(※編集部注:彼岸花の球根は有毒であり、そのままでは食べられません。)






ガンがくれたもう一つの世界


 ガンが癒えると、それまでとは異なる世界が見えるようになる。生きていることの幸せ、命あるものへのいとおしみ、この世の全てのものに、命を感ずるアニミズムの世界。
 幸い、僕の肺ガンは、右の上葉にできた、小豆大、五ミリほどの初期ガン。リンパへの転移もなく、胸腔鏡で切除。快復は目ざましかった。切除した右肺の上葉は、三年目には下から上がった中葉が、完全にカバーするように隙間を埋めていた。五年が経過した僕のガンは、すでに完治に向かっている。
 ガンを克服すると、それまでとは全く異なる世界が見えてくる。何もしなくても、心の底から突き上げるような、生の喜びが湧いてくる。よちよち歩きを始めた幼児が、瞳を輝かせて、見るもの、聞くもの、触るもの、全てが喜びの糧であるかのように、歩き回る、あの気分に似ている。
「やることがない」などと、暇を持て余してボヤいている、定年後の「健常者」の、何とぜいたくな言い分かと思えてくる。「消化試合」という言葉が、スポーツの世界にある。プロ野球などで、既に順位は決まっているが、決められた試合数を消化するためだけの試合である。公園などにたむろして、日がな一日なすこともなく、過ごしている老人たちを見ると、この言葉を想い出す。

 ある日の午後、その日、桜はもう盛りを過ぎ、散って舞う花びらが、このマンションにも飛来してきた。僕のマンションは丘の上に在り、前方に桜の植え込みがある。僕は、階下の花吹雪を眺めていた。すると、ベランダの手すりに、大きな黒い蝶が一匹とまっているのに気がついた。戦前、僕の実家には、それに似た蝶が、南面する明るい部屋によく舞い込んだ。祖母は、絶対にその蝶を殺してはいけない、と僕を戒めた。その黒蝶は、戦後の混乱時、肋膜で病死した妹の恵美子が、家に帰ってきたのだから、というのである。祖母のあの話を思い出し、死んだ妹に遇えたような喜びが湧いてきた。僕は、そっと蝶を空に追い立てた。子供たちに捕まるのが心配だった。黒い蝶は、一度上空に舞い上がり、桜の花びらと一緒に、一気に下降していった。また遇えるといいね。僕は蝶を送った。
 去年の冬、マンションのつつじの葉陰に、また黒い蝶が一匹止まっていた。形、色、大きさ、春に見たあの同じ蝶だと思った。俳句では、冬に生き延びた蝶を、「凍蝶」(いてちょう)と言う。寒さを乗り越えて、生き延びた蝶のことである。小さな命が、厳しい冬に耐えている姿に感動する。その蝶は、まるで置物のように、動かない。羽に触れると、微かに触覚が動く。僕は、掌で囲い、少し温めてから、日溜まりの、鬱蒼と重なる椿の葉の裏にそっと蝶をとまらせた。また会おうね、と。
 ガンが癒えて、僕は近くの孟宗竹の藪に、ほぼ毎日、風を聴きにいくようになった。風の中に命を感じるのだ。軽く葉を揺らす風、根元から最上の葉まで、大きく揺らしながら風雨に打たれる竹のそよぎ、雪をさらさらと葉に受ける風、風に命を感じるのだ。風の音は、ただの音ではない。竹の葉擦れの音の中に、命がある。その竹藪は、スズメたちのねぐらにもなっている。夕方になると、スズメの群れが帰ってくる。細い竹の枝のそよぎは彼らを優しく迎え入れる。母親が乳飲み子を抱くように。
 ベランダの小さな植木鉢に、四十センチほどのキンモクセイの木がある。今年は、例年になくびっしりと、可愛い淡黄色の花を付けた。よく見ると、一匹のアリが、その花の一つに止まって蜜を吸っている。からだ中に花粉をつけて。僕の階は七階。地上から二十メートルほどの高さである。一体ここまでどのようにして這い上がって来たのだろうか? アリの大きさを考えれば、人間が、アルプスに登った高さにも匹敵するはずである。アリは、地上で、あの微かな芳香を感知したのだろうか? 一体、何処で、どのようにして、花の在り処を知ったのだろうか? 小さなアリが、たった一匹で、ここまで上ってきた、そのエネルギー、執念に感動した。掌に乗せ、しばらく、アリのせわしない動きを眼で追った。何と可愛い生き物よ!

 自然の中で、様々な生き物が必死に生きようとしている。その姿から、私達は命の輝き命の力を学ぶ。そのいとおしさに押されて、小さな命と交歓する。ガンがくれたもう一つの世界である。
(2011)